Episode2:前兆の光
ファミレスを出ると、辺りはすっかり暗がりに包まれていた。
にもかかわらず、目の前のアーケード通りが人ごみでごった返しなのは、やはり今日が連休前の夜だからなのだろう。
僕達以外にも学校の制服を着た学生の姿も少なくないし、まさに夜はこれからといった雰囲気をかもし出している。
「じゃ、今日はここで解散かな」
悟が言う。
「そうだな。じっくり遊んでたっぷり食ったし、満足満足」
健史の言葉に僕も頷く。
「じゃあまた。月曜日に学校でね」
唯がそう言って、僕たちの帰路は二手に分かれる。
僕と唯は家が同じ方向だが、悟と健史、美野里は方角が反対だ。
「じゃあね、唯。大和君も」
「バイバーイ」
「また、学校で」
「おう」
「んじゃなー」
軽く手を振り合いながら、僕達はそれぞれの帰路を歩き始める。
明日から土日の連休だと思うと、なんとなく気が楽だった。
とはいっても、僕の場合は単純に昼間で寝ていられるからなんだけど。
「うー、楽しかったー」
と、隣を歩く唯は満足そうに背伸びをしていた。
「楽しかったけど、僕は少し疲れた……」
調子に乗って歌いすぎたのが原因だろうか。
のどは痛むほどではないが、今も少し枯れているような気がする。
「まぁ、遊び疲れってことならいいんじゃない? それだけ楽しめてたってことだしさ」
「うん、それもそうだね」
僕と唯は適当な会話を繰り返しながら、繁華街を抜けて住宅街へと歩く。
工業団地を抜けた奥、緩やかな坂の上に僕たちの住む家は立地している。
時刻が八時を過ぎたこともあり、道端の街灯にもポツリポツリと淡い光が灯り始めていた。
「あ、そうだ」
ふと思い出したように、唯が呟く。
「大和さ、数学のレポートってもうやった?」
「あれ? 提出期限っていつまでだったっけ?」
「えーと、確か週明けの月曜日だったと思う。三限に数学あったよね?」
「あ、そっか。まずいな、僕も早く終わらせないと」
「ってことは、まだ終わってないってことか……」
「……なんでそこで、少しだけ残念そうな顔するのさ?」
「……いや、終わってるならちょっと見せ……教えてもらおうかなって」
アハハと、唯は苦笑いしながら頭をかいていた。
まぁ、唯らしいといえば唯らしいけど。
「まぁ、半分くらいは終わってるから、前半の部分でよければ少しくらいは協力できるかもしれないけどね」
「マジ?」
「マジ」
「くぅー、さっすが大和。持つべきものは良き幼馴染よね」
ウンウンと、唯は勝手に何度も頷いていた。
いや、まぁ、いいけど……ね。
「じゃあさ、あとで大和の家行ってもいい? 私、口で言われてもよく分かんなくってさ」
「……それはいいけど、別に来なくてもいいんじゃない? どうせ家は隣同士だし、二階の窓越しでも話せると思うけど」
僕と唯は幼馴染ということもあって、互いの家は隣同士だ。
僕の部屋も唯の部屋も二階で、窓を開けるとお互いに向き合うような形になる。
距離は二メートルくらいしか離れてなく、極端な話、何か橋の代わりになるものがあれば簡単に行き来ができるわけだ。
「そうだけど。ほら、前にそれで夜中に大喧嘩になったときがあったでしょ?」
言われて、僕は記憶の中をひっくり返す。
……ああ、確かに。
「そういえば、そんなこともあったね……」
「でしょ? それであのとき、私母さんにこっぴどく怒られちゃってるからさ。それはちょっと、ね……」
なるほどと、僕は頷いた。
思い返してみれば、僕もあの後母さんに思いっきり叱られた記憶がある。
確かあれは三年前、僕と唯が中学に進学して間もない頃だったと思う。
……あれ?
そういえばそのとき、どうして僕達は大喧嘩なんかしてたんだっけ?
……思い出せない。
まぁ、無理に思い出すこともないかな。
「まぁ、そういうわけなの。で、どうかな?」
「ん、僕は別に構わないよ。でも、唯って頭いいのに数学だけは苦手って珍しいよね」
「そんなの買い被りだって。別に私、言われるほど優秀な人間じゃないよ」
そうだろうか。
少なくとも僕から見れば、唯は十分頭がいいと思う。
運動だって人並かそれ以上にはできるはずだし、社交的で友達も多い。
それこそ悩みなんて一つも抱えてないように見えるけど……。
やめておこう。
これ以上勝手に僕が思い込むのは、きっと唯に失礼だ。
誰だって他人に語れない、語りたくない悩みや秘め事くらい抱えているんだから。
そうこう話したり考えたりしながら歩いているうちに、僕達はそれぞれの自宅の前までやってきていた。
互いの家の中に明かりが灯り、静かに僕達を出迎えているようだった。
「じゃ、あとで行くね。行く前に一回、部屋から声かけるから」
「うん。とりあえず、九時くらいに声かけてよ。多分部屋にいると思うからさ」
「オッケー。じゃ、また後でね」
僕達は十メートル程度の距離を離れ、それぞれの家の扉をくぐった。
「ただいまー」
言いながら、僕は家に上がる。
と、玄関に見慣れない靴が置いてあるのが目に留まった。
お客さん?
