Episode21:隣の誰か
一夜が明けて、また今日も新しい一日が始まろうとしていた。
それは何の変哲もない、いつもどおりの朝の訪れだった。
……と、僕は思っていた。
少なくとも、こうして自分の部屋で目を覚ました時点では……。
いつもと同じように朝食を済ませ、制服に着替えて家を出る。
途端に、僕はその場で膝をつきそうなほどの急激な息苦しさを覚えた。
「……う、あ……?」
空気が重い。
まるで重力そのものが極端に強まっているような感じだ。
吸い込んでいるのは本当に酸素なのだろうか?
まるで有害な毒ガスでも吸い込んでいるかのように、僕の体は跪くかのように沈んでいく。
意識が朦朧として、かろうじて手が掴むドアノブの感触すらも徐々に薄れていく。
吐き気がする。
胃の中のもの全てを逆流してしまいたくなるほどの、おぞましいほどの気分の悪さ。
こんな感覚は今まで生きてきた中で一度として味わったことはない。
「……っ、は、あっ……」
何度も何度も酸素を取り入れようと肺は動いているのに、一向に気分は楽にならない。
それどころか、もがけばもがくほど意識は薄れ始め、ついには目の前の景色までもがメチャクチャに歪み始めていた。
……何なんだ、これは?
一体、何が起こっているんだ?
声に出すこともできずに、僕は呻くように呟いた。
ドクンと、心臓が跳ねた。
その鼓動が全身に伝わり、体全体が無意識のうちにその奇妙な揺れのようなものを感じ取っていた。
空気が歪む。
目に映る全ての景色が渦を巻き、螺旋のようにやがて中心であるその一点に向けて集束していく。
この瞬間、世界は確かに壊れていた。
いや、それは僕の目から見える世界だけのことなのかもしれない。
おそらく他の人の目から見ればおかしいのは僕であって、ここは何も変わらない当たり前の現実という世界が広がっているに違いない。
しかし今僕の目に映るこの壊れた世界は、あまりにも不安定だ。
空も大地もあったもんじゃない。
歪み続ける大地はあらぬ方向へと道が曲がり、見上げているはずの空はなぜか正面にある。
その映像の一つ一つが全て壊れかけの出来損ないで、つぎはぎだらけの絵のように見える。
まるで、はめ込む場所を間違えたパズルのピースのよう。
正しく配列されることを忘れ、自分勝手な新しい風景を作り出し、結果として自ら壊れ果てていく。
どこにも繋がらない、繋がってない世界。
それはまさしく、このリアルを容易く消し去ることができる狂ったファンタジー。
僕は今、まさにその渦の中にいた。
現実と仮想の狭間で、僕は侵食の影響を受けている。
引きずりこまれ、引きずり出されてを繰り返している。
「あ、う……く……っ」
呼吸することなどとうに忘れていた。
意識は確実に薄れ、僕の目はもう間もなく音も立てずに静かに落ちようとしていた。
映る景色がどんどん細く狭くなっていく。
最後までその目の先に青い空も白い雲も映ることはなく、崩れ落ちる作りかけのジオラマだけが、鮮明に僕の脳に焼き付いていた。
「……っ……」
目が閉じる。
閉じればきっと、僕はもうどこにも戻れない。
ダメだ、目を開けろ。
立つんだ。
その思いとは裏腹に、体はすでに抵抗することを忘れていた。
手足には力が入らず、まるで自分の体ではないかのようだった。
繋がっているのに繋がってない。
僕はまるで、操り糸の切れたマリオネットそのものだった。
誰かの糸なしでは、自分で立ち上がることさえもできない。
意識が閉じていく。
現実と仮想の狭間のその場所に、僕は落ちていく。
そこにはもう、何もない。
現実に帰る扉も、仮想に進む扉もない。
あるのはただ、絶対的なほどの……虚無。
言葉なき誘いが、音も立てずに僕を連れ去ろうとしている。
「……嫌、だ……」
かろうじて出た言葉は、しかしたったそれだけのものだった。
それだけでもう、僕はありとあらゆる意味で力尽きてしまった。
抗う力さえも、もう微塵も残されてはいない。
そんな僕の目が最後の最後で捉えた映像。
それは、一体どういう皮肉の意味合いが込められていたのだろうか。
「…………」
――揺らぐ視界のその先には、理解できない記号の羅列を刻み込んだ『Ring』があった。
そして僕の意識はそこで完全に途絶えた。
その目で見ていた世界から、ありとあらゆる音が消えた。
最初からなかったのかもしれない。
僕は色のない無の世界に包まれた。
そこには本当に何もない。
白でも灰色でも透明でもない、言葉の定義の領域を超えた色の世界が、そこには広がっていた。
前も後ろも右も左も、上も下もない世界。
例えるならそこは一面のキャンバスのようで、広ささえも推し量ることはできそうになかった。
「……ここは……」
僕はその虚無の空間で立ち尽くしていた。
不思議なことに、先ほどまでの苦しみから僕は解放されていた。
手も足も意のままに動くし、息苦しさや吐き気も何一つ感じさせない。
まるで、最初から何もかもが幻であったかのように。
「…………」
僕はその、無限に広がるほどの広大な虚無の空間を見渡した。
ここには本当に、何もない。
……いや、あるという定義が存在していないのだ。
例え何かがここにあっても、誰かがここにいても、この空間はそれらの定義を全て打ち消す。
互いに互いを認識できなくさせ、結果として目に映る景色は虚無だけとなる。
あるけど、ない場所。
それはまるで、いつか見て、忘れた記憶のような。
そんな、あまりにも空虚で、忘却された場所。
零れ落ちる時の砂は、ひっくり返せば再び時を刻むことができる。
しかし、ここはそうではない。
時を刻んで零れ落ちる時の砂は、行き着く先を知らない。
ゆえに、ひっくり返しても再び砂が落ちることはない。
ちょうど、ここはそんな場所だった。
確かにあるのに、決して見つけることのできない場所。
それは今も昔も、ずっとずっと僕達の暮らすこの平面世界の延長上にあった場所。
僕達が毎日を暮らす現実という名の平面世界から、ほんのわずかに位相のずれた場所に位置する、あるけどない世界。
気が遠くなるほどの昔、誰かが楽園と呼んだその場所は、同時に名もなき聖域でもあった。
やがていつの日か、別の誰かがこう呼んだ。
――空白の箱庭……ロストカラーガーデン、と……。
そして、どうして僕は、そんなことを理解することができるのだろうか?
