Episode24:黒い少女と黒いウサギ
結局、僕が見たものは何だったのだろうか。
一時の幻か、それとも本当にあったことなのか。
考えながら歩くうちに、足は自然と街外れへと向かっていた。
今更だが、僕は学校を抜け出してこうして出歩いているため、服装はいつもの学校指定の制服のままだ。
平日の真昼にこの服装は嫌でも目立ちそうなものだが、すれ違う人も特に気にするような様子はない。
もしかしたら今頃、学校ではちょっとした騒ぎになっているかもしれない。
それはそれで後々に面倒なことになりそうだったが、今の僕はそこまで頭が回っていなかった。
あのあと公園で少年と別れ、僕はただ当てもなく道の上を歩いているだけだ。
一度氷室にも電話をしてみたのだが、どういうわけか通じなかった。
肝心なときに限って連絡が付かないというのは、どうにもじれったい気持ちになってくるものだ。
あれほど感じていた吐き気やめまいも、今はもう何も感じなくなっている。
それが僕の見たあの奇怪な色の空となんらかの関係があるのか、そうでないのか。
そこまでは僕にも何一つ分からないままだったが、僕が見たあの空は決して幻なんかじゃなかったと思う。
だとするとあの空は、僕にだけ見えたということなのだろうか?
ではそれは一体、何のために?
限られた存在にしか認識できないという事実は、それだけで何か意味を成しているようにも思える。
この場合は僕がその限られた存在というわけになるのだが、では果たして僕は特別な存在なのだろうか?
確かに僕は能力者として目覚め、『Ring』の所持者であるということについては特別な存在にもなるだろう。
しかしそれだったら、先ほどの少年はもちろん氷室や飛鳥、真吾だってそれの中に含まれるのではないだろうか?
彼らだって、あの奇怪な色の空を見れば何かあったのだろうかと思うはずだ。
実際僕は例えようのない何かを感じたから、あの木の場所までやってきたのだから。
だが実際はそうではなかった。
偶然といっていいかどうか分からないが、そこで出会った少年もまた能力者の一人であり、しかし僕が見たものを何一つとして見ていないと少年は言っていた。
これが何を示すことなのだろうか。
現時点で僕に理解できることは極端に少ない。
だからこそ氷室に相談しようと思ったのだが、結果は先の通りだ。
まぁ、しばらく時間を見て再度かけ直してみるべきだろう。
僕が今立たされている現状は、不安定すぎてひどく不気味だ。
戦争という見えない檻の中に僕達は閉じ込められているはずなのに、僕だけがその檻を自由に出入りしているかのような……。
「……何が起こってる? いや、起ころうとしているのか……?」
呟いた声は低く、僕自身でさえ聞き取ることが困難なものだった。
こういうときに一人でいると、焦りや不安だけが胸の中を蔓延してくる。
せめて誰かにこのことを相談できればいいのだが……。
気が付けば僕は、下ばかり見て歩いていた。
だからだろう。
体に軽い衝撃が訪れ、直後にトスンという、そんな音が聞こえたことに気付くのに、僕はずいぶんと時間が掛かっていたに違いない。
「……え?」
ふと、僕は遅れた衝撃に気付いて顔を上げた。
そこは歩道のど真ん中であり、サッと周囲を見渡した限りでは特に何もおかしなものは見つけられない。
「今、何かにぶつかったような……」
もう一度注意深く、僕は周囲を見回した。
しかし何もない。
通行人はまばらで、道路も走る車の数も少ない。
と、そこでようやく僕はその視線に気付いた。
こともあろうか、その視線は僕の真下から見上げられていたものだった。
「……あ」
僕が下を見ると、そこには鎮座するようにしりもちをついたままの少女が、ただジッと無言で僕を見上げていた。
「…………」
「…………」
空気が重い。
しりもちをついたままの体勢で地面に座る少女は、その両腕の中に大事そうに黒いウサギのぬいぐるみを抱えていた。
それだけではない。
全身をフリルだらけの黒い服装に包み、頭にはカチューシャまでもが備え付けられている。
一見どこぞの人形にも見えるその格好は、俗に言うゴスロリ……ゴシックロリータのものに間違いなかった。
「……えっと、その、立てる?」
僕は自分がこの少女にぶつかってしまい、その衝撃で少女がしりもちをついてしまったのだと理解し、そっと手を差し伸べてみた。
「…………」
しかし、目下の少女からは何の反応もない。
視線だけはしっかりと僕の目を捉えているが、口は全く微動だにしなかった。
「……その、ごめん。考え事をして歩いてたから、君にぶつかっちゃったんだ。大丈夫? 怪我はない?」
再度僕は謝罪を含めて声をかける。
だが……。
「…………」
少女は頑なに口を閉ざしたままだった。
表情一つ変わらず、それが怒っているのかそうでないのか僕には判別がつかなかった。
「……えーっと……」
ここまで来ると僕のほうが参ってしまう。
非があるのは間違いなく僕なので、ここで逆ギレでも起こせば僕は相当な悪者になってしまうことだろう。
