Episode32:一度目の再会
自宅前に誰かの人影が立っていた。
夕陽の逆光を受ける視界の中、僕は遠くに見えるその人影に目を凝らしてみる。
「あ……」
すぐに気付いた。
その人影は、唯のものだということに。
途端に僕の足取りは、わずかばかりに重くなる。
原因は恐らく二つ。
一つは、結局今日一日は何一つとしてまともな会話すら交わさずに過ごしていたこと。
そしてもう一つは、保健室での先生との会話のその真相が、未だに僕の中で結論を出せずに右往左往を繰り返していること。
先生はああ言っていたが、正直なところ僕にそんな記憶は微塵も残されてはいない。
今朝、唯と一緒に登校したことはおろか、そもそも今朝の時点で誰かに出会ったことすら記憶にないのだから。
「…………」
単純に僕の記憶が部分的に飛んでいるだけなのならば、どんなにいいことだろうか。
そうだったら、今みたいにこんな曖昧な気持ちと足取りにだってならずにすんだろうに。
僕の足取りは重くはなったが、しかし前に進むことをやめたわけではない。
視線はいつの間にか地面へと向き、逆光の眩しさも一時的に回避される。
足元には自分の影がなく、背中の方向に長く長く伸びていた。
一足先に影だけが逃げ出したような、そんな妙な印象を受けているようだった。
「あ……」
そんな唯の声が聞こえて、僕の意識は急激に現実の中へと引き戻される。
靴音が地面を叩き、徐々に僕の方へと近づいてくることが分かった。
対して、僕の足はピタリとその場で止まってしまった。
知らず知らずのうちに、僕はうろたえていた。
やがて、僕の目の前までやってきた足音がピタリと止まる。
顔を上げなくても分かった。
目の前に唯がいるということに。
「もー、何してたのよ大和!」
唯の口調はどこか不機嫌さを思わせるものだった。
ただ怒っているというよりも、それは心配の延長上に至る怒りの意味合いのものだと、僕にはすぐに分かった。
「放課後になって、皆ですぐに保健室行ったんだよ? そしたら、大和はもう一足先に帰らせたって先生が言うから、すぐに皆で追いかけてきたのに……」
「…………」
「それなのに、家にきたら小母さんも留守だし、肝心の大和もまだ帰ってないみたいだし……。皆、結構心配してたんだよ? どこかで事故にでも巻き込まれてるんじゃ……」
そこまで言いかけて、唯の言葉は途端に途切れた。
僕は何も答えられないままだったが、そのときになってしまったと思った。
が、時はすでに遅かった。
僕がゆっくりと視線を上げると、思ったとおり、唯の視線は赤く染まった僕のワイシャツの袖口に釘付けになっていた。
保険医の先生のときといい、これで二度目。
自分の配慮のなさが恨めしく思える瞬間だった。
「……あ、これは……」
僕は先に適当な理由を言い繕うつもりでそんな言葉を出したが、それも無意味だった。
「見せて!」
途端に慌てふためくように、唯は僕の二の腕を掴んで、まじまじと血染めの袖口を凝視していた。
「…………」
息を呑むような一瞬の沈黙が流れる。
しかしそれも束の間で、結いは恐る恐る僕の袖口のボタンを外し、傷口をいたわるように捲り上げた。
だがそこに、出血の原因となるような傷痕は何一つとして見受けられない。
僕から言わせれば、それは当然のことだった。
なぜならこの血は、僕が吐血した際に口元を拭って付着したものなのだから。
「唯、違うんだ。これはさ……」
言い訳にしかならない言葉を探しながら、僕はとにかく言葉を繋ごうとした。
しかし、それは無意味なことだった。
「……どうしたの、これ?」
唯の声色が低くなる。
「……ねぇ、どうしたのよ大和? これ、どこか怪我してるんじゃないの?」
「違うんだ。だからこれは本当に何でもなくって……」
「何でもないわけないじゃない!」
唯は怒鳴った。
それは本当に、正真正銘の怒りを覚えている怒鳴り声だった。
静寂に包まれていた住宅街の一角に、エコーのようにその言葉の残響が響き渡る。
「だって、こんなに血が出てるんだよ? 平気なわけないじゃない。どうして隠すの? 心配させたくないから? 私はそんなに頼りにならないの?」
もはや唯は取り乱しかけていた。
それはすでに怒鳴るという領域を超えて、まるで駄々をこねている幼い子供の姿のようにも見て取れた。
しかしそれでも変わらないものは、眼差しが真剣だったということだった。
唯は本気で僕の体のことを案じてくれていることが、痛いくらいに伝わってきた。
だからこそ、僕は再び迷っていた。
正直に事実を語ることはできない。
けれど、もうこれ以上上塗りの嘘を繰り返してもいいのだろうか?