見たことも聞いたことも、記憶にもないこの場所。
それなのに、なぜか僕は……。
「…………」
――僕は、この場所を知っている……。
そして次の瞬間、世界に色が生まれた。
生まれた色は、赤。
それは生命の誕生を意味する命の色。
流れる赤は生の証。
ゆえに生まれたその赤も、意思を持って僕に道を示そうとしていた。
色のないキャンバスに描かれるそれは、文字でも言語でも記号でもない。
しかしそれらは、意思を持つ古代の力。
「……クリムゾン・テキスト……」
そして僕は、描かれたそれらの理解不能な旋律を目に焼き付けていた。
決して言葉にはできないもの。
それなのに、僕はそれらを読み取り、本能的に理解することができた。
やがてその記号の羅列は煙のように消え去り、代わりに今度は何かの図形のようなものが浮かび上がってきた。
最初はただの点だった。
その数は八。
さらにそれらの点の中心に、一際大きな点が生まれた。
八つの点は中心の大きな点から八角形を象るように、均等な距離で浮かび上がっていた。
そしてさらに、それら計九つの点を取り囲むように、どこかで見たような形が浮き上がる。
「……これは……」
と、僕がその浮かび上がった形にわずかな心当たりを持ったところで、再び僕の意識は奈落の底へと落下していった。
その後のことは、僕は何一つ覚えていない。
ただ一つ確かなことは、僕が目を覚ました場所は、学校の保健室のベッドの上だったということだった。
頭はいつまで経ってもボーっとしたままだった。
僕は今、昼休みの最中をこうして保健室のベッドの上で寝て過ごしているわけだが、こうなった経緯を何一つとして覚えていなかった。
僕の今朝の記憶は、家の扉を閉じたあの時点で途切れている。
僕はそこで正体不明の苦しさを覚え、薄れ行く意識の中で何度も抵抗しながら、それもむなしく気を失ったはずだった。
ただ、そのときに見えた映像はしっかりと覚えている。
あの色のない世界も、そこに浮かび上がった記号と、それの意味するところも、あの意味深な図形も何もかも。
僕の脳の中に高性能のデジカメでも内蔵されているかのように、それはやけに鮮明だった。
「……っと」
上体を起こす。
先ほどまでいた保険医の先生も今は昼食に出ているようで、保健室の中は僕一人だけだった。
妙に懐かしさを覚えるような、薬品の匂いが僕の鼻をついた。
今年の春に健康診断を行って以来、僕は保健室を利用したことはなかった。
だから懐かしいというよりは、どこか物珍しいといったような、そんな感覚を覚えているのかもしれない。
真っ白な天井に真っ白なカーテン、真っ白なベッドの真っ白な枕と真っ白なシーツ。
何もかもが真っ白に包まれたその場所は、あのときふいに見えた無色の世界にどこか似ている気がする。
もっとも、清潔感の塊みたいなこの場所に、嫌でも目立つようなあの赤い記号はどこにも見当たりはしないのだけど。
「……やっぱり、変だ」
僕は呟く。
僕が目を覚ましたのは、実は今から二十分ほど前のことになる。
そのときは保健室の中にまだ保険医の先生がいて、時刻も間もなく昼休みを迎えるという、その直前のことだった。
目覚めてまず、僕はここがどこだか分からなかった。
しかし、どこか見覚えのある保険医の先生の顔を見て、僕はここが学校の保健室であることを知った。
その先生の話によると、僕はどうやら朝登校してきて間もなく体調の不良を訴え、それから今までずっと眠り続けていたのだという。
もちろん、僕の中にそんな記憶はない。
唯一合致しているのは、僕が倒れたというその事実だけだ。
しかしその場所は学校ではなく、間違いなく自宅の玄関前のはずなのだ。
はずなのだが……。
「どうなってるんだ? まさか、誰かが僕をここまで運んだっていうのか?」
しかしそれは考えにくいことだ。
僕の家から学校まで、徒歩で十五分ほどの距離がある。
その間ずっと僕が気を失っていたとして、その僕を運んだであろうその人物は、一体どうやって僕を運んだのだろう?
