Episode29:女心と秋の空
眼前には白刃が迫っていた。
もはやそれは身体能力の反射神経をどう駆使したところで、回避は絶望的なものだ。
「……冗談じゃ」
しかし、飛鳥はあえて避けることを捨てて蓮華の体に向き直る。
「ないっての!」
そして、両手に集めた雷撃を思いっきり蓮華の腹部目掛けて撃ち付けた。
バチバチと青白い閃光が瞬いて、一瞬だけ目の前が明るくなる。
「うっ……」
目くらましにはほど遠いが、一瞬の隙を作るにはそれで十分だった。
わずかに目を逸らしたその隙に、飛鳥は急いで距離を取る。
剣を使う近距離戦の相手には、遠距離戦を得意とする飛鳥では間合いを開かなくては不利になる一方だ。
幸い今の一撃は、ある種のスタンガンのような役目も果たしている。
微弱ではあるが、飛鳥の体は雷撃の影響で痺れていた。
追撃の手が鈍り、飛鳥はその時間を利用して十分な距離を保つことができる。
「……!」
しかしそれでも、油断をするわけにはいかない。
今の短い攻防の中で分かったことは、蓮華の身体能力の高さだった。
何の力も借りず、生身の状態であれだけの敏捷性は脅威に値する。
恐らく、剣術に置いての心構えがあるのだろう。
そうでなくては、あれだけの速さで剣を振るうことなど素人には到底できない芸当だ。
「小癪な真似を……!」
わずかな苛立ちを含んだ言葉と共に、蓮華は再び剣を構え直した。
磨き上げられて銀色に輝く日本刀は、夕焼けの色を反射させて場違いにも美しかった。
風が出てきて、同じく銀色の蓮華の髪もなびいて揺れた。
「行くぞ!」
再び、蓮華は地を蹴って飛鳥へと向かう。
速さだけで言えば陸上の短距離選手にも匹敵しそうなほどのものだ。
対して飛鳥は、運動神経は常人よりはるかに優れてはいるが、それでも蓮華には及ばない。
そもそも間合いを詰められるということが、飛鳥の戦い方に置いては決して許してはいけないものだ。
なので、飛鳥も同様に走るしかない。
せめて等距離を保ったままでなくては、飛鳥の有利は確実に奪われていく。
「もう、一体何だっての? いきなり問答無用で襲ってくるわ、こっちの話は聞こうともしないわ……」
「話すことなどない。戦う理由など、我々の置かれた状況を考えれば一目瞭然だろう」
逃げる飛鳥と追う蓮華。
二人の距離はほぼ一定で、どとらにとっても有利にも不利にも働かない。
「そうだとしても、私にはあなたと戦う理由がないんだってば!」
「戯言を……。ならばここで倒れればいい!」
瞬間、蓮華は跳躍した。
一足飛びで、間合いが一気に縮まる。
「……ったくもう!」
口ではいくら言っても無駄だと理解し、ようやく飛鳥も逃げることをやめる選択をした。
両手に雷が迸る。
片手からまずは三つ、雷の矢を撃ち出す。
「トライデント!」
先ほどとは違い、正面から縦並びに放つ三本の矢。
さながらに、それは三つ又の槍を想像させる一撃だ。
空中では体の自由は利かず、正面からの単調な攻撃でも十分に仕留めることはできる。
そういう意味では、跳躍した蓮華の行動は失敗だったといえるだろう。
少なくとも、飛鳥はそう思ったからこそこの矢を放った。
だがしかし。
飛鳥は改めて思い知らされる。
このファンタジーの世界に、もはや理屈などは通用しないのだということを。
「詰めが甘いと言っただろう」
言うや否や、蓮華は片手に握ったままの剣の鞘を、勢いよく地面に投げて突き刺した。
その衝撃で、地面の一部がまるで隆起するかのように盛り上がり、それはまるで土の上から生えた棘のように、飛鳥の雷撃の矢を下方向から打ち砕いた。
「な……」
思いもよらぬその反撃に、今度は飛鳥の体が硬直する。
蓮華の跳躍の勢いは止まらない。
すでに振りかぶったその剣の軌道は、確実に飛鳥の体を両断するだろう。
「今一度食らえ!」
振りかぶった蓮華が叫ぶ。
二度目の斬撃が見舞われた。
