Episode42:知らぬ間の開放
今日も一日、色々なことがあった。
思えば、この『Ring』に関わるようになってから、一日一日がやけに長く感じるようになった気がする。
まぁ、それも無理もないことなのだろう。
言ってみれば、毎日が新発見や驚きの連続で溢れているわけなのだ。
しかもそれが、大半は命に関わる危険性を伴っている。
よくまぁ今日も無事に生き延びることができたものだと、僕は眠る前に考えずにはいられなかった。
しかしとにかく、今日という日はもう終わろうとしている。
部屋の壁掛け時計に目を向けた。
時計が告げる二十四時はもう間もなくだ。
明日は明日で、また一見していつもと変わらない日常が幕を開けるのだろう。
しかしその裏側で、今度は一体何が起こるというのだろうか?
残された封印はあと七つ。
その中で僕達が場所を特定できているのは残り二ヶ所。
それらは何の封印が施されているのだろうか?
考えたところで、今の僕には見当もつかなかった。
それどころか、今は疲れ切ったこの体を起こすことさえも苦しくて仕方がない。
シルフィアの言葉をそのまま借りるのならば、これは僕が使った力に対する反動だそうだ。
まだ封印開放に至らず、にもかかわらずに大量の力を消費してしまったため、僕の体は言わばガス欠寸前の車のようなものだという。
休息を取れば疲労などもすぐに回復するだろうとの事だが、なるほど、確かにこれはキツイ。
オーバードライブとでも言えば分かりやすいだろうか、ちょうどそんな現象を体感しているようだった。
まぁ、何はともあれ、今日はもうゆっくりと休むことにしよう。
そろそろ睡魔も限界だ。
僕は部屋の電気を消し、暗がりの中で静かに目を閉じた。
睡魔はすぐにやってきて、そのまま僕を見えない夢の中へと運んでくれた。
同時刻、県立月見沢高校校舎の一角。
月見沢高校は新校舎と旧校舎に棟が分かれており、基本的に新校舎の方で一般生徒達の授業などが行われる。
旧校舎はと言うと、主に文科系や同好会系統の部室代わりとして放課後の時間帯をメインに使われる、言わば離れのようなものだ。
そして今、場所はその旧校舎の裏手。
もう間もなく日付が変わる真夜中にもかかわらず、月明かりの落ちないその暗がりの中に佇む人影が二つ。
一人はその闇の色に解けるように黒い、しかし全身をフリルだらけのかわいらしい服装……いわゆるゴスロリの衣装に身を包み、その腕には大事そうにこれまた真っ黒なウサギにぬいぐるみを抱えた、小柄な少女のもの。
何もかもが真っ黒で染まる中、ウサギのぬいぐるみの赤い目と赤い口、そして耳に結わえられた白いリボンだけがひどく目立っていた。
もう一人は、これと言って特徴のない少年。
歳で言えば十代後半くらいだろうか。
高校生くらいの高くも低くもない背丈、痩せ型とも肥満とも言えない体つき。
ただその何の抑揚もない瞳には、月光さえも凍てつかせる蒼い光が宿っていた。
無造作にポケットの中に両手を突っ込んでただ立ち尽くすだけで、少年の周囲は凍えるほどに冷たくなる。
そんな、組み合わせだけ見れば明らかにギャップさえ感じる二人は、しかし同じ目的の下にこうしてこの場所に立っている。
「……ここが。封印の。一つなの?」
ぬいぐるみを抱えた少女……かりんは呟いた。
「そうらしい。もっとも、これから足で探すことになるがな」
返す言葉は淡々としたもの。
優しさも怒りも込められていない、それこそただ言葉を返すという最低限の行動しか取らない機械じみた低く冷たい声色。
「行くぞ。あまり時間をかけすぎると、人目につくかもしれない」
答えずにかりんは頷き、音もなく歩き出す少年のあとに続いて歩き出した。
旧校舎とはいえ、意外とその敷地全体の面積は広い。
三階建ての木造校舎は一見古びて見えるが、中の設備などはさほど気後れしているものではない。
最低限の設備は今も整っているし、仮にも部活動などで使われる場所だ、倒壊の危険などもない。
過去には何度か取り壊しの話も上がっていたようだが、そのあたりの真偽については不明。
しかしこうして形を残しているのだから、取り壊しの話もいつしかなかったことにはなたのだろうと思う。
と、そんなことをこの二人が知る由はなく。
