Episode41:束の間の休息
どういうわけか、僕は生まれて初めてパトカーに乗る羽目になってしまった。
というのも、氷室が電話で呼んだ竹上という人は、現役の刑事だったのだ。
確かに迎えに来てくれたのだが、だからといってわざわざご丁寧にパトカーを引っ張り出してやってくることもないんじゃないだろうかと、僕は未だに頭を悩ませずにはいられなかった。
とまぁ、多少のいざこざはあったものの、僕達は竹上さんとその部下の万代さんのおかげで、今はこうして無事に氷室の事務所へと戻ってきていた。
僕はてっきり病院へと直行するものとばかり思っていた。
何しろ、僕はともかくとして、氷室と飛鳥は目で見ても分かるほどの怪我を負っていたからだ。
特に氷室は、ワイシャツの大半部分を血で真っ赤に染めているのだ。
素人目に見たって、それが重症かそうでないかの違いくらいは判別できる。
しかし氷室は病院へは向かわず、真っ直ぐに事務所へ向かうように竹上さんに頼んでいた。
当然、竹上さんとしても見た目重症な氷室を病院へと運ばないわけにはいかなかったはずだろう。
しかし、数分間の言い合いの末に、結局竹上さんはしびしぶ氷室の話に従ってくれることになった。
この二人の間にどれだけの付き合いがあるのかは僕には分からないが、それでも互いにある程度の信頼関係を持っているということは何となく感じられた。
そうして僕達は無事に事務所へと送り届けられ、竹上さんと万代さんはそのまま署へと戻っていった。
もちろん、車から降ろしてもらったのは人目につかない裏路地の一角にしてもらった。
夜も近づき人通りもわずかに多くなる時間帯に、歩道の路肩に停車させられたのでは僕達はあまりにも浮いてしまうだろう。
ある程度落ち着いた僕達は、まず真っ先に怪我の治療をしなくてはいけなかった。
三人の中で唯一五体満足で動けるのは僕だけで、なおかつ治癒の力を使うことができるのも僕だけだ。
力のコントロールも日に日にいくらかマシにはなってきている。
まだ劇的な効果を及ぼすとまでには程遠いが、自然回復に任せるよりはずっと早いはずだ。
「氷室、肩を見せて」
僕は椅子に腰掛けた氷室にそう言って、まずは血まみれのワイシャツを脱いでもらうことにした。
しかし、時間経過のせいで血は固まり、ワイシャツもカサカサに乾いていた。
無理に脱がせて傷口に影響するといけないので、手荒だがまずはワイシャツをハサミで切ってしまうことにする。
幸い、傷口とワイシャツの間には空気の隙間があり、血によって繋がっているということはなかった。
出血はすっかり収まり、今は痛みも多少は引いているのだろう。
だが、僕はその傷口を目の当たりにして、わずかばかりに言葉を失い、同時に一瞬だけ目を逸らしてしまう。
「……っ!」
見ているこっちが痛みを覚えるようだった。
氷室の左肩には、あの炎の槍で一直線に貫かれた傷があり、今でこそその穴はすでに塞がりつつあるが、その痛みは計り知れないものだったに違いない。
「……まだ痛む、よね?」
「まぁ、さすがにそうですね。ですが、ずいぶんとまともになってきてますよ。これも、大和の応急処置のおかげです。それがなければ、恐らく私の左腕はそう遠くないうちに腐り落ちていたでしょう。これは貫かれた傷であると同時に、焼かれ焦がされた傷です。普通の傷とはワケが違う。受けたときも、間一髪で水の防御壁でダメージを減らしましたが、もしそれが間に合わなければ、とうにこの左腕は炎に包まれて炎上していたでしょうね」
「…………」
口調は落ち着いて述べてはいるが、僕は寒気を覚えずにはいられなかった。
それはつまり、言葉どおりに容易く人一人を死に至らすことができるほどの力ということ。
そんな力を持つ者が現実にいて、僕達もそれに近い力、もしくは匹敵するかもしれない力を備えている。
それは、考えただけで恐ろしいことなのかもしれない。
今はこうして互いの無事を喜び合っていられるけど、次はそうはいかないかもしれない。
僕達はいつ殺し、殺されてもおかしくない存在になってしまっていた。
「……大和、大丈夫ですか? 傷を負った私よりも、無傷のあなたのほうが辛そうに見えますよ」
「……あ、ごめん。何でもない」
