Episode39:決別
何が起こったのだろうか。
記憶が途切れたわけじゃない。
にもかかわらず、僕は目の前で何が起こったのかを全く理解できないでいた。
一番新しい記憶は……そう。
あの男の炎の槍の切っ先が、確かに僕を捉えていたということだけだった。
……なのに。
それなのにどうして、僕は……。
「……氷室……?」
掠れたような声で僕は呟く。
いつの間にか僕は地面の上に膝を付き、僕の目の前には同じ地面の上に横たわる氷室の姿があった。
しかしそれは、ただ横たわっているだけではなく。
「……逃げろと、言ったでしょう……」
悶えるような苦しむような、そんな苦痛に満ちた声で、氷室は僕に語りかけていた。
その横たわる体の一部、ちょうど右肩の辺りからは、おびただしい量の血液が流れ出していた。
蛇口が壊れた水道管のように、止まることを知らずに流れ出してくる赤い液体。
知らぬ間に触れた僕の両手にも、ベットリと血の色が映っていた。
「……氷室、どうして? 何が……」
僕はまだ目の前の状況が分からない。
頭の中がグチャグチャに混乱して、物事をまともに考えられるほど思考が安定していないのだ。
おかしい。
どうしてこんなことになっているんだ?
僕の中の最新の記憶を掘り返す。
あのとき確かに僕は、その炎の槍の切っ先に魅入られ、そして赤い切っ先は真っ直ぐに僕へと向かってきた。
そして次の瞬間にやってきたのは、胸を押される軽い衝動。
痛みはなく、その衝撃で体が軽く宙を泳いだ。
……そうだ。
僕の体を突き飛ばしたのは、氷室だ。
だからこそ、その結果として氷室は……。
「氷室! しっかりして! 今、傷を塞ぐから!」
僕は要約のことで我を取り戻し、無我夢中で氷室の体を抱き起こした。
僕の……僕のせいだ。
結局氷室は僕を庇って傷を負ってしまった。
しかも傷口は、完全に右肩を貫通している。
出血がひどく、氷室の真っ白なワイシャツの半分以上がすでに血の色に染まり変わっていた。
横たわりながら傷口を片手で抑える氷室。
僕はその傷口の上から両手を覆いかぶせ、焦りながらも力を集中させた。
しかしその両手を、氷室は掴んだ。
「……何を、しているんですか。早く、逃げなさい。死にたいんですか……」
「だ、だけど! 氷室だって……」
「……私は、大丈夫です。このくらいでくたばるほど、ヤワな体じゃありませんよ……」
そう言いながら、氷室はフラフラと不安定な足取りのままでどうにか立ち上がった。
だがそれは、文字通りただ立ち上がっただけ。
二本の足でかろうじて大地を踏みしめているだけに過ぎない。
左手に握った三又の槍を支えに、どうにか立っているだけ。
そんな状態では戦うことはおろか、歩くことさえもままならないはずだ。
「む、無理だよ氷室! そんな傷じゃ、もう戦えるわけが……」
「……元を正せば、私がまいた種みたいなものです。私が枯らせるというのが、礼儀というものでしょう……」
乱れる呼吸、止まらない出血、極度の消耗。
はっきり言って、今の氷室は『Ring』の力の影響でどうにか命を繋ぎとめているに過ぎない。
恐らく常人であれば、最初の一撃ですでに絶命していたはずだ。
「私が、少しでも時間を稼ぎます。だから、その間に飛鳥を連れて逃げてください……」
そう言って僕を振り返った氷室の表情が、途端に曇った。
「……大和、飛鳥は……どうしました?」
「……え?」
僕はその言葉に、慌てて周囲を見回す。
……だが。
「……飛鳥?」
そこに、飛鳥の姿はすでになくなっていた。
すでに距離を離れてしまったのだろうか?
