Episode49:若き女王の勅命
この世界はたった一本の巨大な世界樹によって支えられている。
その樹は何よりも高く、何よりも強く、何よりも尊い。
ゆえにその樹には名はなく、誰もが世界樹と称して呼んでいる。
遠い遠い、太古の昔より聳え立つ大樹。
決して枯れず、決して倒れず、決して滅びぬその樹は、この世界の象徴でもあり、世界そのものでもあった。
人が二本の足で地面を歩くよりも、獣が四本の足で地を駆けるよりも、鳥が自由に空を飛ぶよりも早く、大樹は生まれ、休むことなく成長を続け、ついには世界の根となった。
たった一本の樹は、この広い世界を支えるにはあまりにも不安定で、しかしそれ以上に力強かった。
天まで届くその枝葉は、常に瑞々しい緑に染まり、どれだけの雨風をその身に受けても傾くことさえしない。
それは人々から見れば、ありとあらゆる意味での希望だった。
だが……。
そんな考え方こそが、浅はかなものだったのかもしれない。
考えても見ればいい。
永遠など、世界のどこにも存在はしないのだ。
人に限らず、命あるものが生まれたその瞬間から死を背負うように、大樹もれっきとした一つの命である。
ただその寿命が、比べ物にならないほどに長いだけの話であって、決して永遠ではない。
そして命ある限り、常に危険はその身にまとわり付く。
そんな簡単なことに、誰も気付かない。
いや、気付いているのにそうではないフリをしているだけなのかもしれない。
世界だって、命があること。
世界だって、生まれたこと。
生まれた以上、いつか必ず死を迎えること。
それは日々の流れと同じことだ。
朝を迎え、昼を経て、夜に至る。
当たり前すぎるそんなことだからこそ、誰も気付かないのだろう。
世界は確実に、終わりへの道を歩んでいるということ。
それは、この世界でさえも神話やおとぎ話としてしか認知されていない、遠い昔の一説。
光が生まれ、闇が生まれた。
世界も生まれ、やがて終わる。
――ワールドエンド。
生まれたら死ぬ、それだけの自然の摂理。
それは、この世界にも当てはまるという、ただ、それだけのことに過ぎなかった……。
「……、……ください、……」
「……ん?」
軽く肩を揺すられているその感覚に、私は浅いまどろみを押し殺しながら唸った。
「起きてください、隊長」
「……ああ。何だ?」
「ああ、何だ? じゃありません。こんなところでうたた寝していると、またトール様から怒鳴られてしまいますよ?」
「……ああ」
「ですから……」
呆れたような顔をして、私の目の前にいる騎士……トライは頭を抱えていた。
「……また眠ってしまっていたのか。トライ、私はどのくらい眠っていた?」
「一時間ほどです。正確に言えば、一時間四分二十六秒になりますが……」
「ああ、分かった。もういい」
毎度の事ながら、トライは几帳面すぎるというか神経が細すぎる男だ。
もう少し大雑把に物事を捉えてもいいのではないだろうか?
見ているこちらが気疲れを感じてしまう。
「……と、もう正午か。ん? 確か今日は、正午から会議が入っていなかったか?」
「ですから、そのことで起こしにきたのです。急がないと、本当にトール様の雷が落ちますよ」
「それはいかん。急がねば。ではま、トライ。ああ、資料は私の私室の机の上に置いておいてくれ」
会議に遅刻だけはするわけにはいかない。
私は騎士の鎧に身をまとったまま、城内の中央に位置する会議室へと向かった。
鉄の匂いが染み付いたこの鎧も、いつのまにか重さを感じなくなっていた。
思い返せば、ほんの少し前まではこの銀の鎧も真っ赤な血の色で染まり返っていたというのに……。
「ファ……」
私は急ぎながら、あくびを一つ噛み殺した。
これは一種の平和ボケ、なのかもしれない。
ふと、城内の広い廊下から城下の街並みを覗き見る。
天気はよく、街並みはいつもと変わらずに賑やかな空気を見せている。
これが、平和というものなのだろう。
「っと、いかんいかん。急がなくては」
そう呟いて私……シルフィア・ウィンドガードは、城内の廊下を急ぎ足で走った。
私が会議室の扉を押し開けるとほぼ同時に、正午を知らせる大時計の鐘の音が城内に響き渡った。
ギィと、重く大きな扉を私は押し開ける。
中にはすでに主要人物の姿がずらりと揃っており、どうやら私は遅刻をギリギリのところで免れたようだった。
ふと目が合ったトールが何やら不服そうな顔をしていたが、今は黙って何も言わないでおこう。
