Episode31:氷の爪痕
視界の向こうにあじさい園の門を捉えた僕は、すぐにその異変に気がついた。
門の横にある石柱が、まるで抉り取られたかのように大きく欠落していた。
しかし、異変はそれだけには留まらない。
わずかに早足で、僕は正門へと駆け寄る。
するとどうだ。
中庭の地面はまるで隕石が落下したあとのように、大小さまざまな大きさの溝がまるでクレーターのように跡を残している。
「何、これ……」
僕は呟き、思わず立ち止まった。
当然、先日のように庭の中で元気よくはしゃぐ子供達の姿は一つもなく、あじさい園はまるで眠りについているかのように静寂の空気に包み込まれていた。
その静寂を打ち破る音は、不意に僕の耳へと飛び込んできた。
ガラガラと、ガラス戸を引く音がした。
僕は音のした方向を向き直ると、そこには一人の少女の姿があった。
彼女は僕と目が合うなり、わずかばかりに警戒したような態度を取る。
そして、恐る恐るその口を開いてこう言った。
「……どちら様ですか?」
「……え、あ……」
と、思わず僕は咄嗟の返答につまずいてしまう。
改めてどちら様と聞かれると、正直僕はどう答えていいのか分からなかった。
真吾とはいい意味ではないにしろ面識はあるので、赤の他人というわけではない。
とはいえ、その関係そのものは友好的というよりは敵対的といったほうが正しい気もする。
今はお互いに休戦のような状態になってはいるが、いつまたどんなことがきっかけになって戦うことになるとも分からない。
そういう意味では、今の僕は敵陣の中に無防備に突っ込んだ命知らずの兵士のようなものなのかもしれない。
とか何とか、僕がそんなことを考えているうちにも、少女の警戒心は強まる一方だった。
見ず知らずの人間が土足で立ち入れば、それは十分警戒に値するのだから無理もないだろう。
でも結局、僕はどう説明したらいいのだろうか……。
と、そんなときだった。
向き合う彼女の背後から、もう一つの小さな影がひょっこりと顔を覗かせた。
「ユウキー、何してんだー?」
「あ、こら! 勝手に出てこないの、大樹」
「……大樹?」
その聞き覚えのある名前を、僕は繰り返して呟いていた。
するとその声が届いたのか、大樹は一度だけキョロキョロと周囲を見渡して、そして正面を向き直って僕のことに気がついた。
「あ」
そんな、何かを思い出したかのような声が出る。
「おー、ヤマトじゃんかー」
直後に、大樹は廊下を駆け抜けて裸足のままで中庭へと飛び出してきた。
「あ、こら大樹!」
静止する優希の声も聞かずに、大樹は一直線に僕の目の前へとやってきた。
「また会ったなー、ヤマトー。今日はどうしたんだー? 遊びに来たのかー?」
「あ、いや。遊びにってワケじゃないんだけど……」
言いながら、僕はもう一度中庭の全貌を見渡した。
とてもじゃないが、これでは遊ぶこともまともにできないような気がした。
「そうなのかー。じゃー、どうしたんだー? あ、ひょっとして、真吾に会いにきたのかー?」
「あ、うん。一応、そのつもりなんだけど……」
「こら、何してるの大樹!」
僕達の会話を仲裁するかのように、優希はサンダルを履いて中庭へとやってきた。
「こら、ダメでしょ。裸足で出歩いたりしたらケガするじゃないの」
「平気平気ー。どってことないぜー」
「どってことあってからじゃ遅いんだって。ほら、サンダル履いてきなさい」
「分かったー」
意外と素直に、大樹は言われたとおりにサンダルを履きに戻っていった。
結局その場には、僕と優希だけが取り残される形になった。
「…………」
「……えーっと」
多少は警戒心を緩めてくれているようではあったが、それでもまだ少し視線が痛い気がした。
「……真吾の知り合いの方ですか?」
「知り合いというか……」
まさかここで、バカ正直に以前命のやり取りをした関係です、などと公言できるわけもなく。
「……まぁ、そんな感じです」