「地裂閃!」
「くっ……!」
直後に、大地が悲鳴を上げた。
まるで上空から隕石でも落下したかのように、蓮華の剣の切っ先はクレーターのように地面を抉り返した。
深さこそないものの、その威力は目で見れば恐ろしいほどに実感できるだろう。
土埃がパラパラと舞う中、蓮華は剣を構えて煙の向こうを見据えていた。
しだいに土の霧が晴れていき、周囲の状況が見え始める。
蓮華が立っているのは、ちょうど自らの技でできたクレーターの中心だ。
そこから円形に地面は中華鍋の底のように薄く陥没し、さらに正面と背後には地面そのものに直線の亀裂が刻まれている。
地を裂く一閃、ゆえに地裂閃。
名刀天地は、その名の如く天と地を支配しうるほどの強大な力を秘めたものとして代々天宮家に伝わってきたものだ。
その剣は持つ者の潜在能力を限界まで引き出し、さらに大地の加護で剣そのものの強さも増すという代物。
そこに追い討ちのように『Ring』の力が、それも大地の力が加われば、威力はさらに増大する。
だが、それだけ強大な力を扱うにはそれ相当の体力と精神力を要するのもまた事実だ。
能力者として目覚めてまだ日の浅い蓮華では、まだその全能力を開放できるというわけではない。
仮にできたとしても、それは一瞬の出来事で終わってしまうもので、攻撃にも防御にも実戦レベルで使えるものではない。
なので、今の一撃は本来の威力の十分の一程度の威力しか含んでいないものだ。
だが逆に言えば、十分の一程度でもこれほどの威力を出すことができるということだ。
これが本来の力を解放したことを考えると、蓮華自身もわずかばかりに恐怖を覚えそうになる。
「……今の私では、まだ難しいか」
手の中の白刃を見つめ、蓮華は呟いた。
そして、ようやく晴れた土煙の向こうにその姿を捉えると、再び剣を構えなおした。
「……いったー……」
そこには、体中土の汚れでまみれてはいるものの、かすり傷程度で事なきを得た飛鳥が立っていた。
「……さすがだな。完全に捉えたと思っていたが、私の力量が追いついていなかったか、あるいはお前の機転か。どちらにしても、能力者は誰もが一筋縄ではいかないということか……」
褒め言葉にしては全く嬉しくない一言を頂戴し、飛鳥は吸い込んだ土煙にゲホゲホと咳き込んでいた。
「……あんたねぇ、少しは加減ってものを知りなさいよ。ここら一帯、まとめて吹き飛ばすつもり?」
飛鳥は一直線に走る地面の溝を目で追いながら言う。
円の中心である蓮華の立つ場所から、亀裂は目測でも三十メートルほど遠くの地面まで続いていた。
「……知ったことか。私はただ、目の前の敵を倒すだけだ」
そして蓮華は剣を構え、続行だと言わんばかりに飛鳥へと向き直る。
「次こそ仕留める。ここで果てるがいい、雷使い」
「冗談。こっちにはまだ、やることがいっぱいあるんだから。例えば……」
言いかけて、飛鳥は両手を合わせる。
そこから生み出されたのは、一対の弓と矢。
飛鳥の体格にはそれこそ不釣合いにもほどがある、巨大な弓矢だった。
「――人の話を聞かないわからずやを、少し痛い目に遭わせてやること、とかね」
「……これは?」
蓮華の目に映ったものは、今まさに放たれんとしている膨大なエネルギーを集束させた雷の矢だった。
それは矢と呼ぶにはあまりにも巨大で、まるで槍のように見えた。
しかし飛鳥がああして弦を引いている以上、やはりあれは矢なのだろう。
などと、そんなことを考えているのも束の間だった。
直感的に、蓮華は身を半歩ほど引いた。
しかしそれ以上体を動かすことができない。
目には見えない、しかし恐ろしいほどの重圧が目の前にあったからだ。
動けば、その隙にあの矢は放たれる。
しかし、先手を打っても速さで勝ち目はない。
何しろ相手は雷だ、速さは音速を軽く超えるのは確実だろう。
かといって、防御する手段はあるのだろうか?