もっともそんなことはないが、ただこうして沈黙を守られるだけでは話がどうにも進まない。
強行手段、というには程遠いものだったが、とりあえず僕は実力行使をすることにした。
しりもちをついたままの少女の両腕をそっと取り、抱き上げるように立たせた。
驚くほどに少女の体は軽く、力を入れた僕が逆にひっくり返ってしまいそうになったほどだ。
「よっ、と。本当にごめん。怪我とかしてないかな?」
「…………」
しかし、相変わらずの沈黙。
困った。
人通りが少ないのが幸いしたようだが、これじゃ帰って罪悪感が募るばかりじゃないか。
ハァと、僕は息を殺すように小さく溜め息を吐き、ふと少女の抱きかかえる黒いウサギの人形に目を向けた。
人形というよりはぬいぐるみなわけだが、少女の両腕に抱きかかえられてなお、黒いウサギは手足をだらんとぶら下げている。
というかこのぬいぐるみ、大きさが少女の体の三分の二ほどもある。
真っ黒な全身に目の部分だけが赤く、両耳には対照的に白いリボンが一つずつ付けられていた。
口の部分はおなじみの×印。
刺繍されている糸は、この部分も白だった。
そのぬいぐるみの額の部分が、少し砂に汚れていた。
恐らく、僕とぶつかったときについてしまったものだろう。
なので、僕はその汚れを取り払おうと黒いウサギのぬいぐるみに手を伸ばし、額に触れてサッとその汚れを掃った。
その瞬間。
「――うんうん。見た目にたがわず誠実な心を持っているね、少年。オイラは嬉しいよ」
などと、そんな声が聞こえてきた。
「……え?」
ふと、どう考えても男の声だったそれに、僕は慌てて周囲を見回した。
しかし、そこには誰の姿もなく、ましてや声から察する少年のような人物はどこにも見当たらなかった。
「……今の、君?」
まさかとは思いながらも、僕は目の前の少女に聞いてみる。
しかし……。
「…………」
またこれか……。
分かっていながら質問を投げる僕もどうかしているが、だって他に考えられないじゃないか。
もしかしたらこの少女、見た目がすごく女の子に見えるけど実は男の子でしたとか、そういうオチしか僕には想像がつかない。
「……あのさ」
何か喋ってくれないかと、僕が聞くよりも早く。
「何かな? 少年」
「…………」
そんな声はまた、確かに僕の耳に届いていた。
しかも間違いなく、僕の目の前から聞こえていた。
オーケー、整理しよう。
声は僕の目の前から聞こえてきて、目の前には少女の姿しかない。
周囲に人影はなく、間違いなくこの場にいるのは僕と少女の二人だけだ。
少女が実は少年でしたというオチがあれば、僕は納得できる。
しかし、その少女の外見をしたこの子は、唇をピクリとさえ動かしてはいなかった。
では、今の少年の声は。
一体、どこの、誰が、口に出したものだというのか?
重くなった頭を支えるように、僕は額を手で抑えた。
何がどうなっているんだろう?
もしもこれが空耳や幻聴なのだとしたら、やはり先ほど見たあの奇怪な色の空も幻だったと断言せざるを得ない。
覚悟を決めて、僕はもう一度だけ同じ問いを繰り返してみることにする。
少女の目を真っ直ぐに見て、その唇が微動だにするかどうかさえも見逃さないように。
「……あの、さ……」
「うむ。何かな? さっきからずっと、その続きを待っているんだが?」
「…………」
結論。
少女は喋ってはいない。
唇は微動だにしなかった。
だが僕はそこで、一つの仮説に辿り着いた。
これはいわゆる腹話術というやつでは……。
「ああ、そうそう。付け加えておくが、これは腹話術なんかではないぞ」
「…………」
あっさりと撤回された。
というか、何なんだこれは一体?
これが腹話術ではないのだとしたら、まるでこれではこの黒いウサギのぬいぐるみが一人で勝手に喋っているみたいじゃ……。
「……って、まさか……?」
「うん? どうかしたか、少年?」
ぬいぐるみは当然、口を動かしたりはしない。
しかしもう、そうとしか考えられなかった。
さっきから僕と噛み合わない会話を繰り広げていたのは……。
目の前の少女ではなく。
目の前の少女のフリをした、実は少年でもなく。
目の前の少女が腹話術で喋らせていた、黒いウサギのぬいぐるみでもなく。
もっと、単純に……。
「――……ぬ、ぬいぐるみが……喋った……?」
恐る恐る、僕はうわずった声でそう呟いた。
しかしそれとは反対に、黒いウサギは実に冷静にこう語る。
「ぬいぐるみとは失敬な。オイラにはちゃんと、主人が付けてくれたクロウサって名前があるんだ」
「ク、クロウサ……さん?」
「そう、クロウサ。黒いウサギだから、クロウサ。どうだ? いい名前だろう」
と、どこか誇らしげな声でクロウサは言った。
しかしその表情はあくまでもぬいぐるみのそれであり、僕の目には喜怒哀楽の変化さえ見極めることはできなかった。
「さぁ、次は少年、君の番だ」
「……へ? き、君の番って……何が?」
「鈍いぞ少年。オイラは自己紹介をしたんだから、次は君の番だろうと言っているのだ」
「……え? あ、ああ、はい」
って、どうして僕はぬいぐるみ相手に敬語なんだ?
