Episode44:また、朝を迎えて
旧校舎全体は氷漬けなので、当然のように入り口らしきものは見えてもそこも氷で塞がれてしまっている。
「……ダメですね。思ったとおり、どの出入り口も完全に氷漬けになってます。これでは中には入りようがない」
溜め息を一つついて、氷室は言う。
「それにしたって、何だってわざわざこんなものを残していったんだろ? まるで見せしめみたい」
「見せしめ、ですか。言いえて妙ですね、それは。ですが、少なからず理由はあるはずですよ。こうなった以上、ニュースなどで何らかの怪奇現象という形で捉えられる可能性は高い。何の理由もなくそれだけのリスクを負ったとは考えにくい」
僕達は旧校舎裏の敷地を歩きながら、各々にそんなことを考えていた。
学校側が手配し、すでに人払いが済んでいるせいだろうか、旧校舎付近には誰一人の姿も見当たらず、凍てついた冷気だけが広がっている。
吐き出す息も真っ白に濁り、それだけで気温の低さが窺えた。
実際僕も体を小刻みに震わせているし、飛鳥も寒そうに両腕を抱えている。
氷室だけが何ともなさそうな表情を見せてはいるが、実際はどうなのかはよく分からなかった。
「氷室、この後どうするの?」
僕は疑問を投げかけた。
見た感じ、もうここには僕達が求める手がかりのようなものは何一つとして残されていないように思える。
つまりこの氷漬けの旧校舎は、もはや何の意味も持たないものなのではないだろうか?
正真正銘の見せしめのような、ただの捨て置かれたものの一つに過ぎないのではないだろうか?
「そうですね……。仮にこれが、私達をこの場におびき寄せるための撒き餌のようなものだとすると、そうする理由は大きく考えて二つあります」
二本の指を立て、氷室は続ける。
「一つは、この誘い出しそのものが敵方の仕掛けた罠ということ。早い話が、我々を一網打尽にするとか、そういう意味合いです。そしてもう一つは、ただ私達をこの場に居留まらせておくためだけのものです」
「だけって、どういうこと?」
「つまり、何らかの理由で私達をこの場所に拘束させているということ。言い換えれば、私達が揃ってこの場所に居るということは、同時に他の場所の封印から離しておけるということです」
「じゃあ、もしかしたら今頃、別の場所の封印が……?」
「可能性はあります。ですが、そうと分かっても私達は立場が不利です。私達が今知っている残りの封印の場所はあと二ヶ所。それに対して、敵側がいくつまで封印の場所を把握しているのか見当がつきません。闇雲に当たっても、結果として私達が遅れを取るという現状は変わらないでしょう」
「けど、だったらどうしろっていうのよ?」
「…………」
飛鳥の問いに氷室は黙り込んだ。
やはり後手に回っている上に情報が少ないとなれば、この結果はやむをえないものなのだろうか……。
「……もう少し、辺りを調べてみましょう。とりあえず、ここにあった封印が何の封印だったのか。言わなくても見当はつきますが、念のために確認しておきたい」
そう言うと、氷室は周囲を見渡し始めた。
僕達もそれに続き、周辺を歩き回る。
探し出して数分後、校舎裏のその一角で飛鳥がそれを見つけた。
「ねぇ、これってあれじゃない? 森林公園にも似たようなのがあったやつ」
そう言って指差す飛鳥の前には、灰色の石碑がポツンと佇んでいた。
「失礼、ちょっと見せてください」
氷室はしゃがみこみ、その石碑のあちこちに目を通す。
「……間違いないようです。ここを見てください。前と同じように、何かの窪みのような記号が掘り込まれています」
指差したそこに、確かに掘り込まれた記号の羅列があった。
しかしそこに、以前と同じような強い赤色は残っていない。
「……どうやら、封印が開放されると石碑もただの石に成り下がるようですね。今のここからは、まるで力の余波を感じない」
指先で記号をなぞりながら、氷室は言う。
「……なるほど。今更ですが、やはりここの封印は氷の封印だったようですね」
言って、背後に聳え立つ氷漬けの旧校舎を見上げる。
凍結した氷はどの場所も溶ける様子を見せず、今もなお呼吸するかのように白い霧を吐き出し続けている。
「……これからどうするの?」
「……一度、ここを離れましょう。じきに警察関係者なども駆けつけるかもしれませんし、そうなれば厄介です」
仕方なく僕達は、乗り越えたフェンスをもう一度よじ登り、枯れ葉の道を歩いて車へと戻った。
車に乗り込み、僕達が一般の車道を走り出した頃、どこからかサイレンのような音が聞こえてきた。
その音を耳の端で捉えながら、僕達を乗せた車は氷室の事務所へと向かっていく。
目覚めが悪いのはいつものことだ。
が、今日に限ってそれは例外の悪さだった。