心理を読まれた僕はそう言葉でごまかして、氷室の左肩に手を添えて癒しの力を行使した。
淡い緑の光がわずかに温かみを覚え、傷口を中心に浸透していく。
目に見える表皮の損傷はしだいに消えていき、元通りの肌色の皮膚が構築されていく。
「……どう?」
とはいえ、傷を負った本人ではない僕には具合の程度が分からない。
その言葉を受け、氷室は左腕を軽く動かし、手を握ったり開いたりしてみる。
「……ええ、ずいぶんと楽になりました。まだ多少の痛みは残りますが、これも後々引いていくでしょう。少なくとも、日常生活に支障をきたすことはありません」
「……そっか。よかった……」
僕はホッと安堵の息をつき、いつの間にか額に浮かんでいた汗の珠を袖口で拭った。
「……っと、そうだ。飛鳥の傷も……」
そう言いかけて、僕はふと思いとどまる。
「……あ」
肝心なことを忘れていた。
しかもそれは、結構重要な問題だ。
簡単な話が、僕と氷室は男同士だから、地肌を見せることもある程度までは許容することができる。
だがしかし、飛鳥の場合は別だ。
多少男勝りで勝気な部分があったとしても、飛鳥は正真正銘の女の子だ。
いくら傷の手当てが名目だからといって、医者でもない僕が直接体に触れるというのはいかがなものだろうか……。
まぁ、実際は衣服の上からでも効果はあるのだろうが、それでも抵抗を覚えずにはいられない。
一歩間違えれば、これはれっきとしたセクハラ……いや、ヘタをすると痴漢行為に近いものになってしまうのではないだろうか?
かといって、飛鳥を放っておくわけにはいかない。
傷口は腹部であり、氷室と比較しても危険度は高い。
飛鳥は今隣の仮眠室でまだ眠ったままだが、起きるまで待ったほうがいいのだろうか?
もっとも、あんな寝言を言うくらいだから問題はないのかもしれないが、それでも安否は気に掛かる。
もしも目には見えない内臓や器官のどこかに傷を受けていたとしたら、それは放置するわけにもいかない。
とはいえ、やはり異性の体に触れることは抵抗があるわけで……。
「……氷室、飛鳥の傷のことなんだけどさ」
とりあえず僕は大人の意見を聞いてみることにする。
「その……やっぱり、放っておくわけにはいかないと思うんだけどさ。その……」
「そうですね。ヘタをすれば、私より傷は深いかもしれません。早急に処置を施す必要があります」
言うなり、氷室は椅子から立ち上がって一直線に仮眠室へと歩き出す。
「ちょ、ちょっと待って!」
「どうかしましたか?」
「いや、そうじゃないけど……ほら、飛鳥だって女の子のワケだしさ。僕達が勝手にどうこうってのはちょっとマズイんじゃ……」
「ああ、そういうことですか。しかし大和、事は緊急を要します。そういう小さな境界線につまずいている暇はありませんよ」
「そ、そんなこと言ったってさ、氷室はどうか知らないけど、僕にはやっぱり抵抗があるわけで……」
「ふむ。ではこうしましょう。飛鳥は実は男だった。さぁ、そう思い込みなさい。それで問題解決です」
「無茶言わないでよ……」
「無茶ではありません。では聞きますが大和、あなたは飛鳥に女性としての可憐さや美しさ、愛らしさがあると思いますか?」
「な、何で僕がそんなことを……」
「いいから答えなさい。どうなんです?」
「……それは……」
確かに氷室が言うような、可憐さとか美しさとか、そういう大人っぽいイメージはあまりないかもしれない。
でもそれは、飛鳥がまだ僕と同じ成長途中な年齢だからであって……。
「……ない、というか、まだ少ないとは思う、けど……」
やはり飛鳥には、活発とか元気とか、そういう言葉が似合いそうな気がする。
「そうでしょうそうでしょう。はい、これで問題は解決ですね。従って飛鳥は女ではありません。私達と同性と思って接しなさい」
「してない! 全く解決してない! 接せない!」
思わず僕は声を荒げてしまった。
扉一枚隔てた向こうでは、飛鳥が眠っているというのもすっかり忘れて。
「やれやれ。困り者ですね、大和も。まぁ、そういう年頃なのかもしれませんが……」
どうしてか溜め息までつかれ、しかし氷室はどこか楽しそうに笑みを見せた。
これはもしかしなくても、僕は氷室にからかわれているんじゃないだろうか?
