Episode40:戦い終わって……
体が軽い。
重力なんて、まるで感じさせないほどに。
背中に羽根が生えているかのようだった。
「こ、の……ガキがっ!」
苛立ちと共に破棄捨てられる男の言葉。
同時に、その炎の槍が僕の胸目掛けて真っ直ぐに突き出される。
当たればそれで即死。
僕の心臓はいとも簡単に貫かれ、真っ赤な鮮血を散らしながら地に伏せるだろう。
だがそれも、当たればの話であって……。
「……遅いよ」
ほんの少し体の軸をずらすだけで、無常にも炎の槍は空気の壁を貫くことしかできない。
貫かれた虚空の空間は、一瞬だけたぎる炎の熱さに揺らめく陽炎のような残像を残し、静かに消えた。
「ぐっ……!」
苦々しい男の言葉。
もう何度目か分からなくなるほどに繰り出した突きは、ただの一度として僕の体を掠ることさえもなかった。
「クソッタレ。だったら、これで……」
男は高々と槍を掲げると、切っ先に集中させた力をそのまま地面に向けて突き刺した。
同時に、地面が抉れ爆音が響く。
突き刺した地面の土がつぶてのように宙を舞い、さらに周囲からはいくつもの火柱が立つ。
その檻のような中に、僕は閉じ込められた。
「どうだ? これならもう逃げ場はない」
「…………」
しかし僕は、その男の言葉に全く恐怖を感じなかった。
なぜなら、これで逃げ場がなくなったのは僕もそうだが、同時に男にも逃げ場はなくなっているのだから。
「この距離なら外さねぇ。避けれるモンなら避けてみやがれ」
周囲に立つ火柱の一つ一つから、流れるように熱気が溶け出していく。
それらはやがて、男の持つ炎の槍へと吸収されていった。
ただでさえ真っ赤な切っ先が、それこそ火山のマグマのようにいっそう激しい赤色を示す。
もはやそれは、摂氏数千度とも思えるほどの熱量を帯びていた。
本来刃であるその切っ先も、今では触れるものを刻むものではなく、溶かすものへと変わっていた。
触れるだけで、恐らく肉も骨もロウソクのように溶けていくことだろう。
「終わりだ。まずお前を殺して、そのあと残った二人もすぐに同じ場所に送ってやるよ」
ニヤリと笑い、男はその炎に名を与える。
全てを焼き尽くすであろう、灼熱の名を。
「――シアリング・ロンギヌス」
熱さも痛みも感じさせず、ただ全てを焼き尽くすだけの炎が放たれる。
轟々と渦を巻くそれは、もはや太陽の熱さえも凌駕しうるものなのかもしれない。
この炎は、どれだけ大量の水をもってしても消すことはできないだろう。
だが、それは僕にとっても同じことだ。
例えどれだけ灼熱の温度を持つ炎であろうと、それは形のないものを焼き尽くすことなどできない。
それが風ともあろうものなら、なおさらのことだ。
だから僕は恐れない。
この目の前に迫る炎は、決して僕と僕の風を、消し去ることなんてできないのだから……。
「――連なり、束ねよ。重なり、交われ。消えることなき、風の咆哮よ……」
形のない風に、今こそ形を。
両手を中心に集束した全ての風の力を、目の前に展開。
目には見えないほどに薄く、そして色のない風のカーテン。
だがそれは、紛れもなく風の盾。
音もなく吹き荒れ、そして全てを吸収する。
「なん、だと……」
男の放った槍の切っ先から、見る見るうちに赤さが失われていく。
それはまるで、消えかけの焚き火を見ているのに等しい光景だった。
風の盾はただそこにあるかのように見えるが、実際はそうではない。
目には見えないほどの高速で、常に回転を繰り返している。
その回転速度の前に、炎は少しずつその熱をこそぎ取られていくのだ。
加えて、あまりの高速回転のあまりに一時的にその空間は真空状態に保たれる。
無論、酸素のない真空状態で炎は燃えることなどできるわけがない。
結果、どれだけ勢いづいた炎であろうと、風の壁を突き破ることはできない。
「炎が、消えて……」
もはやそれはわずかな残り火。
例えるならそう、夏の夜の線香花火ほどの儚さだろうか。
とにもかくにも、そこにもはや炎としての強大さはカケラも残されてはいない。
残ったのは、わずかなかがり火と強大な風の盾だけだ。
「今度は、こっちの番だ」
風の盾が形を崩す。
弾け、霧散し、自由に飛び回る鳥のように飛来する。
それらは風の刃。
小さな風の音を奏でながら僕の周りで踊りだす。
それらの風に、新たな名を。
「――ハウリング・ゲイル」
刃は放たれる。
目の前の、敵に向けて。
「ぐっ……!」
せめてもの抵抗と言わんばかりに、男も薙ぎ払った槍の切っ先から炎の弾丸を打ち出す。
しかしそれらは、どれ一つとして風の刃と相殺することはなく、一方的に呑み込まれて消えるだけ。
炎をかき消し、風は突き進む。
無数の刃が、男の体を切り刻む……その、刹那。
――突如、地面が割れた。
「うあ……」
軽い地鳴り。
僕はその衝撃でわずかにバランスを崩したが、それだけだった。
しかし目の前で起きていることは、それだけではなかった。
「……これは」