……いや、落ち着け。
冷静に考える。
いくら強力な雷とて、通電性のない物体に阻まれれば威力はゼロになる。
そしてそんな都合のいいものは、踏みしめる地面の上にいくらでもあるではないか。
地裂閃の威力をうまく調節すれば、目の前に土砂の壁を作り出すこともできるはずだ。
だがこれは、蓮華自身もまだ試みたことのない、言うなれば未知の挑戦だった。
一か八かのこの場面で試すには、リスクが大きすぎる。
だが、他に方法は浮かばない。
どうする?
賭けに出るか?
いや、しかし……。
などと、蓮華は内心で葛藤していた。
しかしそうこうしている間にも、よりいっそう飛鳥の雷撃はその威力を高めていく。
空気中のそこら中から静電気を根こそぎかき集めて、充電するかのように威力を高めている。
すでに矢を構えた飛鳥の全身は、おびただしい量の電圧によって取り囲まれ、その中心にいる飛鳥の髪の毛は泳ぐように浮ついていた。
「さーてと。次はこっちの番よ」
ギリリと、矢を引く音が響き渡る。
もはや蓮華に考えるだけの時間の余裕はない。
一秒後にでも、あの矢は放たれるかもしれないのだ。
放たれたと、目で分かってからでは回避は間に合わない。
ならばここは、あえて先手を打って相手のタイミングをずらすことがもっとも効果的なはずだ。
そう決めて、蓮華の行動は早かった。
一瞬でも早く、目の前に土砂の壁を作り出すことができればどうにかなる。
これほどの威力の大技なのだから、命中に関わらず撃った後の隙も大きいはずだ。
そこを狙う。
「先手!」
叫び、蓮華は目の前の地面を強く切り付けた。
岩盤さえ砕けそうなその一撃で、飛鳥と蓮華の間に再び土砂の壁が行く手を阻んだ。
しかしそれでも、今の飛鳥の雷撃の威力を持ってすれば全てを巻き込んで矢を放つこともできたかもしれない。
だが、そこは蓮華の思ったとおり、先手を打つことによって飛鳥の動きはわずかに鈍った。
土煙の向こうにそれを確認し、蓮華は全力で横方向に移動を開始する。
仮に今あの矢を放たれても、これなら直撃を免れることができるし、何よりも矢を放った直後の側面は隙だらけだ。
そこに一撃を見舞うことができれば、それで勝負は着く。
蓮華はクレーターの中から脱出し、即座に方向を転換。
目測の間合いから、土煙の中にいる飛鳥の姿を追った。
そして直後に、真横を轟音が通り抜けていった。
あれは間違いなく、雷の矢だ。
そう確信し、蓮華はさらに加速した。
そして十分な間合いを詰めたところで、全力を込めた横薙ぎの一撃を、土煙ごと叩き切るように振りかぶって……。
「……な」
ピタリと、その剣の動きを止めた。
理由は一つだった。
そこにあるはずの気配が、どこにもなくなっていたからだ。
おかしい、そんなはずはない。
自分の歩幅と目測の距離から考えて、ここから振るう剣の間合いギリギリに飛鳥は立っているはずだ。
そうだというのに、そこにはまるで人の気配を感じられない。
あるのはただ、自らの力で起こした土煙の壁だけ。
「これは、一体……」
どういうことだと考えかけて、蓮華は反射的にその場から後退した。
その直後に。
再び轟音が鳴り響いたかと思ったら、蓮華の真横を雷の矢が駆け抜けていった。
「な……?」
その雷撃は、わずかに蓮華の銀の髪を焦がしていった。
通り過ぎたその後には、青白い閃光が残り火のように音を立てていた。
いや、そんなことよりも、一体どうして……。
――今の攻撃は、間違いなく真逆の方向から飛んできていたものだった。
「そんな、まさか……!」
呟き、蓮華は振り返る。
たった今横を抜けていった雷撃の尾が、土煙の壁を奇麗に消し飛ばしてくれていた。
その、向こう側。
ちょうど、クレーターを越えた平坦な地面のその場所に。
「惜しい。ちょっとズレてたかな?」
――平然とそう呟く、飛鳥の姿があった。
それはありえない光景だった。
なぜなら、今飛鳥が立っている場所は、少し前に蓮華が立っていたクレーターの中心の場所よりもはるかに後方の場所だったからだ。
「なぜ……」
呆然と蓮華は呟く。
あの一瞬、蓮華の目には移動した飛鳥の姿は映らなかった。
それはつまり、それだけの速さで移動したということだろうか?
