Episode27:水と炎
時間が昼と夜の間、即ち夕方に差し掛かった頃、再び街に異変は起きていた。
遠くの空が夕焼けの色にほんのりと染まり始めたばかりにもかかわらず、それはやけに奇麗な赤色に映えていた。
「あれは、まさか……?」
いち早く気付いたのは、雑踏の中を歩いていた氷室だった。
気付いたというよりは、気付かされたといった方が正しいだろう。
行き交う人波の中、急に辺りがざわつき始めたことに気付き、氷室は今まで歩いてきた背中を振り返ったのだ。
するとどうだ。
遠くの空が、夕焼けとはまた別の赤い色に包まれているではないか。
しかしそれは色と表現するにはただの赤なのに、決して現実的に生み出すことのできない緋色だった。
それは、揺らめく陽炎のような炎だった。
「……なんなんでしょうね、このタイミングは。明らかに作為的にも思えますが……」
立ち止まる人の中、氷室は小声で呟いた。
しかし、いつまでもこうして傍観者やその他大勢の一人として立ち尽くしているわけにもいかない。
ならば、やることは一つだ。
ここから事務所まで戻って車を走らせるよりも、急いで走った方が早いだろう。
そう判断するや否や、氷室は絶倒の中を掻き分けるようにして走り出した。
ずれかけた眼鏡を押し上げながら、氷室は目つきだけを鋭くして夕暮れの街並みの中を逆走し始める。
「叩いても出てこない埃が、どうして自分から湧き出るんでしょうかね。全く、面倒なことこの上ない……」
愚痴を漏らすが、その足に衰えは見えない。
隙間を縫う糸のように、氷室はその場所へと向かって走り続ける。
目には見えない、しかし漠然とした気配がすでに伝わってきていた。
それはまるで蚊取り線香が虫を誘っているかのように、氷室もまたその場所へと誘われていたのかもしれない。
――まだ見ぬ、二つ目の炎が猛る場所へと。
街の北側には、今も天然の森林が姿を残している。
先日の火災で全焼してしまった森林公園も、もとはそこに小高い丘があって、そこを開拓して作られた場所だ。
その延長上にある場所が、この森林地帯だ。
森林といっても、規模はさして大きくはない。
雑木林といった方がしっくりくるだろうか。
この時期、季節は秋ということもあり、多くの木々は赤や黄色の葉をわずかばかりに残し、大半はすでに木の葉となって地面の上に積まれるように重なり落ちている。
一歩足を踏み入れれば、クシャクシャそんな音が周囲にこだますることだろう。
だが。
今だけに限定して言わせてもらうのならば、そんな音は一つとして聞こえるはずがなかった。
代わりに聞こえるのは、轟々と猛って燃える赤い炎のそれだけで、地面はすでに焼け野原のごとく、赤茶けた土色だけが肌を覗かせていた。
「……イイネェ、この感じ。俺様絶好調なんじゃねーの?」
クスクスと乾いた笑いを漏らすように、炎の中心でその男は笑っていた。
細身で長身、一見大人しそうに見える男だが、短く切られて逆立ったその髪の毛だけが、似合わない赤色に染まっている。
その笑い方は実に独特で、俗に言う微笑みといったようなかわいらしさは微塵も感じさせない。
男の笑いはすでに狂気を宿したそれに近く、笑うというよりは狂うという表現が近いだろう。
何もかもを見下したような卑下の笑みは、ただでさえ場違いな炎の中心で一際引き立っていた。
男の周囲で、また一本木が燃えて倒れる。
ズンという、木が地面へと崩れ落ちるその様を見て、男は何が楽しいのか、またその口元を歪んだ三日月のようにニィと歪めた。
「やっぱイイワ、この瞬間。命あるものが燃え尽きて消える瞬間、タマンネェ」
やはり男は狂っているのかもしれない。
一体どこに快感を覚えたのか、歪んだ笑みはよりいっそう引き立てられていく。
「全部崩れ落ちちまえ。何もかもな。ゼロになる瞬間ほど、気分のいいものはねーな」
そうしてまた小声ながらに高々と笑う。
男の視線の先で、次々と木々が焼かれ、そして地面にひれ伏すように倒れていく。