僕の目の前にあったのは、土の壁だった。
砂煙を立ち上らせながら、その土壁は僕を見下ろしていた。
次の瞬間、音もなくその壁が崩れ始めた。
バラバラと零れ落ちる土砂に、僕は思わず数歩引き下がる。
「一体、何が……」
視界を覆う砂煙の向こうに、僕は何かを見た。
それは人影。
ただし、なぜかその数は二つ。
しばらくして、ようやく砂煙は僕の視界をクリアに戻してくれる。
そして、その視界の先に。
「――命令違反だな、赤穂。彼はお前に、彼らを殺すようにとは一言も命じていないはずだ」
凛と美しい、長身の女性がそこに立っていた。
その手には何か長い棒のようなものが握られているが、真っ白な布でグルグル巻きにされているので実体は分からない。
長さから見て刀のようにも見えるが……。
「……テメェ、蓮華。なぜここにいる?」
「その言葉、そのまま返そう。貴様こそ何をしている? 独断で動くなと言われているはずだがな」
「……チッ」
「……まぁいい。とりあえず最悪の事態は免れているようだ。ここは退くぞ。文句はないな?」
「……クソが。分かったよ……」
蓮華と呼ばれた女性と男……赤穂はそれだけの会話を済ませると、再び僕に向き直る。
「そういうわけだ。お互いに命拾いだと思って、ここは退こう。お前の仲間も、決して軽い怪我ではないだろう?」
言いながら、蓮華は視線を動かす。
そしてその視界の遠くに、横たわる飛鳥の姿を捉えると、なぜか一度だけ驚いたような素振りを見せていた。
「……フン、奇縁とはこのことか。だが、まだ決着と言う形には相応しくないな……」
「おい蓮華、何をブツブツ言ってやがる」
「……何でもない。とにかく退くぞ。あとのことは彼に任せる」
「ケッ、面倒くせぇな。皆殺しの方が手っ取り早いじゃねぇかよ」
「私に愚痴るな。彼に聞け」
そしてもう一度、蓮華は僕に向き直る。
「さて。こちらは退くつもりなのだが、そちらはどうする? どうしてもというのなら、相手にならざるを得ないがな」
「…………」
僕はその返答に迷う必要などなかった。
そもそも僕が戦ったのは。氷室と飛鳥を守るためだ。
相手が退き、二人の身の安全が保障されるなら、これ以上の争いごとも僕が望むところじゃない。
「……分かった。けど、先に退くのはそっちだ」
「賢明な判断だ。いいだろう。行くぞ、赤穂」
「……ヘイヘイ」
そして二人は、僕に背を向けてその姿を消した。
ようやく訪れた静寂に、僕は心のそこから安堵の息をついていた。
としかし、そんなことをしている暇はない。
「……そうだ。氷室と飛鳥は……」
僕は急いで二人の元へと向かう。
あのまま戦っていては二人にも危険が及ぶので、少し場所を移して戦っていたのだ。
ほどなく走ると、そこには木の幹に背中を預けて座る氷室と飛鳥の姿があった。
「氷室、飛鳥!」
駆け寄り、僕は叫ぶ。
「大和、無事でしたか」
そう返してくれたのは氷室だった。
着ている白いワイシャツは真っ赤に染まってしまっているが、左肩からの出血はもう収まっているようだ。
一方飛鳥は、まだ意識を失ったまま氷室の横で眠っている。
「……飛鳥は?」
「傷そのものは、大和のおかげでもう塞がっています。ですが、まだ安心はできないでしょう。内臓などのどこかしらに痛手を受けている可能性もありますからね」
「そっか……」
「大和、あなたは大丈夫ですか?」
「あ、うん。僕は平気。だけど……」
「だけど?」
「……ごめん。ちょっと成り行きで、また逃がすことになっちゃった」
「ああ、そのことですか。私も遠目では見ていたので、何となく分かりました。ですが、今回に関してはそれが正解でしょう。さすがに二人を同時に相手をするのは不利です」
氷室は眼鏡を押し上げながら、蓮華と赤穂が去っていった方向をぼんやりと眺めていた。
「とりあえず、私達も戻りましょう。傷の手当てにしたって、ここにいては何もできない」
「氷室、運転できるの?」
「いえ、さすがに無理でしょうね。ですから、迎えを呼ぶことにします」
「迎え?」
そう言うと、氷室はポケットの中から携帯を取り出し、発信した。
「もしもし? 竹上さんですか? 私です。ええ、実はちょっと、頼みがありまして…………」
そんな具合で会話は続いていく。
何はともあれ、迎えが来てくれるのなら心配はしなくてよさそうだ。
と、そんなときだった。
「……う……」
飛鳥がようやく意識を取り戻しかけたようで、何かを呟いていた。
聞き耳を立てるわけじゃないけど、どうしてか僕はその言葉の続きが気になってしまう。
「……も……」
も?
その続きは何だ?
「……も、もう……」
……もう?
「――……もう、そんなに食べられないってば……」
「…………」
その、あまりに間の悪い気の抜けた寝言に、僕はドッと押し寄せる疲れを感じていた。
人の気も知らないで、一体どんなに幸せな夢を見ているんだか……。
「……ハァ」
と、重い溜め息を一つ。
陽は沈み始め、もう間もなく夜の帳が下りようとしている頃だった。