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LinkRing  作者: やくも
23/130

Episode23:その目に映る全て


 変化は文字通り、急激に訪れた。

「……っ?」

 気のせいかと、僕は何度も首を傾げていた。

 しかしそのたびに、体ではなく脳が直接訴えかけてくる。

 それは目には見えない些細な変化であると同時に、しかし明らかに空気の色が変わっていくものだった。

 平穏を保っていた世界の温度が、目には見えない何かをきっかけに急激に低下していく。

 僕は体に寒気にも似た何かを覚え、同時にのどの奥はカラカラに乾ききってしまった。

 間違いなく、周囲の空気は変わっていた。

 具体的な表現は難しいが、それだけは間違いない。

 わずかにこみ上げてくる吐き気は、今朝のものによく似ている。

 僕はベッドの上から跳ね起きて、もたついた足取りで保健室の窓側へと歩み寄る。

 そして窓越しの空を見上げる。

 見て、すぐに異変に気付かされた。

 空の色が、ある一部分だけ奇怪な色に変わり果てていた。

 青く澄み渡る空の中でそこだけが、赤と青を幾重にも混ぜ合わせてグチャグチャにしたような紫の色に染まり変わっていた。

 その色合いはまるで、さながらに混沌という言葉を連想させる。

 うねりあい、歪みあいながらさらに混ざり合う赤と青。

 もはやそこに鮮やかという表現はなく、ただただ不気味の一言に尽きる。

 ゆっくりと渦を巻くその場所は、まるでその場所に周囲のあらゆるものを吸い込まんとしているようだった。

「何だ、あれ……」

 僕は枯れた声で呟く。

 見ているだけでさらに吐き気を後押しするようなその色合いは、今の僕にとって有害なものでしかない。

 だというのに、僕はその光景からまるで目が離せないでいた。

 誰に言われるわけでもなく、他ならぬ僕自身の意思で、僕はその光景を目に焼き付けていた。

 いや、正確には目が離せなくなってしまったと言ったほうが正しいかもしれない。

 なぜなら僕は、そこに不気味さ以外のもう一つのものを感じ取っていたからだ。

「……呼んでる」

 もう一度僕は呟く。

 混沌の色の空は、呼びかけるかのように告げていた。

 ただ一言、我が下へ集えと。

「…………」

 それが本当にただの空耳だったのなら、僕はこうして跳ね起きたりはしなかっただろう。

 つまりこれは、空耳なんかではない。

 確かに、僕は呼ばれていた。

 その、狂い始めた歯車の中心に向けて……。


 今が授業中でよかったと思う。

 僕は生まれて初めて、無断で学校を抜け出した。

 と、今はそんな些細な罪悪感に囚われているような悠長な時間はない。

 僕はただ走り続けていた。

 その、混沌の空の真下に向かって。

 ふいにこんなことが頭に思い浮かんだ。

 幼かった頃、僕は空に浮かぶ月を目指してどこまでも続く道の上をひたすらに走り続けたことがあった。

 その頃の僕は、月が空に浮かんでいることは知っていても、手の届かないものだとは考えていなかった。

 それは史実としては間違ってはいなく、確かに人類はその頃にもなれば月の地面を足で歩けていたのだから。

 だからその当時の僕が目指していたのは、単純にあの月の真下に行ってみたいという、好奇心からの想いだったのだ。

 しかし実際にはそんなことは叶うはずもなかった。

 当然の話だ。

 月は地球の衛星であり、肉眼では驚くほど低速で動いて見えるが、実際の速さは比べ物にならないほど高速だ。

 少なくとも、幼い頃の僕の走る速度は月の公転速度に比べればそれこそまさしく月とスッポンである。

 しかし今、僕がこうして追いかけている空は微動だにしない。

 なので、走れば走っただけ、僕の目に映るその混沌の空は徐々に距離を縮めていく。

 いや、そうではないかもしれない。

 僕は今、間違いなく僕自身の意思で走っている。

 だがそれは、僕がそう思い込んでいるだけの話なのかもしれない。

 実際のところは、実は僕があの渦の中心に吸い込まれているだけなのではないだろうか?