と、僕は素直に頷いておくことにした。
「へぇ……真吾にも、外で作る友達なんているんだ……」
呟くように、そしてどこか物珍しそうに優希は呟いた。
「……あの、それで真吾は?」
「……え? ああ、真吾だったら中にいます。呼んできましょうか?」
「あ、じゃあ、お願いできますか? ちょっと話があるので……」
「分かりました。ちょっと待っててくださいね」
そう言うと優希は踵を返し、園の中の廊下を足早に去っていった。
「なーなーヤマトー、せっかくだから遊ぼうぜー」
と、いつの間にやってきたのか、サンダルではなくしっかりと外靴に履き替えた大樹が足元にやってきていた。
「え? そ、それはちょっと困るかな……今日はさ、真吾と大事な話があるんだよ」
「大事な話ー? それってどんな話だー?」
「いや、それはちょっと言えないんだけど……」
「むー、なるほどなー。これがいわゆる、男同士の情事ってやつかー」
「じょ、情事?」
一体どこでそんな言葉を覚えたのだろうかと、僕が疑問に思ったとき、待ち人は遅れてやってきた。
「コラ。まーたテメェは、どこでそんな言葉覚えやがったんだ。っつーか、意味分かってんのかよ?」
軽いゲンコツと共にそう言いながら、真吾は僕の目の前にやってきた。
「ぐえー。イッテーなー真吾ー。何しやがるー」
「ウルセェ。オラ、ガキは向こう行ってろ。大和は俺のお客さんなんだよ」
「チェー。なーなー大和ー、今度は絶対に一緒に遊ぼうなー」
「え? あ、うん。そうだね」
「おーし、約束だぞー。覚えてろよー」
そう言い残し、大樹は足早に園の中へと戻っていった。
そのまま土足で廊下をよじ登ったところを優希に見咎められ、首根っこを捕まえられてどこかへと引きずられていった。
「ったく、これだからガキってのはよ……」
面倒くさそうに、しかしほとんど苛立ちを感じさせない言葉で真吾は言ってのけた。
「さて、と」
そして僕に向き直り、また曖昧な笑みを浮かべていた。
「どうしたよ? まさか、お前から俺を訊ねてくるなんてな。まさかとは思ったけど、マジでお前だったとはな」
「あ、いきなり来たことはごめん、謝るよ。ただ、どうしても聞いておきたいことがあったからさ……」
「ふぅん。まぁいいや。で、その聞きたいことってのは?」
「それは……」
と、聞く前に僕はもう一度、荒れ果ててしまった中庭を見渡した。
そして中途半端な説明は不要だと確信し、要点だけを率直に聞いた。
「――これ、どういうこと? やっぱり、真吾のところにも誰か来たんだね?」
「……俺のとこにも、ってことは、お前もそうだってことか」
「……うん。僕だけじゃない。氷室も飛鳥も、今日の昼間に知らない能力者に遭遇してる」
「……なるほど。で、もしかしたら俺も同じ具合なんじゃねーかと?」
答えずに、僕は首を縦に振った。
「……ま、見りゃ分かるだろ。ご覧の通りさ」
視線を移し、真吾は中庭をぐるりと見渡した。
「あのヤロウ、時間も場所もわきまえずにいきなり現れやがった。おかげでこっちは大迷惑だぜ。まさかアイツラの目の前で炎出すわけにもいかねーしな。ま、幸いなのは、そのときは昼寝の時間で、ほとんどのガキ共は夢の中だったってことだけどな」
「……それで、どうなったの?」
「あ? ああ、まぁ、その場はどうにかお帰り願った。もちろん力ずくだけどな。それにしたって、何だってこんな真昼間の街中でやりあわなくちゃいけないのかね。まるでアイツは、自分から能力者ですって吐露してるようなもんだったぜ」
「……実は僕達も、ほとんど似たような状況で遭遇してる。もっとも、結果として人の目には触れていないけど」
「……一体どうなんってんだか、こっちがサッパリだ」
「…………」
どこかイライラした感情を抑えきれず、真吾は短く切り揃えられた髪の毛をぼりぼりと掻き毟っていた。
「んで? 話ってのはそれだけか?」
「あ、うん。今日はとりあえず、確認したかっただけだから」