いや、それだったら、先ほどの攻防のときも同じ方法で避けることができたはずだ。
一つ前の攻防で飛鳥がほぼ無傷で済んだのは、あの一瞬で手の中の雷撃を足元の地面に打ち込み、その衝撃で自らの体を後方へと弾き飛ばしたからである。
結果として全身砂汚れまみれになったわけだが、あの状況ではそれが唯一の打開策だったことは間違いない。
直撃を受けて致命傷を負うよりは、ずっとマシな選択だ。
では、今はどうだ?
全く同じことをしたのか?
いや、それはない。
なぜなら、蓮華は一度自分の真横を駆け抜けた轟音を耳にしている。
つまり、少なくとも雷撃は確かに放たれているのだ。
今蓮華の立つ、この場所で。
なのに、その飛鳥はなぜか真逆の場所にいる。
そしてその場所からたった今、再び雷撃が襲い掛かってきた。
それは一体、どういうことなのか……。
「一体、どうやって……」
呟く蓮華を尻目に、しかし飛鳥は実に呆気なく言ってのける。
「――それは、企業秘密」
と、わずかに笑みすら見せながら。
「……っ、フン」
と、その様子に憤慨したのか、鼻を鳴らした蓮華はそのまま天地を静かに鞘の中へと納めた。
「止めだ。命がけの戦いの最中に笑うなど、どういう神経をしている……興醒めにもほどがある」
まるでふてくされた子供のように、ズカズカと蓮華は飛鳥に歩み寄ってきた。
しかし不思議なことに、言葉通りそこにはもう敵意や殺意は感じられない。
歩きながら鞘の上にグルグルと布を巻きつけて、飛鳥の真横までやってきて蓮華は厳しい表情で言う。
「いいか。今回は分けにしておく。だが、次はないと思え。私はまだまだ強くなる。次がお前の命日だ。いいな」
と、言いたいことだけを言いたいように言うだけ言って、蓮華はさっさとその場をあとにしようと去っていく。
その様子がどこか、飛鳥は自分と似ているなと、そんなことを思いながら、去り行くその背中に一言だけ告げた。
「……飛鳥。新宮寺飛鳥」
その言葉に、蓮華は一度立ち止まって半分ほど振り返った。
「ちゃんと名乗ったからね。あんまりお前とか呼ばれるの、好きじゃないから」
「…………」
無言だったが、蓮華はどこか不機嫌そうな目をしていた。
まぁ、無理もないだろうか。
どうやら蓮華にとって戦いとはどんな形であっても神聖なもののようだ。
それが中途半端なまま終わってしまったので、それで不機嫌なのだろう。
と、飛鳥がそんな結論を出して小さく溜め息をついたとき。
「……新宮寺、飛鳥か」
ふいに、蓮華はその名を読み上げた。
「……悪くない名だ。その名、しかと覚えておこう」
と、それだけ言って、再びスタスタと去っていってしまった。
ただ、その背中からほんの少しだけ不機嫌な気配がなくなっていたように見えたのは、気のせいだったのだろうか?
「……ま、いっか」
そう結論付けて、飛鳥はようやく張り詰めたままの肩を降ろしたのだった。
とにもかくにも、今は早く……。
「……お風呂入りたい」
砂まみれの自分を見て、飛鳥は一言呟いた。
日は暮れ始めていた。
あの夏の終わりの日と同じように、飛鳥の影は長く伸びていた。