Episode38:封印開放
目を奪われるほどの色彩の景色の中、僕達三人はしばしの間ただただ立ち尽くすばかりだった。
意識が戻ったのは、氷室が損灰色の石碑のようなものに数歩ほど歩み寄り、表面を撫でるように触れたときだった。
わずかばかりに埃と汚れをかぶったその石碑は、しかし今も色褪せることなく輝いている。
何かこう、普通では考えられないような力が封じられていると言うのも、何だか頷けるほどだった。
「……これが、封印ですか? しかし、一体どこがどうなって……」
氷室は石碑を中心に、周囲をくまなく探し始める。
足元で咲き誇る赤い花は、風もないのにゆらゆらと揺れていた。
「ん? これは……」
と、氷室は石碑のちょうど裏側に当たる部分に何かを見つけたようだった。
「二人とも、ちょっとこちらへ」
呼ばれ、僕と飛鳥はその方向へと足を向ける。
「何かあったの?」
駆け寄りながら、僕は訊ねた。
「これを見てください。見覚えはありませんか?」
言われて、僕は指差されたその場所を覗く。
するとそこには、何かのくぼみのようなものがいくつも横に連なっていた。
それらはまるで掘り込まれた文字のようにも、記号のようにも見て取れる。
しかしその形は実に不定形で、歴史の中にある象形文字などと比較しても例のないものだ。
だが僕は……いや、僕達は、その記号が何であるのかを知っている。
それは時に文字であり、記号であり、図形でもある。
本来その記号を浮かび上がらせるほどに強調される赤い色は今は見えないが、それを差し引けばそのくぼみは間違いなく……。
「――クリムゾン・テキスト……」
僕はその言葉を呟いた。
頷く代わりに、氷室は眼鏡を軽く押し上げた。
「何て書いてあるの?」
飛鳥の声に、僕達は揃ってその羅列に目を落とした。
一見不可解な記号の集合でも、僕達にとっては唯一解読できる暗号のようなものだ。
頭で考えることを必要とせず、ただ本能の奥底で意味を理解すればいい。
やがて、僕の脳裏にそれらが伝えんとする言葉が浮かび上がってくる。
「――……我、真紅に染まる焔を纏いてここに眠る者なり。永き時を経て、我の目醒めを望む者よ。汝が力を我が前に示せ。猛る焔を以って、赤き花を染め上げよ。さすれば我は、長き眠りから解放され、汝を主と認め、契約の名の元に従いて力を示さん……」
僕はそこに掘り込まれたテキストの全文を読み上げた。
「……察するに、どうやらここは炎の封印ということになりそうですね」
「でも、それって意味あるの? だって私達の中には、炎使いなんていないわけで、これじゃ封印を開放したってどうにもならないんじゃないの?」
「いえ、そうとは限りません。ですが、だとすると妙ですね。一体どうして……」
氷室は一人で呟きながら、何かを考え始める。
「どうかしたの?」
「……いえ。この場所はまず間違いなく、炎の封印でしょう。しかしだとすると、どうにも合点がいきません。なぜ彼は、封印の場所まで分かっているにもかかわらず、開放を行わなかったのか」
「彼って、さっきのヒョロ長いヤツのこと?」
「ええ、そうです。封印を解けば更なる力が手に入る。彼もそれを知っていたからこそ、この場所に出向いていたはずなんです。ですが、結果として彼は解放を放棄したことになる。その理由が分かりません」
「いざ解こうとしたら、タイミング悪く私達がやってきたからじゃない? しかもこっちは三人で、戦いなったら不利は確実。だから、仕方なく撤退したとか」
「……まぁ、そう考えるのが普通なんでしょうけど」
「それに、どの道私達じゃこの封印は開放できないんじゃないの? だって、私達は炎使いじゃないんだもの」
その意見には僕も同感だった。
テキストにもあるように、どうやらこの封印に限らず他の封印でも、能力者と封印の力の属性が一致しなければ解放はできないように思える。
となると、もうこの状況で僕達にできることは何もなくなってしまうのではないだろうか?