男はそこに、絶対的な強弱関係を覚えていた。
それは何も誇れることではない。
無抵抗な木を一方的に燃やすことなど、どこの誰にだって簡単にできることだ。
しかし、男はそこに快楽のような愉悦を覚えている。
無抵抗のものが自分の手でいいようにやられていくその様が、男にとって至福の時となっているのだろう。
だから、それだけに。
次に男の目の前で起こったことは、あまりにも予定外のことだったのかもしれない。
「……あ?」
変わり始めた周囲の空気に、男の笑い声は止まる。
気が付けば男の周囲は、真っ白な霧に包まれていた。
「……何だこりゃ? 煙か? にしては、やけに湿気が多い……」
と、そこまで言いかけて、男は瞬時に理解した。
それと同時に、その霧はさらに変化を遂げる。
「――スプラッシュレイン」
その囁くような言葉に反応し、瞬く間にその霧は姿を変える。
気温が急激に冷え込み、霧だったそれらは冷却され、液体である水へと変化を遂げた。
そしてそれは、周囲の炎を丸ごと洗い流すかのようなその場限りの雨となり、瞬く間にその炎をかき消していった。
当然、降り注ぐ雨は男の頭上からも雨粒を降らせる。
なので、男の頭はその雨のせいでわずかに濡れていた。
しかしそれは、その能力を使った氷室とて同じことで、彼の長い髪はいくつもの雫を垂らしながら揺れていた。
「少しは頭が冷えましたか? 全く、自然破壊もほどほどにしてほしいものですね」
呆れ果て、見下げたような声色で氷室は呟いた。
言いながら、ポケットの中から取り出したハンカチで濡れた眼鏡の雫を拭き取り、再びかけなおす。
「……テメェ、ナニモンだ?」
対する男は、どこか憎々しげにそう吐き捨てた。
男にしてみれば、これ以上ない至福の時を台無しにされたのだから無理もないだろう。
しかし氷室に言わせれば、それは馬鹿げたもの以外のなにものでもない。
「化け物にでも見えますか? まぁ、そう言われても完全否定はできませんがね。それに、それを言うならあなただって化け物でしょう」
「……なるほどな。そういうことかい」
「ご理解ありがとうございます。もっとも、ここまで言って理解できない程度の頭なら、最初から話になりませんけどね」
「ふざけやがって……」
男はそう呟くと、その身に宿る力の一部を解放した。
冷え切ったはずの空気が再び熱によって上昇し、雨上がりにも似たジメジメした空気が生まれた。
「――我に宿りし業火の名残よ。矛先に集いて全てを貫く刃とならん。灼熱の鼓動を我に伝えよ……」
歌うように紡がれる男の言葉。
立ち上る湯気のような熱が、しだいに目に映るほどの赤みを増していく。
やがてそれらは赤い蒸気となって、男の手の中に細く長い一本の棒のようなものを作り出す。
否、それはただの棒ではない。
それぞれの先端部分に赤銅色に染まる赤い刃を備えた、双極の槍だった。
先端部の切っ先からは、まるで毒を思わせるような赤い蒸気が絶え間なく噴出している。
それだけで不気味さを覚え、思わず後ずさりの一つでもしたくなるというものだ。
……普通の人間ならば、だが。
「ブッ殺す。蜂の巣より多い風穴開けてやるよ」
切っ先を氷室に定め、男は構えた。
「……やれやれ」
としかし、氷室は心底嫌そうに首を左右に振った。
「全く、そうしてこういうことになりますかね。本当に、運命の神というものがいるのならば、それを恨みたくなりますよ」
「ハン。今更命乞いか? おせーよ、十年おせー。グダグダ言ってねーで、お前はただ黙って俺に貫かれてりゃいいんだよ」
「……命乞い? 誰が? 誰に? 勘違いもほどほどにしておいてほしいものですね」
「……何だと?」
「私が呆れているのは、あなたの持つその槍のことですよ。全く、どうしてこんなことに……」
ブツブツと、氷室は実に投げ槍に言葉を吐き捨てる。
そうこうしているうちにも、男の苛立ちはさらに募っていった。
「……面倒だ。さっさと死ね」
言うや否や、男は地面を蹴って氷室に向かって突進した。