単純に背負ったりなどということも考えられるが、それはあまりに目立ちすぎではないだろうか。
仮にも時間帯は会社や学校に急ぐ人の波が多い時間帯だ。
そんな中を誰かを背負って移動するようなことがあれば目立たないわけがないし、逆に不審に思われるのは明白だ。
だとすると僕は、車にでも乗せられて運ばれたということだろうか?
確かに徒歩に比べればずいぶんと自然な形にはなるだろうが、それでも不自然さは拭いきれない。
そうやって学校まで運んだところで、次は僕をこの保健室まで送り届けなくてはいけない。
しかし、保険医の先生の言葉をそのまま借りるのなら、僕は他でもなく、自分自身の言葉で休ませてほしいと申し出たらしい。
この証言で、全ての可能性は潰えることになる。
だとしたら本当に、僕は一体どうやって……。
まさか、本当に無意識のままで学校まで歩いてきたとでもいうのか?
……おいおい、夢遊病の一種じゃあるまいし、ましてや僕にそんな病気はないぞ。
これは断言できることだ。
つまり僕は、少なくとも自分の意思で学校にやってきたわけではないということになる。
だとすると、もう考えられる可能性は一つしかない。
――僕以外の誰かが、無意識の僕を操るかのようにしてここまでつれてきたということだ。
「……そんなこと」
バカバカしいなどと、僕は吐き捨てることができなかった。
なぜならすでに僕は、現実の境界線をとっくに踏み越えてしまっているのだから。
もはや僕の目に映るこの世界の中に、万人が見ている世界の常識なんて通用しない。
ここは現実であると同時に、ファンタジーの世界だからだ。
できるはずのないことができる、あるはずのないものがある、そんな世界だからだ。
「…………」
途端に僕は言葉を失った。
今この口を開いても、おそらく僕は否定と肯定を繰り返すことしかできないだろう。
全ての出来事を整理する時間が必要だった。
そしてそれは、まさしく今この瞬間なのかもしれない。
この際、今僕がこうして保健室のベッドの上にいることは大きな問題ではないだろう。
それよりももっと注目すべき点があるじゃないか。
そう、それは……。
「――誰が僕をここまで運んだか……」
その一点に尽きることだった。
裏を返せば、その人物こそはおそらく僕と同じ境遇……つまりは能力者である可能性が非常に高いからだ。
考えても見て欲しい。
仮に玄関前でぶっ倒れている学生の姿なんて見かけたら、普通はすぐさまその家の扉を叩くとか、救急車を呼ぶとか、そんな非常時に行う行動なんて実に限られたものだ。
僕の場合もまさにそれで、少し大声をあげれば家の中から母さんは飛び出してきたことだろう。
しかし僕は、それをされなかった。
つまり僕をここまで運んだその誰かは、原因不明で倒れた僕が発見されることを意識的に隠したかった、ということになる。
それはなぜか?
決まっている。
つまりその誰かは、わずかにでも僕が能力者であるがゆえにこのような症状に見舞われているという、その一点のみの事実をどうしても公の場に認識させたくなかったからだ。
そうまでして僕を保護するような理由はまだ分からないが、その誰かから見て、僕の今朝の出来事というのは予想外なことだったのだろう。
逆に、僕がそのまま病院などに担ぎ込まれることになれば、少なからずそれはちょっとした話題になる。
遠からずそれは、近所や学校にまで届くことだろう。
そうなれば、その話を耳にした人間の中で、もしも僕と同じように能力者として目覚めている人間がいれば、僕のことを不審に思うことはおかしなことではない。
そして結果的にそれは、僕もまた能力者であるということを知らせることに繋がる。
「……でも、そうすると……」
そう。
そうだとすると、疑問点も浮かんでくる。
この仮説が正しいとすると、僕を運んだその誰かは、間接的とはいえ僕の身を守ってくれたということになるからだ。
そしてぼくを運んだその誰かもまた、能力者であるということになる。
そうなるとやはり、合点がいかない。
「どうして、僕を助けるようなことをしたんだ……?」
能力者達は僕を含め、この戦争に生き残ることを考えているはずだ。
それぞれの思惑は違ったとしても、行き着く先はさほど変わらないだろう。
だとすれば。
今朝の僕の状況は、まさしくその一人の敵を脱落者にする絶好の機会ではなかったのだろうか?
「…………」
……分からない。
一体どうして、僕はこうして無事なままでいるのだろう。
ご丁寧にも、僕の指の中の『Ring』は奪われてすらいない。
そうした理由は、何?
そして、何よりも……。
「――君は、誰?」
僕は虚空に向けて呟いた。
答えたのは、昼休みの終わりを告げるチャイムの音だった。