しかしかといって、このまま封印を放置してしまえば、後にさっきの彼はこの封印を解放するに至るかもしれない。
そうなれば、敵の戦力を増大させてしまうことになる。
それは極力避けたいところなのだが……。
「氷室、何か方法はないのかな?」
「……難しいですね。そもそも私も、『Ring』に置ける契約の意味合いをまだ完全には理解していないのですよ。契約と言うのは、言葉の意味の上では約束と似た意味合いではありますが、本当の意味合いは全く別物です。契約とはそう簡単に破棄できるものではありません。友人と会う約束をしたが、急用で行けなくなったから断りを入れる。そんな簡単なものじゃないんですよ。ですから、この封印に関しても大きな束縛の力が働いていると考えるべきです。ましてやこれは、古代の精霊の名の下に築かれた契約だ。生半可なことじゃ崩れたりはしないでしょうね」
「……要するに、それだけ大きな力が働いてるってこと?」
「そう考えるべきでしょう。結論から言えば。この封印は炎使い……つまり先ほどの彼の手によることでしか開放できません」
「じゃあ、結局は無駄骨ってこと?」
「いえ、まんざらそういうわけでは。要するに、私達の中の誰かが炎使いになってしまえばいいんですけどね」
「けど、そんなことって……」
言いかけて、僕は思い出した。
一番最初に、氷室に言われたその言葉を。
――殺し合うことが嫌ならば、相手から『Ring』を奪うか破壊してしまえばいい。
しかしこの場合、破壊してしまっては封印そのものが開放できなくなってしまう。
となると、あとはもう奪うという手段しか残されていない。
「……多重契約。そんなことが実際に可能かどうかは分かりませんが、そうする他ないでしょうね」
「だったら詰まるところ、結局はさっきのヤツを……」
「……ええ。倒すことから始めないと、もはや話になりませんね。全く、逃がしたことがこうも裏目に出るとはね……」
嘆息し、氷室は立ち上がる。
直後に。
「二人とも、横に飛びなさい!」
と、怒鳴るようなその声がしたと思ったら、僕は体を突き飛ばされていた。
「え……」
突き飛ばされた体がゆっくりと倒れ、地面の上を何度か転がった。
すぐ隣では、飛鳥も同じように突き飛ばされ、地面の上で上半身だけを起こしたところだった。
そして氷室はと言うと……。
「もしやと思ってはいましたが、やはりそういうことだったようですね……」
そう語る氷室の口調には真剣さが溢れており、すでにその手には先ほど見せた三又の槍が再び握り締められていた。
青く澄み渡る半透明の切っ先からは、湧き水のような雫がわずかに渦を巻いていた。
「……氷室?」
起き上がりながら、僕は氷室の視線の先を向き直る。
すると、そこに。
「――解読ご苦労さん。一仕事終えたばっかで悪いが、こちとらお前らにはもう用無しだ。手早く死んでくれや」
相反する炎の槍をその手に握り締めた先ほどの男が、敵意を丸出しにして立っていた。
「アイツ、逃げ帰ったんじゃ……」
忌々しそうに飛鳥が呟く。
「逃げ帰るとは、人聞きの悪い。俺はただ、利用できるものを利用させてもらったまでだ」
利用できるもの?
利用させてもらった?
それは一体、どういう意味だ?
「……なるほど。やはりあなたでは、あの掘り込まれた文字を解読することができなかったようですね」
「……え?」
僕はその言葉に疑問を覚える。
……読めなかった?
それはまた、どうしてだ?
彼だって、僕達と同じ能力者のはずではないのだろうか?
「違うんだよ、坊主。同じじゃない。ただ、ひどく似通ってはいるけどな」
まるで僕の考えを見透かしたように、男は囁くように言う。
「あなたはここが、自分の力の……炎の封印の場所だと知っていた。だから、この公園そのものを炎で包んで炎上させたんですね」
「ああ、その通りだ。だが、実際にそうしても何も起きやしない。ただ一ヶ所だけ、燃えずに残った空間だけが残ったのさ。それがまさしく、今いるこの場所だよ」
手の中で槍を回しながら、男はまたあの不気味な笑みを浮かべてる。
「ま、自分でも浅はかな考えだとは思ったがな。炎の封印なら、炎に反応するんじゃないかと思ったわけだ。結果としてはこの場所を炙り出せたわけだが、ここからまた一筋縄ではいかないときた」
「……あなたには、あのテキストが読めなかった、ということですか」