「えっと、大和……です。黒栖大和……」
「ヤマト、か。うん、いい響きだ。ヤマトはいい名前をもらったんだな」
「ど、どうも……」
何だろう、この不思議空間は……。
「あ、そうそう。ついでと言ってはなんだが、オイラの主人の名前も教えておくよ」
クロウサのその言葉に、僕は視線を少女へと戻す。
途端に、バッチリと目と目が合った。
というかこの少女、瞬きとかしたいのだろうか……。
「紹介しよう。オイラの主人、鈴代かりん(すずしろ かりん)だ」
「…………」
クロウサの言葉に、僕は何も返せなかった。
堂々と紹介を受けたにもかかわらず、かりんと呼ばれる少女は相変わらず無言のままだった。
「……あの、クロウサ……さん?」
「ん? なんだいヤマト?」
「その……あなたのご主人、いつもこうなの?」
「こう、とは?」
「その、無口っていうか無表情というか……」
「ああ、なんだそのことか」
と、実に気楽そうにクロウサは言った。
「――かりんは人見知りで照れ屋なんだ。だから気にすることはないさ」
……いや、さっきからずっと見てますよ、僕のこと……。
何というか、まるで僕は観察されているような気分だった。
と、そんなときだった。
微かに動いたかりんの口を、僕は見逃さなかった。
視線は相変わらず僕に向けたまま、隙間ほどだけ開いたその口から、ようやくかりんは一つ目の言葉を吐き出した。
「――……あなたも。同じ。私と同じ」
言葉はもはや単語の集まりのように一つ一つで区切られ、まるで詩の朗読を聞いているようだった。
しかし思った以上に声は低く、それでいて女の子らしい繊細さも感じさせるものだった。
「……同じ?」
「ん? どういうことだかりん? あ、もしかして……」
言いかけて、クロウサは黙った。
表情の変化は見えないが、何となく驚いているような感じがした。
そしてかりんは、言葉を続けた。
そしてそれは、思いもよらない方向で交錯することになる。
「……同じ。私も持ってる。あなたも持ってる。望んだもの。望んでないもの。大きなもの」
「……え?」
その言葉に。
僕は一瞬だけ、寒気を覚えた。
さらに言葉は続く。
「――……力。大きな力。私は目覚めた。夢から覚めた。私は音。あなたは……何?」
それは。
「まさか、君も……?」
聞き間違えようのない、突然の告発。
目の前にいる寡黙な少女は、僕と同じ……能力者だった。
「……ねぇ? あなたは何? 見せて」
その声色一つ変わらない言葉に。
ゾクリと、僕の背中に感じたことのないほどの寒気が走り出した。
かりんを中心に、周囲の空気が急速に変化を始める。
間違いない。
これは……。
「ダ、ダメだ! こんなところで……!」
周囲に人はいなくても、ここは路上の真上に過ぎない。
こんな場所で能力を使いでもしたら、その反動で周囲はメチャクチャに吹き飛んでしまう。
「落ち着くのだ、かりん。こんなところで力を使うものではない」
「……クロウサ。黙ってて。これは。私の宿命」
クロウサの静止も聞かず、かりんはとうとう能力を開放した。
途端に、その場に場違いなメロディが流れ始める。
この曲は、確か……。
「……くるみ割り人形?」
と、僕がその曲名を呟いたところで、それが合図となった。
「……私と。戦って」
息つく間もなく、僕の目の前に現れたのは巨大な音の塊だった。
これがかりんの能力の武器なのだろうか。
目に見える形で具現されたそれは、音符や休符の様々な形を模し、そして僕に狙いを定めていた。
「……行くよ。ヤマト」
その名を呼び、人形を抱えていた両腕の片方を空にかざし、僕に向けて振り下ろした。
「――序曲。プロローグ」
具現化された無数の音符の中の一つ、ト音記号の形をしたそれが、かりんの言葉を合図にして僕目掛けて飛来する。
「く、そ……!」
また一つ、望んでもない戦いが始まった。
くるみ割り人形のメロディが流れる中、音と風はぶつかり合う。