その手に握る双極の槍の先端、赤く染まった刃の切っ先は、氷室の心臓のみに的を狙い定めた。
当たれば一撃、間違いなく即死を余儀なくされるその一撃。
「クタバレ!」
「ふぅ……気が進みませんが、まぁいいでしょう」
迫り来る切っ先を目の辺りにしながらも、氷室はまだそんなことを言っていた。
しかしそれは何でもない、ただの余裕であるということに。
「……?」
男はようやく気付かされることになる。
「――大いなる潮流よ。汚れなき清流よ。全ての源である命の流れよ。我はここに、海神の遺産をその手に……」
氷室の言葉が紡がれる。
その手の中で、空気中の水分が凝縮し、冷却され、水の球となり、さらに形を変えていく。
やがてそれは、細く長い一本の棒のようになり……。
「……なん、だと?」
そう吐き捨てるように呟いた男の目の前で、それはついに武器としての形を保った。
――それは、長い棒の先端が三つに分かれ、それぞれの切っ先に青い刃を備えた……三つ又の槍だった。
「チッ、テメェもその武器かよ!」
男の突き出した一撃は、しかし容易く氷室が迎え撃った矛先によって阻まれていた。
「だから、言ったじゃないですか」
再び深く溜め息を吐き出して、再度氷室は告げる。
「――本当、嫌になりますよ。格下相手に、同じ武器でやり合うことになるなんてね」
弾きあう槍と槍。
片方は赤、片方は青。
炎と水は交わることができず、ゆえに互いを弾きあう。
いや、仮に交わることができたとしても……。
――この二人が相容れる日など、何世紀先になってもやってくることはないだろう。
「ハン、言ってくれるじゃねーか……よっ!」
男は手にした槍で、的確に氷室の体のあらゆる箇所を狙い撃ちにしてくる。
そしてそのどれもが、当たれば即致命傷となるであろう、急所狙いのものばかりだった。
額、首筋、胸、脇腹、大腿部、そして足首。
ダーツの矢のような正確さで、しかも鋭く槍が突かれる。
だが、氷室はまるで鏡合わせにでもするかのように、一撃一撃をその手の三つ又の槍の切っ先でしっかりと受け止めていた。
ギィンと、そのたびに矛先同士がぶつかり合う音が共鳴する。
決して金属でできてはいないそれらがそんな音を上げるのは、それぞれが能力によってダイヤモンドにも勝るとも劣らないほどの強度でコーティングされているからだ。
そんな強度を持った、しかも楽々と人の体に突き刺せる刃先だ。
どこであろうと、傷を負えばそれだけで戦いは大きく不利な展開になることは間違いない。
それにしたって、本来槍を扱うには剣を扱うときに比較して三倍の力量を要するといわれている。
にもかかわらず、二人の競り合いは端から見れば見事の一言に尽きるものだった。
まるで剣舞ならぬ槍舞を見ているかのように、それほどまでに両者の技量は卓越されてものだった。
「クソが、性懲りもなく……」
しかし、明らかに舌打ちを繰り返しているのは男の方だった。
「おや? どうしかしたか?」
対する氷室はまだまだ余裕があるといった感じで、一撃一撃を丁寧に捌いている。
いや、確かにそれは一見、捌いているようにも見えるかもしれない。
しかし実際はそうではない。
氷室はただ、相手の動きにあわせて自分の槍を突き出しているに過ぎないのだ。
つまりこれは、言わば模擬戦のような合わせ打ちに他ならなかった。
氷室から言わせれば、相手の力量はともかくとして、技量はさほど驚異的なものではなかった。
どれほど強力な武器を持っていても、結局はそれが使いこなせなくては意味がないことと同じだ。
攻撃力百の武器を持てば持ち主の攻撃力が百上昇するのではない。
攻撃力百の武器を使いこなせるようになって初めて、持ち主の攻撃力が百上昇するのだ。
その部分の足し算を、この男はまるで分かっていなかった。
だから氷室の目には、男の攻撃の動きそのものは早く映っても、捌くことは造作もない。
ようするに、攻撃の軌道が単純なのだ。
もともと剣と違い、槍は突くという一点しか攻撃手段がないと断言してもいい武器だ。
