Episode45:灰色のセカイ
「で、どうしてこういう展開になるわけよ!」
走りながら飛鳥はグチをこぼしていた。
「どうもこうもないでしょう。喋る暇があったら足を動かしてください」
一足早く先頭を走る氷室が、振り返らずにそう告げた。
「ねぇ、これってやっぱり……」
僕がそう言いかけて、そのあとに続く言葉を氷室が代弁する。
「ええ、恐らくはそうでしょう。月見沢高校に周辺の目を向かせて、その間に他の場所の封印を開放するつもりです。あれだけ目立つ氷のオブジェを野放しにしておけば、嫌でも世間の目はそっちに集中する。そうなれば、他の場所で多少の変化が起きたとしてもまず気付かれる可能性はないですからね」
言いながらも、氷室の走る速度は変わらない。
舌を噛まないでいることに、正直驚いた。
事の発端は、車での移動中に起きた。
氷室の事務所へと向かう途中、車は大通りの交差点で信号に引っかかった。
その信号が垢から青に変わるのを待つ、ほんの数分の間のことだ。
僕達三人はほぼ同時に、その違和感を感じ取った。
それは流出する力の余波で、それはつまりどこかしらで『Ring』の力の一部が漏れ出しているということに他ならなかった。
しかもその力の余波は、僕達が向かう事務所とはちょうど真逆の方向から流れ出していた。
すぐさま氷室は大通りを迂回し、進行方向を急遽変更することになった。
向かう先は、僕の住む住宅街の地区よりさらに先。
都市開発計画が途中で中断されたまま、今は広い空き地になってしまった場所。
その場所は僕達にも知ることのできた、三ヶ所の封印のうちの一ヶ所だ。
「私は少し、事態を緩く考えていたのかもしれません」
走る速度をそのままに、氷室は呟く。
「封印という言葉の持つ意味から、無意識のうちに容易く解けるものではないものだと、そう思い込んでいたのかもしれません。しかし、それは大きな間違いでした。これらの封印はあっけなく開放される。言うなれば、ただ紙袋の封を破くくらいに簡単に。そしてそれができるのが、私達のような一部の能力者という存在なのでしょう」
気のせいか、氷室の言葉にはどこか焦りが感じられた。
しかしそれは、まんざら気のせいばかりというわけでもなかった。
落ち着いて考えてみれば分かる。
すでに二つ、封印は開放されている。
そしてそのどちらもが、僕達から見た敵側の戦力を増大させる封印の開放になっているからだ。
最初は炎、次は氷。
どちらも僕達が持つ、風、雷、水とは違うものだ。
だからもしも、今僕達が向かう先の封印が、またしても敵側の戦力を増加させる封印であるとしたら……。
「…………」
僕は押し黙る。
同時に思い返す。
あのとき、炎使いの力が格段に上昇していたことを。
その溢れる力の一端は、いともたやすく氷室と飛鳥に大きな傷を負わせていることを。
もう、目の前であんな風に誰かが傷付いていく様を見るのはまっぴらだ。
もしもそうならざるを得ない状況に立ち会ったのなら、僕は……。
――何を犠牲にしても、二人を守ってみせる。
「あー、もう! いちいちネガティブ思考に走るんじゃないわよ!」
と、ふいに飛鳥が怒鳴る。
僕と氷室は揃ってその方向を振り返り、続く言葉に耳を傾けた。
「黙って聞いてれば悪い方向にばっかり物事を考えて、少しは前向きになりなさいよ氷室。アンタらしくもない」
「飛鳥……」
「…………」
その言葉に、氷室は走る速度を落とさずに、そしてどうしてかわずかに微笑んだ。
「……何よ、何がおかしいの?」
「……いえ、おかしくはありません。ただ……いえ、やはりやめておきましょう」
「うー、何よそれ! 何かすっごい気になるんですけど!」
にわかに騒ぎ出す飛鳥。
しかしこんな光景こそが、いつもの僕達を取り巻くものだったような気がしてならなかった。
「……二人とも、お喋りはいいけど、今は急がないと。そうでしょ?」
と、僕は合間を縫ってそう告げる。
「ええ、そうですね。急ぎましょう」
「あ、こら! 話を逸らすな! 氷室! 大和!」
そうして僕達三人は走り抜けていく。
やたら広大な空き地に人気はなく、代わりに乱気流のように乱れた力の余波だけが、僕達を静かに待ち受けていた。
今まさに朝食を胃の中に詰め込んでやろうという、そのときのことだ。
「……あ?」
真吾はその例えようのない違和感を、針で刺された程度の小さな刺激で感じ取った。
「…………」
そして訝しげな表情のままで、窓の外の空を見上げる。
天気は曇りで、しかしその他にこれといって目立つ空模様ではない。
遠くに雨雲のような塊は見えるが、真上にやってくるのは恐らく夕方か夜以降のことだろう。