「ご名答。せっかく封印の場所を見つけ出しても、開放の仕方が分からないんじゃお手上げだろ? そんな折りに、お前らがノコノコとやってきた。これは利用してみる価値はあるんじゃないかと踏んだわけだが、思ったとおりだったぜ」
ヒュンヒュンと風を切る音を鳴らしながら、炎の槍が男の手の中で踊る。
真っ赤に燃えた切っ先はさながらに炎そのものを思わせ、いくつもの火の粉が蛍火のように夕焼けの中を舞っていた。
「だが、おかげでそれも解けた。礼を言っておくぜ」
ニヤリと笑い、男はその槍の切っ先を切っ先を一点に定める。
しかしその向けた先は、対峙する氷室の体ではなく。
かといって、地面に座り込んだままの僕でも飛鳥でもなく。
その切っ先はただ、灰色の石碑を取り囲むように咲き誇った、赤い花だけを狙っていた。
「……まずい!」
氷室が明らかに不利な表情を見せる。
しかしそれも一瞬で、氷室の動きは早かった。
「――海神の遺産よ、その大いなる流れの力を我が前に示せ。濁流の如く、全てを呑み込め!」
三又の槍の矛先に渦が巻く。
氷室はその槍を、目の前の男ではなく、足元に地面目掛けて勢いよく突き刺した。
「――ストライク・タイド!」
直後、何もない地面の上を津波が走った。
せせらぎとは程遠い、荒れた海の波を思わせるその流れの速さは、まさしく潮流。
波の高さで言えばゆうに五メートル。
津波は楽々に男の体を丸ごと呑み込んで、周囲の木々さえへし折るほどの勢いをもって迫っていた。
だが、しかし。
「……フン」
と、男は実につまらなそうに鼻で笑い、その手に握った炎の槍を同様に、地面の上に突き刺した。
瞬間、変化はおきた。
石碑を取り囲む赤い花が、一斉に燃え上がった。
ただでさえ燃えるような赤を備えたその花弁が、いっそう激しく燃え盛っている。
それがまるで、天に向かって叫んでいるように見えて、美しさを通り越して不気味なほどだった。
だがだからといって、氷室の放った津波がどうなったわけではない。
確実に津波は、男目掛けて襲い掛かる。
そしてその体が水滴の一つに触れ、直後に何もかもが飲み込まれるというときに。
一つの爆音だけが、その場を支配した。
同時に、周囲に霧散するように広がった白い霧。
しかしそれは霧ではなく、蒸気の壁だった。
まるで間欠泉のように、熱を持った霧が一面に広がっていた。
その霧の中、僕はようやく立ち上がった。
すぐ隣にいるはずの飛鳥の姿も、この濃い霧の前では全く確認できない。
僕は身構える。
この視界の悪さでは、どこから何が飛んでくるか分かったもんじゃない。
ほどなくして、徐々に霧は晴れていく。
冷えた蒸気が水分に変わり、ポツポツと音を立ててあちこちで落下していた。
「大和、無事?」
隣から飛鳥の声が聞こえ、僕はその方向を振り返る。
「うん。僕は大丈夫。けど、氷室は……」
僕と飛鳥は揃って、先ほどまで氷室のいたその方向を向き直る。
霧はすっかり晴れ、しだいにその向こう側の景色がはっきりと見えてきた。
その中に、人影。
「氷室!」
僕は叫び、その場所へと駆け寄る。
槍を地面に突き刺したまま、氷室はそこに立っていた。
見たところ、外傷などもなく無事な様子だ。
僕はその様子にホッと安堵の息をつきかけて……。
氷室の様子がおかしいことに気付いた。
「……逃げなさい、大和。飛鳥を連れて、できるだけ遠くへ……!」
か細いほどの声。
まるで絞り出したように掠れている。
「……氷室? どうした……」
僕はその先に続く言葉を呑み込んだ。
いや、呑み込まされた。
その、怖気を覚えるほどの殺気に。
「……なるほど。これが封印開放ってやつか。手に余る力だな……」
愉快そうな声色。
そんなはずがと、ブレーキのかかる心が呻く。
霧が完全に晴れた。
その、向こうに。
「――逃がすと思うか? 冗談。皆殺しに決まってんだろ」
まるで何事もなかったかのように、炎の槍を携えた男は薄ら笑いを浮かべたまま立っていた。
あの、津波の一撃をまともに正面から受けたはずなのに。
……いや、それは違った。
そもそも男は、その体に一滴の水さえ触れさせてはいなかった。
全部消し飛ばしたのだ。
あの爆音は、まさしくそれだ。
信じられないほどの高温の炎で、全ての水を消し飛ばしたのだ。
「さて、と。喋ってても分からねぇしな。まずは軽く、力試しといくか」
矛先が変わる。
赤い花はすでに消え去り、変わりに向けられたその赤い切っ先には。
「安心しろって。一思いには殺さないからよ」
僕達三人の姿が、映り込んでいた……。