ゆえに、その攻撃の軌道はどうしても直線にならざるを得ない。
とうことは、早い話が左右に動くだけでも回避することなど簡単なことだ。
だからそれを補うべく、突く速さが要求される。
それを踏まえて言うならば、男の攻撃の速さは申し分なかった。
しかし、それは逆に攻撃の単調化を意味することになる。
ある程度の速さに目が慣れてしまっていれば、それらを見切って先読みし、回避すること、もしくは合わせた軌道に同等量の攻撃を加えて威力を殺すことなど、さして難しいことではない。
なにしろ氷室は、常に音速を超える雷を放つ飛鳥と共にトレーニングを行っているわけで、そんなことを繰り返していれば、否が応でも動体視力というものは鍛えられてくるのだ。
「クソッ、どうして……」
「やれやれ。攻撃が単純なら、頭の中まで単純ですね。その程度の速さじゃ、音速はおろかバッティングセンターの百五十キロにも及びませんよ」
「クッ……」
捌き合いは続く。
だが、徐々にだが男の攻め手の数が減ってきている。
前述したとおり、槍を扱うには剣に比較して三倍の力量が必要となる。
つまりそれは、三倍の速度で体力を消耗するということに他ならない。
「……フン」
としかし、男はそこでまたあの嫌な笑みを浮かべた。
「ようするに、速さが足りねーってことか」
「今更分かっても、頭の悪さは隠し切れませんよ」
「……いいだろう」
と、ふいに男の笑みが別物に変わったのも氷室は察知した。
何かが来る。
「だったら、少しだけスピードアップしてやるよ」
「……何?」
と、氷室が呟いた直後。
男は一度その場から距離を取り、しかし切っ先を氷室へと向けたままの状態で姿勢を低く保った。
シンと、空気がわずかに静寂に包まれる。
半分ほど沈みかけている男の体は、石になったかのように硬直して動かない。
しかし切っ先と、その鋭い双眸がしっかりと氷室を捉えていた。
「……行くぞ。予告通り、スピードアップだ」
その言葉に、氷室もわずかに身構えた。
互いの距離は約七メートル。
男なら一足飛びで詰め寄れる間合いだろう。
氷室は今にでもくるであろうその一撃を警戒し、受けずに回避することを考えていた。
言うまでもないが、槍というものは一撃の攻撃力が強力である反面、剣などと違って防御面に関して性能が悪い。
いや、ないといっても過言ではない。
ゆえに、槍対槍の戦いに防御という概念は存在しない。
防御することは即ち相手の攻撃を体で受けることであり、それは敗北、あるいは死を意味することになる。
ゆえに、防御はない。
あるのは絶えず責め続けることと、相手の攻撃を見切ることのみ。
氷室は集中する。
仮にも相手は能力者、しかもまだ未知の力もあるかもしれない。
わざわざ宣言するほどのものなのだ、必殺と呼ぶに相応しいかそうでないかは別として、今までの競り合いのようにはいかないだろう。
集中するのは一点。
男の槍の、その切っ先のみ。
軌道さえ見切れば、目で見てからでも回避は十分に間に合うはずだ。
そして、長すぎるように思えた沈黙が終わる。
クシャ、と。
男の足が、地面の木の葉をわずかに踏みしめたその音を合図に……。
――男の姿は消えた。
「……っ!」
速いと、氷室が思うよりもさらに早く、男の体は氷室の目の前に沈んだままの体勢で移動していた。
その手に握られた槍の切っ先が、眼前に迫る。
赤い切っ先が、視界を全て埋め尽くす。
「死ね」
何でもないようなその一言の直後、男の槍は確かに、氷室の心臓をいとも容易く貫いた。
だが。
「……何?」
そこに、手ごたえと思える感触は何一つとして存在しなかった。
あるのは、まるで空気の塊を貫いたような、そんな余韻だけ。
いや、少し違う。
これはまるで……。
――液体の壁を突き破ったような……。
「……まさか」
そう男が思ったときには、すでに手遅れだった。
「……ですから」
男の背後で、そんな声が聞こえる。
振り返るよりも早く、男は理解した。
氷室は、背後にいると。