 などと、僕は走りながらにそんなことばかりを考えていた。

 どう見ても真昼の空に不釣合いとしか思えないこの異変。

 天変地異の始まりすら思わせると言っても過言ではないだろう。

 しかし、そんな目に見えるこの異変に。

「……やっぱり、そうなんだ」

 僕は走りながら、すれ違う人々に目を向ける。

 それらの人々は、誰一人としてこの異変に気付いてはいなかった。

 意識して空を見上げなくても、これだけの異変には誰かしら気付きそうなものだ。

 なのに、誰も気付かない。

 いや、そうではない。

 見えていないのだ。

 なぜなら、それらの人々は選ばれた者ではないから。

 つまり、これは。


 ――能力者達にのみ伝える、何かのメッセージのようなものということになる。


「…………」

 僕はこの際、そのメッセージの内容に関してとやかく想像することはやめておいた。

 どの道僕はもう、自らの足で渦の中心に向けて走っているのだ。

 遅かれ早かれ、否が応でも真実を知る立場にある。

 だったら、曖昧な想像の一つや二つなど、それこそ全くの無意味ではないか。

 しかしそうと分かっていても、やはり気分はひどく落ち着かない。

 それも当たり前のことだった。

 能力者達にのみ知らせているであろうこの合図。

 その時点で、すでにいい知らせであるという望みは果ててしまっているのだから。

 恐らくは、これが……。


 「――戦争の始まりを告げる、合図……」


 それだけ呟いて、僕はまた足を動かした。

 向かう場所は一つ。

 この街の、ちょうど中心に当たる場所。

 そこには、この街で一番大きな一本の木が聳え立っている。

 僕はその木の名前も何も知らないけれど、まつわる話は少しだけ耳にしたことがあった。

 曰く。

 その木はすでに樹齢を何万年と超え、今もなお生き続けているものなのだと。

 街の誰もが知っている場所で、街の誰もがその木の名前を知らない。

 だからいつしか、その木にはこんな名前が付いていた。


 ――永遠を超える大樹……永久の木、と。


 近付くにつれて足取りが重苦しくなっていく。

 体のあちこちに鉛の枷を埋め込まれているような、そんな感覚だった。

 肩で息をしながら、ようやく僕はその場所へと辿り着いた。

 見上げるその場所には、巨大な傘のように葉を生い茂らせる大木が聳え立っている。

 真下から見上げたところで、幾重にも張り巡らされた枝と葉の向こうに空は見えない。

 木の幹はそれこそ直径が一メートルに届くほどに太く、台風や嵐の夜でも倒れることはなかったというのも頷ける。

 そんな場所には今、嫌な風が吹いていた。

 湿った空気が充満して、鼻の奥にこびりつくような異臭を放っていた。

 雨上がりのあの匂いと、それはよく似ている。

 肌にまとわり付くような、ジットリとした空気。

 そこにいるだけで吐き気を覚え始める匂い。

 これだけ揃えば、その場所は十分異質である。

「…………」

 僕は今さらながらに周囲を見回すが、辺りにはまるで人の気配はない。

 この場所は確かに人通りから少し外れた場所ではあるが、こんな風に誰一人として姿が見当たらないというのはどこかおかしい。

 シンと静まり返る周囲。

 ただ一人、僕だけがまるで取り残されたようにそこに佇んでいた。


「う……」

 と、僕は一瞬よろめいた。

 目の前の景色がわずかに霞んで見える。

 まずいと、直感的に判断した。

 こうしてこの場所にいるだけで、僕はまるで生命力を徐々に吸い取られているかのように力を失っていく。

 立つ足に力が入らなくなり、足元がやけにふらつき始めた。

 たまらず僕は、木の幹に背中を預けてそのままその場へと座り込んだ。

 全身の力が抜けていくようだった。

 いや、まさしくそうだった。

 見上げればそこにあるはずの、しかし遮られて見えない空。

 そこにあるものは、間違いなく異質なものだった。

 本当に何もかもを吸い取るかのように渦を巻く空は、僕の体からありとあらゆる力を吸い取ろうとしているのかもしれない。

「……力、が……抜けて……」

 もはや僕の体には立ち上がる力も満足には残されていなかった。

 呼吸をするのも一苦労で、しかし吸い込んだ空気は毒のように重く苦しい。

「……く、そ……」

 這いずるように手を伸ばし、木の幹にしがみつくようにして僕は体を持ち上げようとした。

 しかしそれも虚しく、半分ほど持ち上がった僕の体はあえなくズルズルと地面に引きずられていく。

 意識が遠ざかっていくのが分かる。