所定の席に着き、しばし無言の沈黙が流れる。
広い部屋なのだが、集められた人物は私を含めてわずかに三人しかいない。
その私達三人は、上座の席を残した位置に三角形になるように座っている。
私の正面に座るのが、城内の騎士団を一手にまとめる総団長、トール・ライトニングガード。
そして私とトールからちょうと等距離に座る物静かな男が、私と同じく騎士団長を勤めるアクエリアス・アクアガードである。
ちなみに私達の名前に付くウィンドガード、ライトニングガード、アクアガードというのは当然ながら本名ではない。
これらはいわゆる二つ名のようなものであって、その由来は今から数年ほど前に起きた二大陸間の戦争にある。
結論から言えば、その戦争は今から三年ほど前に締結している。
そのとき、戦争の中で功績を残したものに送られる、いわば称号のようなものとして授けられたのがこの二つ名である。
しかし、功績を認められて送られた称号といってもあまりいい気分はしない。
あの戦争で、私もトールもアクエリアスも、数え切れないほどの命を奪ってきた。
また、同じ数だけ死線を越えてきた。
目を閉じれば今だって鮮明に思い出すことができる。
轟々と燃え盛る大地の中、互いに返り血を浴び続けて腐食した鎧を身にまとい、金属同士がぶつかりあう音だけに意識を研ぎ澄ましたあの、地獄のような日々が……。
「皆さん、お待たせして申し訳ありませんでした」
と、私の思考はそこで一度中断する。
その声を合図に、私達三人は同時に席を立ち、今やってきたその人物に目を向け、右手を胸に添え、深く一礼をする。
白いドレスに身を包んだその人物は、まだ十七歳という若さにしてこの国、クリムゾニアを統治する女王。
その名を、アークティア・クリムゾンという。
「お待ちしていました、女王陛下」
私達を代表し、トールが答える。
「トール……その、女王陛下というのはどうにかなりませんか? 確かに私は立場上、そういう位置に座してはいますが、どうにも実感が沸かないというか……」
「それでしたら、せめて姫と呼ぶことをお許しください」
「普通に、アークティアと名前で呼ぶわけには……」
「それはなりません。恐れ多くも、姫はこの国を背負って立つ女王なのですから」
「……はぁ。相変わらず真面目なのですね、トールは」
そんなやりとりを見届けていると、ふいにアクエリアスが口を開いた。
「恐れながら姫。今日は一体どのようなご用件で、我ら騎士団長をお呼び立てになったのですか?」
「あ、はい。そうでした。では、今からそのことについてお話します。お座りになってください」
姫の言葉に従い、私達は再び腰を下ろす。
「クレイオ、礼の資料を皆さんに配ってあげてください」
「かしこまりました」
クレイオと呼ばれる男は、姫の側近を勤める秘書だ。
戦争があった頃は参謀として前線に立っていたが、その戦争の最中で傷を負い、戦争締結と共に騎士団を退役した。
その後はこうして姫の側近を勤め、身の回りの世話や補助を中心に活動している。
「それでは皆様、お手元の資料をご覧ください」
姫の代言として、クレイオが言う。
私達は言われたとおり、手元に配られた資料に目を通した。
「……クレイオ、これは?」
「はい。ご覧の通り、近年になってからの我が国とその近辺の街などで、相次いで行方不明者が続出しています」
「行方不明者だと?」
「はい。民の多くは、自給自足か城への奉公、あるいは個人で狩りや傭兵などをして生計を立てているものがほとんどです。中には騎士団に所属している青年達や、聖堂教会に所属している女性達もいるのですが……」
ピラリと一枚資料をめくり、クレイオは続けた。
「その中でも、特に個人で狩を行っている者達が相次いで行方不明になっているという通達が届いています。多くの者はいつもと変わらずに狩りへ出かけ、そして数日経ってもそのまま帰ってこないとのことです」
「……それはまた、妙ですね……」
アクエリアスが呟く。
「どういうことだ? アクエリアス」
すぐさまトールが聞き返した。
「この辺りで狩りをするとなると、東にあるゲルトの森が主要な場所となるでしょう。あの森では工芸品や衣類の材料として多く使われる猪の毛皮がよく取れます。また、猪の肉は主食や非常食としても優れているので、一度の狩りで効率よく稼ぎを得ることができるのです」