「……今日だけで四人追加、か。ますます面倒クセェことになりそうだな、この戦争とやらは」
「……あ、そうだ」
「ん?」
「一応、僕達の遭遇した能力者の力について分かったことだけ教えておく。僕達が出会ったのは、それぞれ音と地、そして炎を使う能力者だった」
「……炎、だと? 俺以外にもう一人、炎使いがいるってのか?」
「実際に交戦したのは氷室だったから僕は知らないけど、間違いないと思う」
「……そうか。あのメガネ兄さんがそう言うなら、まぁ本当なんだろうが……」
どこか怪訝そうに、真吾はあさっての方角を見据えた。
「……まぁいい。いずれ分かるだろ。ああ、ちなみにな。俺の相手は氷使いだったぜ」
「氷?」
「ああ。推測だが、あのメガネ兄さんの力と近いものがあるな。空気中の水分を瞬間的に冷却させて、氷の弾を作り出しやがる。おかげでそこらじゅうが穴ぼこだらけになっちまったってワケだ」
改めて僕は中庭を見渡した。
確かによく見ると、大小さまざまな穴の中はわずかに土が湿り気を帯びていた。
恐らく氷の弾が地面に残り、そのまま溶けて水になり、地面に吸い込まれていったのだろう。
「フン、どうでもいいけどな。炎に氷で立ち向かうなんざ、身のほど知らずもいいところだ」
「……言われてみれば、確かに」
単純な相性だけで考えれば、氷は炎で容易く溶かされることは火を見るより明らかだ。
そういう意味では、被害がこの程度で済んで幸いと思うべきなのかもしれない。
「……とはいえ、あんま勝ち誇れたモンでもないんだがな」
「え?」
意味深なその言葉に、僕は二つ返事で聞き返す。
「今回は属性の相性で俺が優位に立ったが、もしもそうでなければどうなってたかは分からねぇ。明らかに劣勢の戦いの中でさえ、こんだけの爪痕を残していってるんだ。それなりに能力を使いこなせるやつってことだけは、否定しようがねーんだよ」
「…………」
僕は無言で真吾の言葉の呑み込んだ。
今もなおこうして目の前ではっきり残る戦いのあとが、僕に何かを語ってくるようだった。
「……いいか、油断だけはするなよ」
「……うん、分かってる」
「あんま不確かなことは口にしたくねーんだが、とりあえず言っておく。俺達を個々で別々に襲撃したやつらが、それぞれの独断で動いているのか、それとも、お前らみたいにある程度の同盟を組んでいるのか、もしくはもっと大きな組織じみた構図が背景にあるのか。今の段階じゃまだ何とも言えないが、そのどれもが可能性を持ってるってことを忘れんな。昼間だから襲われないとか、周囲に人がいるから平気だとか、そんな甘い考えは捨て置けよ。何度でも言うぜ? これは戦争だ。生きるか死ぬかでしか、決着はねーんだ」
冷たく強く、真吾は言い切った。
しかし僕は、その言葉に対して反論する術を持ってはいなかった。
紛れもなくそれらの言葉は真実で、もはや曲げようのないものだったのだから。
「……一応、胸に留めてはおくよ」
「……フン、どうだかな」
どこかつまらなそうに、しかしどこか楽しそうに、曖昧な笑みのまま真吾は吐き捨てた。
「まぁ、わざわざ訊ねてきてくれたことんは礼を言っておく。多少の情報交換にはなったわけだし、少なくともデメリットにはならねーだ
ろ」
「うん、そうだね」
「んじゃ、今日はお開きだ。このあと晩飯の支度しなきゃいけねーんでな」
「……へぇ」
「……何だよ、その顔は」
「いや……ちょっと、意外だなって思った」
「チッ……どいつもこいつも……」
やれやれと、真吾はどこか疲れた素振りで溜め息をついた。
「まぁいい。んじゃな」
それだけ言って、真吾は足早に園の中へと戻っていった。
面倒くさそうに言った割りに時間に追われているその背中が、少しだけおかしかった。
そうして僕はあじさい園をあとにした。
陽はすっかり落ち、周囲は薄闇色に染まり始めていた。
長いようで実は短い、そんな秋の夜長が、今日もまた始まろうとしている。