ヒタヒタと忍ばせるような足音だけを鳴らしながら、二人は旧校舎の裏手を歩いていた。
一見何もない、あるのはただ佇み続ける闇だけの世界。
目を凝らしても一寸先は見えないし、地面を照らす月明かりがない今、頼りになる明かりさえも二人は持ち合わせてはいなかった。
それでも二人は迷うことなく歩き続ける。
それはまるで、見えない何かに引き寄せられているかのように。
「……近い。力の余波が。伝わってきている」
「ああ。どうやらこの辺りみたいだな。アイツの言っていた、氷の封印とやらは……」
言いながら、少年はその足を止めた。
そして今までずっとポケットの中に突っ込んだままだった両手を取り出し、その手を静かに広げた。
シンと静まり返る空間。
その中で、ピキパキと、そんないくつかの音が鳴り出す。
目を凝らして見れば、少年の手の中でいくつもの小さな透明のカケラが生まれているところだった。
闇の中で妖しく輝くそれは、一見ガラス細工のようにも見える。
しかしそれはガラスではなく、少年の力によって空気中の水分が冷えて固まり、氷となった結晶だった。
「……どう? 何か感じる? 日景」
日景と呼ばれた少年はしかしすぐには答えず、ゆっくりと目を閉じてその余波を感じ取っていた。
「……こっちの方向で間違いなさそうだ。さっさと終わらせる」
「……了解」
二人は再び足を動かす。
向かう先にも闇が広がっているだけにしか見えないが、その奥に確かな何かを感じて、二人は歩き続けた。
「……ここだな」
数分ほど歩いて辿り着いた場所は、校舎の裏側の中でもさらに人目につかない一角だった。
暗いばかりで景色はロクに見えたものではないが、実際には二人の目の前には小さな花壇が広がっている。
もっとも、それはかつて花壇として使われていた場所であり、今はもうその中で咲き誇る花の姿は一つもない。
ところどころに雑草が生えているだけで、それは荒れ果てた荒野と何も変わらなかった。
しかしその場所にこそ、封印は施されていた。
力と封印は互いに引き合う。
氷の力を持つ日景と、氷の封印。
その二つがこの場に揃ったことにより、変化は始まる。
「……これは。霧?」
まず最初に、真っ白な霧。
まるで山奥の土地で迎える朝靄のように、その霧は音もなく二人を包み込んだ。
ひんやりと冷気を含んだそれは、かりんの体にわずかながらに寒気を覚えさせた。
「大丈夫か、かりん? 少し離れた方がいいんじゃないのかい?」
腕の中の黒いウサギのぬいぐるみ……クロウサはそう告げた。
「……平気。それに。私じゃないと。赤い碑文は。読み取れない」
「少し下がっていろ、かりん。解放前に力尽きられては話にならない」
「そうそう。ほら、下がった下がった」
日景とクロウサに立て続けに促され、かりんはしぶしぶとその場を離れた。
白い霧はさらにその濃度と密度を増し、ついには日景の体そのものが数メートルの距離越しに完全に隠れてしまった。
「うわ……こりゃすごい冷気の壁だなぁ……」
「……もしかして。クロウサも。寒いの?」
「そんなワケないだろ。オイラは人形なんだから、熱さも寒さも、痛みも何も感じはしないさ」
「……人形……」
「何だよ。急に黙り込んじゃって?」
「……ううん。何でもない。それより。日景が心配」
腕の中のクロウサから視線を外し、かりんは再び白い霧の方を見た。
冷たさはもちろんのこと、その過密さに唖然としてしまう。
まるで世界そのものをその霧で分断してしまっているかのように、例えようのない距離感を感じてしまう。
数歩歩けば踏み入れるはずの場所なのに、それができない。
一足早く真冬の世界に飛び込んでしまったような、そんな妙な錯覚だ。
「ヒカゲのヤツ、大丈夫かなぁ……」
「……心配?」
「そうじゃなくて、オイラが心配なのはかりんの方だよ。もしこのまま開放失敗なんてことになったら、オイラ達じゃ何もできないじゃないか。それどころか、封印が暴走してしまう可能性だってあるんだからさ」
「……それはまた、ずいぶんと……」
と、霧の向こうから声がした。
同時に、空間を隔てていた白い霧が静かに消えていく。
「いらん心労をさせたみたいだな、クロウサ」