「その通りです。兵に聞き込みをさせたところ、城下で暮らす多くの狩人達もゲルトの森を主要狩場としていることが分かりました」
「だが、それと行方不明者とどういう繋がりがあるというのだ?」
「……場所か。そうだな? アクエリアス」
私がそう聞き返すと、アクエリアスは静かに頷いた。
「ええ、そうです。ゲルトの森はここから歩いても三十分ほどで辿り着く距離にあります。加えて、その道のりには危険な場所は何一つ存在しない。ということは、少なくともゲルトの森の中では誰一人として行方不明者が出てはいないということです」
「どういうことだ? 現に何人もの行方不明者が出ているのだぞ?」
「つまり、ゲルトの森以外の場所でその者達は行方をくらましていると、そういうことなのだろう? アクエリアス」
「その通り。そしてこの付近にそんな場所は、一ヶ所しかありません」
言われて、誰もが同時に頭の中でその場所を思い描いた。
「――狼王の住処です」
と、姫は呟くようにその場所を口にした。
狼王の住処とは、ここから北西に位置する場所にある山脈地帯を越えた向こうにある、霧深い密林のことだ。
気候の影響で、年中のほとんどを深い霧に包まれていると聞いている。
そしてその森には、その名のごとく多くの狼が生息しているらしい。
そしてその狼達を統率し、密林そのものを支配しているのが、フェンリルと呼ばれる狼である。
一説によると、フェンリルはこの世界が誕生した際にいち早く生を受けた狼であり、精霊の加護を受け人語を理解し話すこともできるのだという。
もっとも、今までに確かめた人間は誰一人としていないのだが。
「狼王の住処とは、また厄介なところに足を向ける者もいたものだな」
「ええ。それなのですが、あの密林の奥には様々な病気に効能を発揮する万能薬、オリビアの花が育つという話を聞いたことがあります」
「オリビアの花? あの、聖書にも出てくる特効薬のことですか? それが本当だとすれば、確かに危険を承知で採取に行く可能性はあるかもしれませんね……」
「なるほど。確かにそれは好奇心を騒ぎ立てられるのも無理はなかろう。だが、結果として命を落とすようなことでは元も子もないな」
「そこで、皆さんをお呼びしたわけなのです」
クレイオがそこで言葉を区切り、続く言葉を姫が受け継いだ。
「狼王の住処へ赴いて、真偽を確かめてほしいのです。そして、行方不明となった人々を助けてもらいたいのです」
「……姫、お言葉ですが、狼王の住処は熟練の狩人でも滅多に足を踏み入れない、まさに魔境と呼ぶに相応しい場所です。最悪の場合を想定すると、行方不明者達はすでに命を落としている可能性もあります」
「……そうだとしたら、なおさらです。遺族のためにも、ちゃんと墓を作って弔ってあげるべきです」
「……分かりました。引き受けましょうぞ」
「ええ。そうですね」
「心得ました。必ずやご期待に沿える結果を」
私達三人は揃って姫の言葉を承諾した。
「ありがとうぎざいます、皆さん。では、改めて……」
一呼吸置き、姫は告げた。
「――騎士団長各位に命じます。明朝、各部隊を率いて狼王の住処へと向かってください。行方不明者の救助を最優先するものとし、それと同時に各々の命の重さを忘れずに行動すること。よろしいですね?」
「その命、しかと承りました」
「御意のままに」
「クリムゾンの名において」
私達三人は、各々の鎧の左胸に記された真紅の炎の刻印に右手を添え、誓った。
「貴殿らに、赤の宝珠の加護があらんことを……」
最後にクレイオがそう結び、この日の会議は終わりを迎えた。
さて、勢いで始まった回想編の第一回目です。
いつも拝読ありがとうございます、作者のやくもです、こんにちは。
結論から言って、多少読みづらくなってしまうところはやはりあるかと思います。
その点に関しては読者の皆様に迷惑になってしまうことを、あらかじめお詫びしておきます。
もともと私もファンタジーの時代背景やキャラクター設定は好んでやっていたことあったのですが、当時はどうしてもそれを物語りに組み込むことが敵いませんでした。
だからというわけではありませんが、この物語の中でそんな世界観が少しでも表現できればいいなと思って書いています。
正直、私のワガママです。
それでも付き合ってやるか、仕方ないな。
乗りかかった船だ、最後まで目は通してやろうという皆様、どぞお付き合いのほどを。
それでは、時代背景の変わった回想編をお楽しみくださいませ。