僕の中で葛藤が始まった。
どちらも正しくはなく、しかし間違いでもない。
突き通した嘘はやがて真実になる。
その言葉は嘘ではないが、やはり正しくはない。
僕と唯の視線がぶつかった。
ほんのわずかだけど、唯の目元が潤んでいるのを僕は嫌でも見せ付けられる。
心が痛んだ。
見えない何かで締め付けられるような、今までに感じたことのない痛みが胸を支配した。
しかし、それでも僕は……。
「……唯、落ち着いて聞いてくれる?」
僕はできるだけ自分の中の動揺を押し殺して、冷静な物腰で言葉を選んだ。
それが伝わったかどうかは別として、唯は微かに首を縦に振った。
僕はまだ迷っている。
果たしてどちらが正しいのか、間違いなのか。
これ以上、僕の身勝手な嘘の上塗りで誰かを傷付けてもいいのか?
そしてその結果、誰よりも傷付くのは他ならぬ自分自身だと分かっていて、なお。
僕は、その痛みに耐え続けることができるのだろうか?
……いや、そんなことは。
もうとっくに、決めていたはずじゃないか。
最初の夜。
窓越しに夜空を見上げていたあの夜に。
僕は決めたはずだ。
いくらでも嘘をつき続けてやるんだと。
「――この血は、僕の血じゃないんだ」
取ってつけたような嘘。
言い切った瞬間、チクリと胸のどこかが痛み出した。
それがどうした。
こんな痛み、これから幾度となく襲い掛かってくるに違いないんだ。
それなのに、こんなところで根を上げてどうする?
誰かを傷付けないための嘘だったら、僕はいくらでも突き通してみせる。
そう誓ったはずだ。
「だから、僕はどこも怪我なんてしてないから。平気だから」
わずかに僕は微笑んで言う。
偽りだけの笑顔を、偽りのない涙を滲ませた唯に見せながら。
丸く収まった、などとは、お世辞にも言えなかった。
けれど、唯もあれ以上にしつこく詰め寄ってくることはなかった。
僕はそれがありがたい反面、また一つ突きつけた嘘の見えない痛みに少しだけ心苦しさを覚えていた。
「ハァ……」
ボスンと、僕の体はベッドの中に沈むように呑み込まれた。
途端にドッと疲れが押し寄せて、僕のまぶたはそのまま閉じてしまいそうになっていく。
空白だらけの長い一日がようやく終わろうとしているのに、僕の中にある問題は何一つとして解決の兆しを見せてはくれなかった。
そればかりか、浮かび上がるのは後悔にも似た曖昧な気持ちばかりだ。
どうして僕は、選ばれたのだろうか?
暇さえあれば、僕はそんなことを繰り返して考えていた。
僕が能力者として選ばれたということは、所詮一つの結果でしかない。
結果であるのだから、それには必ず原因となる理由もなくてはならないはずだ。
けれど、僕にはそれが一体何なのか見当もつかない。
自分で言うのもなんだが、僕はこれといって他人と違う特別な何かを持っているわけではない。
知力も体力も、恐らく同年代の大勢の少年少女と比較しても平均前後のものしか持ち合わせてはいないだろう。
だから僕はこれまでに、自分を他人より過大評価したことはなかった。
それは同時に、過小評価をしたこともなかったということだ。
僕自身、僕は普通だと思い続けていた。
他人より優れていたいと思うこともなく、劣っていたいと思ったこともない。
何かを望んだことはあっても、それは渇望というには程遠いもので、ものすごく現実的な望みだった。
少なくとも、こんな現実離れした得体の知れない力を手に入れたいなどとは、僕は過去に一度として望んだことはない。
そう望む理由もなければ、得た結果として成すべきこともなかったからだ。
だからどう考えても、やはり僕には僕自身が能力者の一人として目覚める、その発端となるもの……言うなればきっかけのようなものが何もないのだ。
だけどこうして、僕はこの身に風の力を宿している。
その力は、やはり僕が望んだものだからなのだろうか?
だとしたら、それはいつのことだろう?
どうして僕は、そう望んだのだろう?