普段なら誰よりも寝坊し、優希の怒鳴り声にも屈さず、しかし暴れ馬のようにまたがる大樹に鬱陶しさを覚えながらしぶしぶと起き上がり、腹いせに大樹の頭を引っぱたく代わりに優希から後頭部を殴られる。
こうして真吾の朝はいつも始まりを迎えるはずだった。
だが、今日は違う。
「…………」
ムクリと上体だけを起こす。
辺りはまだ薄暗く、早朝であることが窺えた。
同じ部屋で眠っている大樹を始めとした男子諸君も、今はまだ覚めかけの夢の世界に浸ったまま。
真吾だけがどういうわけか、自分でもおかしいと思うくらいに目を覚ましていた。
しかし目を覚ました時間帯そのものは、決して早すぎるものではない。
すでに新聞配達などとっくに終わっているし、近所の元気なお年寄りの方々ははりきってジョギングに精を出している。
こうしている今だって、少し耳を澄ませば台所から鍋の揺れるコトコトという音と、まな板の上で包丁を叩く音が聞こえてくる。
恐らくは園長が朝食の準備をしているのだろう。
「……何だってんだ、一体」
開口一番、真吾はぼやいた。
頭が重く、疲れがまるで抜けきっていない感じだった。
確かに昨夜は遅くまで子供達の相手をしていて、相当疲れ切っていたのを覚えている。
何しろ相手にする人数が二人や三人ではなく、十人以上なのだから無理もない。
途中何度もとび蹴りをかましてきた者に関しては、まだ整備が終わってない庭の穴の中に投げ捨ててやろうかとも思ったが、実行すればそれはある意味で大事件なのでやめておいた。
とまぁ、そんな昨日までの経緯は正直どうでもいい。
問題は、どうして今日に限ってこうムダに目覚めが早いのかということだ。
疲れは眠気がすっかり消し飛んでいるのならまだいい。
しかし、体のあちこちにくすぶるように残った疲労は隠し切れない。
もう一度眠ってしまおうかとも思ったが、それはそれで面倒くさい気もした。
仕方なく真吾は立ち上がり、とりあえず冷たい水で顔でも洗ってくることにする。
秋と冬のちょうど真ん中に当たる今の時期、早朝の空気は日に日に冷え込みを増していた。
裸足で歩く廊下からは氷のような冷たさがひしひしと伝わってきて、真吾もその冷たさには思わず浮き足になりそうになる。
洗面所で顔を洗い、タオルで顔を拭きながら廊下に顔を出すと、そこでばったり優希とでくわした。
「うわぁっ!」
と、優希はまるでバケモノでも見たかのような顔で数歩ほど飛び退いた。
朝っぱらからこの態度は失礼極まりないものである。
「……おい、何だその反応は。人をバケモノ扱いすんじゃねー」
「だ、だってさ。あー、ビックリした。まさか真吾がこんな早くに起き出してるなんて、夢かと思った」
「勝手に人の夢を見んな。ったく……」
「それで? どういう風の吹き回しよ。ひょっとして、具合でも悪いの?」
やや顔を覗きこむように、優希は真吾に近づく。
「そんなんじゃねーよ。たまたまだ、たまたま」
と、一応口ではそう返しておく。
だが実際は、当たらずとも遠からずと言ったところだろうか。
先日の氷使いの襲撃以来、今のところは真吾の周囲に異変は見当たらない。
そう、あくまでも、周囲には。
つまり異変は、真吾の内側の部分からは徐々に滲み出しているということだ。
それは絶対に、体調の変化などと違って他人の目で見極められたりするような代物ではない。
ないのだが、どうしてだろうか……。
「……真吾?」
「何だよ、うっせーな……」
そう言いかけて、真吾は押し黙る。
目の前の優希の視線が、なぜだか自分の全てを見透かしているかのような、そんな風に思えて……。
「……ううん、何でもない。気のせいだった」
「…………」
アハハと、そう言って小さく笑う優希の姿はいつもと同じものだ。
かれこれ十年以上も同じ場所で育ってきた、言わば兄妹のような関係の人物。
だから、なのだろうか。
時々、何もかもを見透かされているんじゃないだろうかという、そんな視線を感じてしまうのは。
「……チッ、アホクセー」
それは、誰に対して呟いたセリフだったのだろうか。
聞こえるか聞こえないかの小声で呟いたそれは、朝の空気に静かに溶けて消えた。
そして真吾は洗面所をあとにする。
疲れは残ったままだが、眠気はすっかり消えていた。
朝食の準備でも手伝ってやろうかと、真吾は真っ直ぐに食堂へと歩き出す。
その背中を、優希の一言が引きとめた。
「真吾」
「あん?」
「寝癖。カッコ悪いぞ」
そう言って、髪の毛を指差す優希。
触れてみると、頭のてっぺんに一本だけアンテナが立っていた。
真吾はそれをグシグシとてのひらで押し潰して、そのまま無言で廊下を歩き出した。
背中から、微かに優希の笑い声が聞こえた。
その優しい声が、どうしてか……。
少しだけ、痛かった。