「バカな! どうやって……」
「どうもこうもありませんよ」
つまらなそうに、しかし静かに氷室は告げる。
「まぁ、今の一撃に関しては驚きました。それは正直に認めましょう。ただ……」
言いながらも、氷室の手は止まらない。
三つ又の槍を構え、その切っ先を男に向ける。
「――それでも遅すぎます。私を貫きたいのなら、せめて音速を超えてからにしてください」
言って、氷室は振りかざした槍の切っ先を男に向けて振り下す。
……フリをして、がら空きになった男の脇腹目掛けて思いっきり蹴りを見舞った。
「ガハッ……」
空気の塊を吐きながら、男はゴロゴロと枯葉だらけの地面を転がっていった。
咳き込みながら、男は体を起こして呟いた。
「グ、クソ……一体、何をしやがった……」
「何を、とは?」
「……とぼけんな。あの速さなら、確実にお前は心臓を貫かれて終わりだったはずだ。事実、俺は確かにお前の体をこの槍で……」
言いかけて、男はまたしてもハッとなる。
「……そうか、テメェ、水使い……」
「ま、ご想像にお任せしますよ。敵の手の内を解説するほど、私も暇ではないのでね。それに……」
氷室は数歩ほど歩み寄り、倒れた男を見下ろしながら続ける。
「あなたにはまだ、少々聞きたいことがあるのでね。まずは私の質問に答えてもらいましょうか」
切っ先を脅し代わりに突きつけて、氷室は言う。
「……っ、ハン。ほとほと甘いな、お前。そんなんじゃ、いつか寝首をかかれるぜ」
「心配には及びません。少なくとも、あなたにそんな日はきませんから」
「……そうかい。だったら……」
と、男は諦めたかのように一度だけ目を閉じ、そして次の瞬間に重いもよらない行動に出た。
「――その日が来るのを待っててもらおうか!」
叫ぶなり、男はあろうことか、素手で氷室の槍の切っ先にその手をあてがった。
「な……」
理解を超えた行動に、わずかばかり氷室に隙が生まれる。
その隙を男は見逃さなかった。
瞬く間に周囲は白い霧に包まれ、一寸先の景色さえも見えなくなってしまっていた。
「……っ、しまった。水蒸気か……!」
男はその手に熱を集中させ、氷室の武器である槍そのものに熱を加え、蒸気を発生させたのだ。
武器とはいえ、それは水の力の集合体……言わば水そのものだ。
当然、水は熱を加えればお湯になるし、さらに加熱すれば水蒸気へと気化してしまう。
まるで間欠泉さながらの蒸気の壁に、ほとんどゼロだった二人の距離はそれさえも確認できなくなってしまう。
それよりもまずは、この蒸気の壁に乗じて男が攻撃を加えてくることも警戒しなくてはいけない。
自然と氷室は、男よりも周囲に注意力をはらう羽目になってしまう。
「安心しろよ。今はまだ殺さない。お前は必ず、俺が全能力を開放したそのときに殺してやる。その日が来るのを、待っててくれよな?」
遠ざかる男の声に、氷室は警戒を解く。
男はもうこの場から離れたようだ。
「……逃がしましたか。失態ですね」
呟いて、蒸気の壁を振り払うように三つ又の槍を振った。
それだけで蒸気は冷却され、小さな氷の粒となってパラパラと地面へ落下した。
もとの雑木林の中に、男の姿はもうどこにもなかった。
「…………」
氷室は無言でずれかけた眼鏡を押し上げ、その手をそのまま胸へと当てた。
そこには、衣服の上に小さな穴が開いていた。
ちょうど心臓の真上の部分である。
それだけではない。
氷室の左胸には、本当に小さな、それこそ針で刺したくらいの小さな傷が残っていた。
そこからわずかに血が流れ出してはいるが、痛みはないに等しかった。
「……音速? 冗談じゃない」
氷室は傷口を眺めながら呟く。
「――さっきの一撃。あれは、飛鳥の雷撃と互角……いや、もしかしたらそれ以上の……」
ツーと、氷室の首筋を汗が伝う。
冷や汗などかいたのは、何年ぶりだろうか。
とにもかくにも、一難は去った。
それを喜ぶべきなのか、どうなのか。
「……やれやれ」
と、それだけの言葉を吐き捨てて、氷室はもと来た道を歩き始めた。