そこには、何事もなかった姿のままで日景が立っていた。
「遅いぞヒカゲ。かりんが凍っちゃったらどうするんだ」
「そうならないように、お前がいるんだろ?」
「……フン。まぁ、いいけどさ……」
と、目には分からないがクロウサはやや拗ねてしまっていた。
端から見ればどこか笑えるやり取りも、この状況では微かな笑い声さえも響かない。
「それよりも、続きだ。かりん、碑文を読み上げてくれ」
「……分かった」
晴れた霧の中、そこには変わらずに花壇の残骸が佇んでいた。
しかし、その中心に一つの石碑が姿を現している。
夜の闇の中でやや目立つ、灰色の石碑。
そこに刻まれ、掘り込まれた記号の羅列。
かりんはその窪みを目で読むのではなく、指先で触れて読み始める。
「……我、凍てつく氷河の抱擁を受ける者なり。時の流れさえも凍らせる我が力を求め者よ。我が前にて其の力を示せ。色のない花を咲かせよ。さすれば我は目覚め、汝が力となるだろう」
「色のない花、か……」
わずかに考え、そして日景は迷うことなく力を使った。
その両手に冷気を集中させ、研ぎ澄まされた氷のカケラをいくつも生み出していく。
一つは鋭い切っ先を覗かせる刃にもなり、また一つは丸みを帯びたつぶてにもなる。
そしてそれら全てを、何も咲かない花壇目掛けて打ち付けた。
ザクザクと音を立てながら突き刺さる氷。
しかしそれらは、やはて一つの形を成す。
それは、氷の花。
半透明な結晶体で作られた、バラによく似た氷の花が咲いた。
瞬間、石碑に彫られた記号が赤く染まりあがった。
「……これが。クリムゾン。赤の力……」
呟き、かりんはその輝きに目を伏せた。
閃光のような瞬きはしかし文字通り一瞬で、気がつけば周囲は元の闇色の世界に包まれていた。
「……日景。どう?」
かりんは訊ねる。
対して日景は、その手に新しい力の集合体を具現化させ、答えた。
ヒュンと風切る冷たい刃。
そこに、薄氷の剣が握られていた。
「――ああ。成功だ」
氷の封印は解かれた。
これで、残る封印はあと六つ。
「すでにこちらが二歩リードした。儀式の都合上、封印は最終的に全開放しなくてはならないようだが、どの道こちらの優位には変わりは
ないか」
「……確かに。そう……」
言いかけたかりんのその体が、グラリと揺れる。
「かりん、しっかりしろ!」
叫ぶクロウサの声も、しかし響くだけ。
腕の中のクロウサに、倒れるかりんの体を支えることはできない。
しかし……。
「っと」
「……ヒカゲ」
倒れかけたかりんの体は、日景がしっかりと支えてくれていた。
「そうだったな。かりんは碑文を読むと、相当の力を消耗するんだったな」
「……ああ。もともとかりんの体は、碑文を解読するだけの反動に耐えられる造りじゃないんだ。そんなの、外見だけ見ても十分納得できるだろ?」
「そうだな。確かにこの小さな体には、負担が大きすぎるだろう。だがしかし、それでもかりんはやると決めたのだろう?」
「……そうさ。かりんが自分で決めたんだ。だからオイラは、もう何も言わない。最後までかりんを見届けるって決めたんだ」
「……そうか。なら俺は何も言わないさ」
それだけ言うと、日景はその背にかりんの小さな体を抱きかかえた。
「……ん」
一言だけそう漏らすと、かりんはそのまま小さな寝息を立てて眠り始めてしまった。
「子供はとっくに寝る時間だからな。今日は俺が送っていってやるさ」
「その言葉、かりんが聞いたら怒るぞ。ヒカゲだって子供じゃないかって、四六時中付きまとわれても知らないからな」
「そうなのか? だったら、今のは聞かなかったことにしてくれ」
「さーて、どうしようかなぁ……」
とか何とか呟くクロウサの声を聞きながら、日景はその場をあとにした。
「っと、置き土産を忘れるところだったな」
最後のそう一言呟いて、その手に握った氷の剣を、あの花のない花壇に放り投げた。
サクと音を立て、突き刺さる薄氷の剣。
今はただ、それだけ。
やがて、日景達は音もなくその場から姿を消した。
大和達が何も知らぬ間に、封印はまた一つ開放されていく。
そして、翌日。
そのことを嫌でも知ることになるだろう。
――翌日、大和の通う月見沢高校の旧校舎が氷付けになってその姿を現した。