いや、そんなはずはない。
氷室があの一撃を受けるその直前まで、僕と飛鳥はほとんど隣り合わせに立っていたはずだ。
一体、飛鳥はどこに……。
「……この際、どこにいったかはもういいです。逃げ切ってくれることを願いますよ。さぁ、大和。あなたも行きなさい……」
「で、でも……!」
「いいから! 行けと言ってるんです!」
氷室は怒鳴った。
その声に僕は思わず肩を震わせ、返す言葉を失った。
「……っ!」
「大和。私をこれ以上追い詰めないでください。正直、あなたを庇う余裕はもうありません。不利に不利を重ねたところで、有利には変わりようがないんです」
「……分かったよ。けど……氷室、絶対に死なないで。約束だよ」
「……あなたといい飛鳥といい、どうにも無茶な約束ばかり押し付ける」
そう呟き、氷室は小さく笑った。
「……行きなさい。大丈夫、必ず戻ります」
その言葉を何度も頭の中で繰り返して、僕はようやく地面を蹴って走り出した。
が、その直後。
「な……」
行く手を阻むように、炎の壁が僕の目の前に立ちはだかった。
「おいおい、人の話を聞いてなかったのか?」
嘲笑うような声。
僕は背後を振り返る。
そこに、悪魔の笑いを携えた男は立っていた。
「――言ったはずだよな? 皆殺しだって」
その手にたぎるほどの熱く燃え盛る炎の槍を握り締め、今まさにその槍で目の前の獲物を貫かんとする仕草。
愉悦に満たされつつあるその不気味な笑みは僕に対して向けられたもので、僕の背筋は熱さとは裏腹に寒気が走る。
「……勘違いを、してもらっては……困りますね」
絞り出したような氷室の声。
正真正銘、その言葉は命を削って紡がれたものだろう。
「……あなたの相手は、私です。余所見をする余裕を与えた覚えはありませんよ……」
「フン、その体でも口だけは達者だな。まぁ、俺としては順番なんてどうだっていいんだよ。どうせ最後には、三人まとめて仲良く死体で横並びにして……」
言いかけて、男の言葉が止まる。
「っと、そうかい。すでに一人は逃げおおせちまったワケか。だったらなおのこと、お前ら二人に構ってやる時間はねぇな。なぁに、安心しろって。すぐにあの女も殺して、ここに並べてやるからさ」
クックッと、男は愉快そうに笑う。
歪んだ笑みがさらに歪み、見ているだけで寒気と吐き気を覚えそうになるほどだ。
「……少し、…………じゃないですか?」
ふいに氷室は呟いた。
その言葉に、男の高笑いはピタリと止まる。
「あ? 何だと?」
「少し、余裕を見せすぎじゃないですかと、そう言ったんですよ」
「バカかお前? 余裕もクソも、見せ付けるほど余ってるに決まってるだろうが。見ろよ、この力の差を。蟻が虎に敵うとでも思ってるのか?」
「……やれやれ」
そうして氷室は、軽く眼鏡を押し上げる。
「……一つ、覚えておくといいでしょう」
「……あ?」
一呼吸置いて、氷室は続ける。
「――その蟻相手に一矢報いられるのは、あなたかもしれませんということですよ」
その言葉を合図にするかのように、刹那、青白い閃光が瞬いた。
「な、に……?」
男は振り返るが、閃光に視界を奪われる。
「いちいち探しにこないでよね。気色悪い」
吐き捨てるその言葉とともに、紫電の槍が放たれる。
「これでも……食らえっ!」
直後、雷の槍は放たれた。
音速を超える速さで接近する、必殺必中の雷。
ましてや、視界を奪われた男にその槍を回避する手段などあるはずがない。
迫り来る雷を目の前に、しかし男は……。
――相変わらず、その歪んだ笑みを浮かべていた。
そして、雷の槍は確かに男に命中した……かに思われた。
だが、実際は……。
「フゥン、ずいぶんと大技隠し持ってるんだな、お前」
「……な」
飛鳥はそれ以上声が出なかった。
自分で目の当たりにしているその光景が、信じられない。
こともあろうか男は、音速を超える雷の一撃を、素手で掴み取っていた。
男の手によって握りこまれた雷の槍は、今もなお衰えることなくバチバチと稲光を発している。
しかし、男に苦痛の色は見えない。
直後に男は、まるで何事もなかったかのようにその手で雷の槍そのものを簡単に握り潰した。
バチンと音を立て、無残にも雷は空気の中に溶けて消える。
「だがそれじゃあ、必殺技とは呼べないだろ? 必ず殺すから、必殺って言うんだろ?」
そしてその歪んだ笑みで、飛鳥を見据える。
一瞬だけ、飛鳥は確かにその胸のうちに恐怖感を覚え、わずかに足を退いた。
しかしそれが合図であるかのように、男はその手に握った炎の槍を何一つのためらいもなく、飛鳥目掛けて突き出した。
ズブリ、と。
この世のものとは思えない、思いたくもないほどの不気味な音が響き渡った。
炎の槍の切っ先は飛鳥の腹部を浅く貫き、引き抜くと同時に真っ赤な鮮血を宙に舞わせていた。
「……っ、あ……」
悲鳴にすらならない声がわずかに響き、飛鳥はそのままゆっくりと地面に倒れこんだ。
間もなくして、その周囲を真っ赤な血の水溜りが濡らす。
「飛鳥!」
僕は叫び、飛鳥の元へと駆け出していた。
しかし、それが自殺行為だったのかもしれない。
「騒ぐな。すぐにお前も同じになる」
そんな囁きは、どうしてかすぐ横合いから聞こえてきたのだった。
振り返ればそこに、すでに男の炎の槍の切っ先が迫っていた。
「ぐ……」
ダメだ、間に合わない……!