 今朝と同じだった。

 僕の体は糸の切れた操り人形のそれと同じで、自分の意思では何一つ満足にすることができなかった。

 見えない重力に押し潰されるように、僕の体は沈んでいく。

 底なしの沼の中にズブズブと、音も立てずに沈んでいく。

 それでもどうにかしようと、僕はただ手を伸ばした。

 掴むものなど何もないと知ってなお、そうすることしかできなかった。

 しかしそれは、確かな感触だった。

 人としての温もりを確かに持った、人の手の暖かさだった。


 「――しっかりして。大丈夫ですか?」


 その声は、まだ幼さを残す少年のものだった。

 当然、僕はその声に聞き覚えなんてあるはずがなかった。

 だけどこうして手を握り返してもらっていることで、徐々に僕の意識は戻っていった。

「……え?」

 僕が正面を見返すと、そこには一人の少年の姿があった。

 パッと見て、歳は僕よりも年下。

 恐らく中学生くらいだと思う。

 どこにでもいるような普段着に身を包んだ少年は、しかしそれとは対照的に目立つほどの蒼い目をしていた。

「……君、は?」

「僕のことより、今は自分のことを心配してください。瘴気に当てられたみたいですね。少し、この場所から離れた方がいいです。立てますか?」

 少年はそう言うと、握ったままだった僕の手を一度離し、僕の隣やってきて肩を抱えた。

「ご、ごめん……」

「いえ、気にしないでください。それに……」

 言いかけて、一度少年は言葉を区切る。

 そしてどうしてか少しだけ寂しそうに微笑んで、言葉を続けた。


 「――僕もあなたも、同じみたいですからね。望みもしない力に選ばれた、星の下の命」


「……それじゃあ、君も……」

 言いかけて、僕はまた吐き気を覚えた。

「とにかく、今はここから離れましょう。安心してくだい。少なくとも、今はまだあなたの敵ではありませんから」

「……うん」

 言われるがままに肩を借りて、僕はおぼつかない足取りでその場をあとにした。

 そのときに、わずかに振り返って空を見る。

 そこに、あの混沌の色の空はどこにも広がっていなかった。

 疑問を抱くよりも早く、僕はそのまま歩き去っていった。


 僕はそのまま少年の肩を借り、最寄にある小さな公園までやってきていた。

 ベンチに座る僕の体に、先ほどまでのような息苦しさや疲労の類はすでにほとんど消えかけている。

「どうぞ」

 と、少年は手近にあった自販機から買ってきたスポーツドリンクを一つ、僕に向かって差し出した。

「あ、ありがとう……」

 せっかくの好意を断るのも悪かったので、僕はそれを受け取っておく。

 プシュと音を立て、ペットボトルの蓋を開ける。

 一口ほど口に含むと、驚くほどに水分が足りていなかったことが分かった。

「どうですか? 少しは具合の方も落ち着きましたか?」

「あ、うん。もう大丈夫。ありがとう、おかげで助かったよ」

 僕がお礼を言うと、少年はどこか嬉しそうに微笑んだ。

 その笑みは同性の僕でも素直にかわいいと思えるくらいに無垢なもので、少年の誠実さのようなものがにじみ出ていた。

「あの場所は、ずっと昔から瘴気が流れ出しやすい場所なんだそうです。普通に暮らしている分には誰もそのことに気付かないけど、僕達みたいな境遇の人間は、能力の覚醒と同時に副作用みたいな感じで、そういうのにひどく敏感になってしまうみたいです」

「……それじゃあ、やっぱり君も?」

 うすうす分かっていたとはいえ、今の発言ではっきりした。

「……はい。僕もあなたと同じ、能力者の一人です」

 少年は言い切った。


 わずかに沈黙が流れ、その後に僕は聞いてみた。

「どうして、僕を助けてくれたの?」

「理由、ですか?」

「うん」

 僕がそう聞くと、少年は少し戸惑ったような表情を見せた。

「いえ、その……理由らしい理由なんて、特になかったんですけど……ただ、あからさまに目の前で苦しんでいる人がいたら、助けるのが普通じゃないですか?」

「それは、そうなんだけど……君は、僕のことを能力者だって分かってたんでしょ?」

「いえ、最初は分かりませんでした。けど、実際に触れてみて分かったんです。独特の空気というか気配というか、体の中からそんな流れのようなものを感じましたから」

 言って、少年は飲み物を一口口に含んだ。

「それに、僕は能力者同士で戦うっていうのは正直いい気分はしません。それが仮に、遥か太古の昔から当たり前のように繰り返されてきたことであったとしても、僕は賛成できません。どう言葉を並べ立てたところで、結局は必ず犠牲が出てしまうのだから……」