「……僕は、どうして……」
顔を埋めたまま、僕は呟く。
独り言は静まり返った部屋の四方に散り、壁に吸い込まれるかのように消えていった。
目を閉じる。
睡魔には及ばないが、まどろみが少しずつ押し寄せてきた。
思い返せば、今日は今日でやけに多忙な一日だったような気がする。
一介の高校生の日常としてはあまりに現実離れした一日だったが、終わってしまえばそれも所詮は日常の一部分に過ぎない。
誰も知らない、知ることがない僕の中にある日常。
歪み、崩れ、堕ちる。
僕は渦の中にいた。
螺旋を描くような深い渦の中で、今もなお徐々に中心に向けて引きずり込まれていこうとしている。
抗うことはできず、足掻くこともできず。
ただただその流れに身を任せて、やがてもう一つの現実を見つけ出す。
それはいつも、いつの日も、僕達の生きるこの世界の隣に、知らず知らずのうちに存在していたもので。
交わらない平行線のように、僕達がただその存在に気が付かなかっただけで。
理由もなく。
原因もなく。
あえて言葉にして例えるのならば、それはまさしく運命という、身も蓋もない屁理屈の究極形の言葉によって表されるのだろう。
その運命の中に、どうして、僕は……。
「――……教えてくれ。一体、何が、誰が……僕を、選んだんだ? ……誰でもいい、教えてくれよ。ねぇ……」
目を閉じ、ふいに頭に浮かんだのはその名前。
この身に宿る、巡る風。
「――……答えてよ…………シルフィア……」
そしてそれは、本当に。
僕のその言葉に応えるかのように、起こった。
「……?」
僕の指の中の『Ring』が、激しく光を放ち始めた。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋の中が、瞬く間に淡い光に包まれる。
「……っ!」
その光の眩さに、僕は両腕で視界を遮った。
まともに目を開けていられない。
暗い夜道で、突然に車のヘッドライトを焚き付けられたみたいだ。
そして、さらに変化は続いた。
眩い光の中、次に感じたのは身を包むような優しい感覚だった。
それは仄かに甘い、春風のような香りと暖かさを運び、僕の目の前で少しずつ集束していった。
光が収まる。
ようやく僕が目を開くと、そこには緑色の光に包まれながら微かに渦を巻く、風の姿があった。
その姿が、見る見るうちに更なる変化を遂げていく。
輪郭が現れ、点と点を線で結ぶかのように。
その光は確かに、人の形を形成していった。
いや、もはやそれは人そのものだった。
僕は我が目を疑うよりも、まずその幻想的ともいえる美しさに見とれてしまっていた。
流れるように長い、エヴァーグリーンの髪。
整った顔立ちと白い素肌、瞳の色も髪と同じ澄んだ紺碧を覗かせる。
真っ白な、ローブのような衣服に包まれた体躯は、華奢という言葉がよく似合うほど細身だった。
性別で言えば、十中八九女性だとは思う。
ただ、僕はその表現が正しいかどうか分からない。
ピンと長く伸びたその特徴的な耳の形だけが、僕の中で彼女が人間ではないという事実を告げていた。
マンガやゲームの知識でしかないが、これは僕も知っている。
彼女はまるで、エルフと呼ばれる森の妖精のような出で立ちをしていた。
「…………」
僕は言葉が出なかった。
目の前でしだいに和らいでいく緑の光に見とれながら、呼吸することさえも忘れそうになっていた。
やがて、最後にまた一つ優しい風が彼女を包んだ。
光は彼女の中に溶けるように消え、部屋の中には元通りの静寂が訪れた。
シンと、空気さえも凍りそうなほどの沈黙。
それを最初に破ったのは、目の前の彼女だった。
「――ようやく会えましたね、我が主よ。本来ならすぐにでも御前に姿を見せるべきでしたのですが、力の解放に思ったより手間取ってしまったことをこの場でお詫びいたします」
と、実に礼儀正しく、そして美しすぎるほどの声で彼女は詠うように言った。
僕の頭の中に、その声が反響する。
その声を、僕は今までにも何度か聞いたことがあったからだ。
しかしそれでも、まさかという疑念が拭いきれない。
だって、まさかこんなことが……。
「……君、は……?」
半ば震えた声で、僕はそれだけを呟いていた。
聞くまでもない問い。
すでに僕の中で、答えなど決まっていたのだから。
しかし彼女は、まるで何事もなかったかのように、相変わらずの美しい音色の声で言葉を続けた。
「――お察しの通りです。我が名はシルフィア。貴方の持つ『Ring』に封印されし、風の力を司る古よりの精霊」
僕はようやく、遅すぎる瞬きを一つ、繰り返していた。