そう思った瞬間、全く正反対の方向から突き出された一撃によって、かろうじて僕は傷を負わずに済んだ。
「チッ、まだそんなことする力が残ってるのか」
忌々しそうに男は呟く。
繰り出された一撃は、氷室が放ったものだ。
「……余所見をするなと、言ったでしょう……」
しかしそれは本当の意味で最後の抵抗であり、もはや氷室の余力が残されていないのは明白だった。
ともあれ、僕はこの隙に飛鳥の元へと駆け寄った。
「飛鳥、しっかり!」
「……う」
呼びかけると、まだ意識ははっきりとしていた。
出血は多いが、今ならまだ傷口を塞げば助けることができるはずだ。
僕は急いで治癒に力を注ぎ込む。
徐々にだが、傷口が塞がり、出血も止まる。
だが、僕にできるのはせいぜいこの程度の応急処置だけだ。
重症なことに変わりはないし、一刻も早く安静に休ませる必要がある。
だがそのためには、どうやったって……。
――この男を倒す以外に、道はない。
だけど、どうすれば……。
飛鳥はこの通り、もう戦える状態じゃない。
氷室にしたって重症に変わりはない。
……だとしたら、もう残されているのは一つだけじゃないか。
「……僕が、戦わなくちゃ……」
そう口にした言葉とは裏腹に、僕の中ではためらいがあとを引いていた。
何をしているんだ。
五体満足なのは僕しかいないんだぞ?
ここで戦わないで、いつ戦うつもりだ?
何度も自分に言い聞かせ、奮い立たせる。
しかし、何かが足りない。
きっかけのような、そんな何かが確実に。
……僕は、まだ恐れているのか?
守ることと傷つけることの境界線に、今もまだ怯えているのか?
あの日から、今日までずっと。
夢に出た日なんて、一度もなかったのに……。
「――まだ、恐れているのですね」
「……シルフィア……?」
ふいに聞こえたのは、風の声。
「『Ring』を通じ、私は主の記憶をも共有しています。主は過去に、深い傷を負っている。今もなお、その傷は塞がることを知らずにさらけ出されたまま」
「…………」
僕は答えられなかった。
何もかもが、その通りだったから。
「……過去に囚われることは罪ではありません。しかし主。あなたが今ここで戦う意思を捨ててしまえば、あなたはまた過去の過ちを繰り返すことになる。誰も救えず、自分さえも救えず。それでも、いいのですか?」
「……嫌だ、そんなのは……」
絶対に、嫌だ……!
「……ならば、やることは一つです。戦いなさい。奪うためでも、傷付けるためでもない。守るべきもののために、力を……」
「……力を、貸してくれ。頼む……」
「もちろんです、主。あなたは無意識のうちに、今まで我が風の力を抑え込んでいた。しかし、今その楔は外れました。これか見せるものこそが、真の風の力。しかしそれさえも、解放前の私ではほんのひとかけらに過ぎないもの。見事、使いこなして見せなさい……」
そしてそれは起こった。
炎の熱ささえも忘れるくらいに、僕の中で風が吹いた。
「……何だ?」
「……これは、風……?」
男と氷室の言葉が、ひどく霞んで聞こえる。
僕の耳に届く音は一つ。
ただ、風の流れる音が奏でるメロディだけ。
「……氷室から離れろ。僕が相手になる」
「……ヘェ、お前、そういう顔もできるのか」
「や、大和……」
「面白い。お前の力も見せてみろ」
僕の方に興味が沸いたのか、男はあっさりと標的を移した。
その赤い槍の切っ先が、三度僕に狙いを定める。
「どうした? かかってこないのか?」
「……言われなくても」
瞬間、僕は間違いなく、一瞬だけ消えた。
そして次の瞬間には、男の背後で思いっきり拳を振り上げ、力任せにその背中を殴りつけようとしていた。
「な……」
「……速い!」
男と氷室の驚愕の声も、僕の耳には届かない。
今はただ、この振り上げた拳を思いっきり握り締めて……。
「――今、やってやる!」
その一撃は、男の体をいとも簡単に吹き飛ばした。