 少年は言い終えて、わずかに目を伏せた。

 僕は思った。

 この少年は、僕と少し似ている。

 性格や態度とか、そんなものはどうでもよくて、ただ根底の部分では僕と同じ気持ちを持っていた。

「……ごめん。その、問い詰めたりするつもりじゃなかったんだ。ただ、ちょっと不思議に思ってさ」

「あ、いえ。気にしないでください。むしろ他にもいるであろう大多数の能力者から見れば、僕の言っているようなことこそが理想主義の甘えごとなんです。誰も傷つけずに終わらせられる戦争なんて、夢物語もいいところですから……」

 寂しげに笑って、少年は言う。

「あの、僕も一つ聞いていいですか?」

「あ、うん。何?」

「その、どうしてあの木のある場所にいたんですか?」

「あの木の真上の空だけが、変な風になってたんだ。紫色に染まってて、こう渦を巻くように……」

「……空、ですか?」

 言って、少年は空を見上げる。

 しかし、今はもうどこの空にもそんな異変は見えはしない。

「……何もないように見えますけど」

「さっきまではそうだったんだ。ちょうど君が僕を助けてくれたときには、もう元に戻ってたんだ」

「そう、なんですか……」

 どこか疑問の混じる声で少年は呟き、今はただ青く広がるだけの空を目で追いかけていた。

 と、そこで僕はやや疑問に思った。


「あのさ、ちょっといい?」

「はい。何でしょう?」

「逆に聞くけど、どうして君はあの木の場所にいたの? それって、僕と同じで空があんな風に変わったの見たからじゃ?」

「……えっと、その……すいませんが、その空が変な風に変わり始めたのって、いつ頃ですか?」

「……確か、午後一時過ぎくらいだったと思う」

 僕は保健室の中で昼休み終了のチャイムの音を聞いており、そのほぼ直後にあのおかしな空は現れたのだ。

 そこから逆算して考えると、その時間であっているはずだ。

「……あの木のある場所の真上の空が、変化していたんですか?」

「うん。だから僕は、それを不思議に思ってここまで……」

 言いかけて、僕はふと思い当たる。

 もしかして、これは……。

「……もしかして」

 恐る恐る、僕は少年に声をかけた。

「……はい。多分、そうだと思います」

 少年の肯定で、僕の予感はおかしな方向に的中した。


 「――少なくとも僕は、そんな空を見てはいません」


 僕の中で、また一つの疑問が増えた。

 ということはつまり、あの空に起きた変化は、僕の目にしか映っていなかったということなのだろうか?

 僕は最初あの空を見たとき、これはきっと能力者達の目にしかそうは見えないものなのだと、無意識のうちにそう考えてしまったけど、それは大きな勘違いだったのではないだろうか?

 つまり、あの空の異変を目にすることができたのは僕だけであり。

 あの木の場所に導かれたのもまた、僕一人だったということだろうか?

 だとしたらそれは、一体何のために?

 一体何が理由で?

 疑問ばかりが重なっていく。

 明確な答えなど、まるで最初からどこにも存在しないかのように。

 僕と少年の間に、長い沈黙が降りた。

 答えが見つからない。

 全ての物事には結果があり、そうである以上は原因があるはずなのに。

 では、今回の場合のそれらは一体何だ?

 結果として、僕はこの場所に導かれた。

 その原因は、あの異質な空だ。

 原因も結果もはっきりとしている。

 にもかかわらず、何だろう……この胸の内に残るモヤモヤは。

 数式があり、答えがある。

 それだけで数学は成り立つはずなのに、式の過程をまるで理解できていないかのよう。

 答えが合っていればそれだけでいいはずなのに。

 そしてようやく僕は思い知らされる。

 迷路のような日々は、今になってようやく始まったのだということを……。



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