だが、感じ取った違和感はそんなことではなく……。
「……またこの感じか? 最近になってから、これでもう三度目だぞ?」
「シンゴー、どうしたんだー?」
と、隣に座る大樹が真吾の様子に気付いて二の腕を突っついてくる。
「ん? ああ、何でもねーよ」
一度視線を食卓に戻し、再び箸を持ち茶碗を持つが、どうしてか食べる気が起きない。
後ろ髪引かれるようなそんな思いで、真吾はもう一度背後の空を振り返った。
瞬間、空がグニャリと歪んで見えた。
それと同時に、とんでもない量の力の余波がある一点に集中していることが分かる。
「……おい、まさかこれは、封印が開放されてるんじゃ……」
そう呟きかけたところで、真吾の額にベシリと何かが直撃した。
直撃したそれは、間もなくして顔から剥がれ落ちて膝の上にボトリと落下する。
見ると、それは台布巾だった。
「食事中に余所見するな。それと、ブツブツワケの分からない独り言もしないの」
投げつけたのは対面に座る優希だった。
「テメ……布巾を投げつけるな、布巾を」
「お皿投げられるよりマシでしょ。ほら、黙って食べる」
「……コノヤロ」
しぶしぶ前を向き直る真吾だったが、やはり胸の内では迷いが生じたままだ。
かれこれ、これと同じような力の余波を感じ取ったのはこれで三度目。
過去の二度は、それこそごく最近のことだ。
こう立て続けに同じようなことが連続して起こるということは、やはりそれは単なる偶然の重なりとして処理するわけにもいかない。
一度目は偶然で通じるが、二度三度続けばそれはもはや必然でしかない。
そうである以上、やはり放っておくわけにはいかないだろう。
チラと、真吾は食卓に座る全員の顔を眺めた。
数日前、間接的とはいえ真吾はここにいる全員の命を巻き込みかねない戦いに遭遇している。
そのときは幸い、大事には至らずにはすんだものの、一歩間違えれば大惨事になっていたことは明白だ。
そうなった原因はやはり、真吾の身に宿っているその『Ring』の力のせいなのだろう。
変わり者は変わり者を呼び寄せ、力は力を呼び寄せるものだ。
この世界は面白くできていて、珍しいものほど一点に集中していく傾向にある。
もはやそれは説明の領域を超えた一種の摂理であり、誰の手にも妨害できるようなものではないのだと、真吾はすでに知っている。
だから今、真吾が置かれているこの現状さえも、くだらない運命とやらの暇潰しの一つにしか過ぎないのだ。
それはそれで腹立たしいことこの上ないが、逆らう相手が運命では勝ち目はないと見ていいだろう。
ところが、だ。
勝ち目がないからといって、素直に諦めがつくほど、この男は……。
――緋乃宮真吾という男は、物分りのいい人間ではない。
カチャリと、食卓の上に手付かずのままの茶碗と箸を置く。
その音に気付いて、対面に座る優希がどこか不思議そうに真吾を見ていた。
「……真吾、食べないの? やっぱりアンタ、どっか具合でも悪いんじゃないの?」
優希のその言葉に、園長の斎も真吾の方を見る。
「どうしたの、真吾君? 食事、全然手付かずのままじゃないの」
口に合わなかったのかしらと、斎はどこか残念そうな表情で呟いた。
「いや、そーゆーんじゃねーけどさ、ちょっと……」
そしてもう一度だけ、真吾は背後の空を振り返る。
歪んだ空は変わらずに、乱れたままでそこに浮いていた。
「……百聞より一見か。都合のいい言葉だが、この場合では真実だな」
「ちょっと、何ブツブツ言って……」
優希の言葉を最後まで聞くよりも早く、真吾は立ち上がる。
「……真吾?」
「悪い。ちょっと急用。出かけてくるわ」
たった一言、簡潔すぎる言葉を残して真吾はその場をあとにする。
「ちょ、ちょっと真吾!」
呼び止める優希の言葉も無視して、廊下を走り抜けて玄関へと向かった。
引き戸を開け放ち、まだ朝の早い空の下に出る。
一見、普段と何も変わらない、ただ曇っただけの空。
しかしそれは、真吾から見れば十分異質なものだった。
「……向こうか。ここからじゃちっと遠いな……間に合うか?」
しかし考える猶予などは最初から用意されていない。
それに、確かめなくてはいけないこともある。
真実を得るためなら、それに見合った労力は当然というものだ。
「……ったく、ホンットに面倒くせーことになってやがるな……」
グチをこぼし、走り出す。
「これなら、あのメガネ兄さんがやれやれって繰り返すのも頷けるぜ……ホント、やれやれだな」
靴音がアスファルトの地面を叩く。
曇天によく似た灰色は、どこまでも真っ直ぐに続いていた。