「……氷室、わざとやってない?」
「いえいえ、真剣ですよ」
としかし、顔は笑ったままだった。
「まぁ、冗談はさておきにして。傷の具合が気になるのは私だって同感です。飛鳥は嫌がるかもしれませんが、無理にでも傷の具合は見せてもらいます。一時の気恥ずかしさくらい、生死に比べれば大したものでもないでしょう」
「それはそうだけど……」
言いながら、氷室はガチャリとドアノブを回し、仮眠室の扉を押し開け……。
直後に、そのまま硬直した。
「……氷室?」
僕は背中越しに氷室を呼ぶ。
しかし、反応はない、
何かと思って体の位置をずらしてみると、何とそこには……。
――明らかに怒りを噛み殺した満面の笑顔を見せ、なぜか片手に思い切り強く枕を握り締めて仁王立ちする飛鳥の姿があった。
「あ……」
僕は思わずそんな一言を漏らした。
そして、最悪の事態が脳裏をよぎる。
もしかしたら今までの会話全て、飛鳥の耳に筒抜けだったのではないだろうか……。
「おや、飛鳥。もう起きても大丈夫なんですか?」
「おかげさまで。ぐっすり眠ったからもうピンピンよ」
目が……目が笑ってない……。
「そうですか。しかし、油断は禁物ですよ。もう少し横になっていた方がいいでしょう」
「平気よ氷室。心配しないで」
見ていて恐怖を覚える笑顔だった。
「ところで飛鳥、一つ不思議に思ったのですが」
「ん? 何?」
「どうしてその、そんなに握り潰すほどに強く枕を掴んでいるんですか?」
「ああこれ? 別に、気にしないで。まだ充電中だから」
「充電ですか。ということは、どこかに発散する予定でも?」
「さっすが氷室。よく分かってるじゃない」
棒読みに近い会話が続く。
僕は血の気が引いていくのを切に感じていた。
「飛鳥」
「何?」
「ついでにもう一つ聞いていいですか?」
「だから、何よ?」
「どうしていつの間にか、私の襟首をちぎれんばかりに掴んでいるんでしょうか?」
「やだなぁ、もう。氷室ったら。分かってる……」
そう言った直後、飛鳥はその場で一気に振りかぶって……
「――クセにぃぃぃぃぃっ!!!」
右手に握り締めた枕が、ほとんどゼロ距離から氷室の顔面に直撃した。
ボスンとかズゴンとか、そんな不可解な効果音がして、氷室の体はゆっくりと床の上に倒れていった。
「……それだけ元気なら、心配はいりませんかね……」
顔面に枕をめり込ませたまま、氷室は力ない声でそう呟き、ヨロヨロと立ち上がるのだった。
「ハー、ハー……ったく、黙って聞いてれば好き放題言ってくれちゃってさ!」
「私じゃありませんよ。元はといえば大和が」
「何で僕! 僕は何も言ってないよ!」
「おや、言っていたじゃないですか。飛鳥は女性としての魅力がカケラもないって……」
「言ってない! そんなの初耳!」
「……やーまーとー……」
としかし、もはや話は聞いてくれないようだった。
「ち、違うって! 僕は何も……」
「うるさい! 共犯だから問答無用!」
と、僕は顔面に思いっきりクッションを投げつけられ、氷室同様に床の上へと倒れ込むのだった。
とはいえ、とりあえず飛鳥のこの調子なら心配の必要はなさそうだ。
それだけに安堵を覚え、僕はヒリヒリする顔をさすりながら起き上がった。
と、同時に。
――ギュルルル……。
と、そんな誰かの腹の虫が鳴いた。
言うまでもなく、音の出所は……。
「…………」
「…………」
「……う……」
僕と氷室の視線が飛鳥に集中する。
やれやれという氷室の溜め息と、わずかに吹き出した僕の笑いが重なる。
「やれやれ。ではとりあえずは、夕食でも食べにいくとしましょうか」
顔を赤らめた飛鳥は、答えずに明後日の方角を向いていた。
傷付き傷付けた一日が、もうすぐ終わる。
しかしこれはまだ、ほんの始まりに過ぎない。
残る封印はあと七つ。
僕達は一体、どれだけの傷を負って前に進んでいくのだろうか。
答えはない。
今はただ、こうして笑い合える一日の終わりを揃って迎えられたことを喜ぼう。