こんな時間に誰だろうと、僕は訝しげにリビングへと向かう。
「ただいま」
リビングに顔を出し、もう一度言う。
「あら、お帰り大和。今日も悟君やみんなと一緒だったの?」
「うん。メール届いてるよね? 夕飯は食べてくるって書いたはずなんだけど」
「ええ、ちゃんと届いてるわよ」
と、母さんとそんな会話をしているときだった。
「よっ、大和」
僕はふいに、自分の背後から名前を呼ばれた。
どこか懐かしい、聞き覚えのあるその声に振り返る。
するとそこに、久しぶりに会う兄――黒栖敏明の姿があった。
「に、兄さん? うわぁ、久しぶりだね」
玄関にあった見慣れない靴は、どうやら兄さんのものだったようだ。
「ハハ、お前もベタな反応を返すもんだな。まぁ、確かに久しぶりではあるけどな」
敏明兄さんは僕と歳が六つも離れている、たった一人の僕の兄弟だ。
去年に無事大学を卒業し、そのまま就職して他県に移り住むことになったのだ。
「でも、どうしたの急に? まさか、仕事クビになったとかじゃないよね?」
「アホ言え。お前といい母さんといい、同じ第一声を口にするんじゃない」
鞄を置き、ソファに座る僕の隣に兄さんも座る。
「俺が大学卒業して、もう一年が経っただろ? で、今回はそのときの同級生と少し会いにきたわけだよ」
ああ、そういうわけだったのか。
「敏明ったら、何の連絡もなしに今日の夕方にやってくるんだもの。私はてっきり、仕事やめて戻ってきたものとばっかり……」
「だー、もう。もうその話はいいだろ母さん。せっかく久しぶりに戻ってきたんだからさ」
そんな会話を聞きながら、僕はまず着替えるために二階の自室に戻ることにした。
「僕、着替えてくるね」
一応そう告げはしたが、二人の耳に届いたかどうかは不明だ。
机の上に鞄を置き、手早く制服を脱いでクローゼットに片付ける。
そのまま普段着に袖を通そうかとも思ったが、思ったよりも体が汗をかいているようなので、まずはそのまま風呂に入ってしまうことにした。
母さんと兄さんは相変わらず話に花を咲かせているようだし、今がちょうどいいだろう。
ゆったりと湯船に浸かり、体と髪と顔を洗ってもう一度湯船に浸かる。
今頃になって遊び疲れが湧き上がってきたようで、ぼくは何度か湯船の中に沈みそうになる眠気を覚えてしまった。
完全に眠ってしまう前に、僕は風呂から上がる。
脱衣所で体を拭き、着替えを済ませてリビングに戻ると、そこには母さんの姿しかなくなっていた。
「あれ? 兄さんは?」
ドラマを見ていた母さんに問いかける。
「ああ、出かけたわよ。お友達から電話があったみたいだったけど」
「ふぅん……」
僕はタオルで髪の毛を拭きながら、二階への階段を上った。
部屋に戻ると、もう間もなく時刻は九時を示そうとしているところだった。
どうやら思ったよりも長い時間、湯船の中でウトウトを繰り返していたようだ。
さて、もうそろそろ唯が顔を覗かせる頃だけど……。
と、そこで僕は思った。
カーテンを閉め切ったままでは、唯も僕がいないと思うんじゃないだろうか。
僕は急いでカーテンを開ける。
そのまま窓も開けると、涼しい夜風が前髪を揺らして吹き抜けていった。
向かいに見える唯の部屋にも明かりはついているが、まだカーテンは閉まったままだ。
まぁ、もうしばらくすればお呼ばれがかかるだろう。
「さて、と。数学か……」
僕は鞄の中から教科書やらノートやらを引っ張り出す。
本当はもう眠ってしまいたい気分でもあったけど、レポートを後回しにしておくわけにもいかない。
面倒ではあるけれど、二人がかりでやれば少しは負担も減るだろうし。
テーブルの上に教科書とノートを乗せたところで、コンコンと窓を叩く音が聞こえた。
窓の向かい側を覗くと、ちょうど唯が自室の窓を開けたところだった。
「あ、いたいた」
窓から身を乗り出し、唯は僕の姿を確認する。
「じゃ、今から行くね」
僕は無言で頷いた。
しかしこのとき、僕は言葉の意味合いを履き違えていたのだ。
今から行くねという唯の言葉は。
「……え?」
ガタンと鳴った音の方向に、僕は振り返る。
そこになぜか、窓から本当に全身を乗り出した体勢の唯がいた。
「ちょ、ちょっと唯、ここ二階……」
二階ではあるが、横方向の距離はわずか二メートル。
ちょっと勢いをつけて跳べば、容易くこちら側の窓の取っ手に足が届く距離。
そう。
今から行くねというその言葉は、文字通り。
今、この場所からその場所に行くねという意味だったのだ。
「よっ、と……」
唯の足が自分の部屋の窓枠を蹴り、わずかに跳ねて僕の部屋の取っ手に乗る。
さすがにそれを傍観するほど僕も落ち着いていられなかったので、思わず唯の伸ばされた手を握った。
高さにすれば大したものではないけど、それでも打ち所が悪ければケガじゃすまない。
幸いにして、唯はかすり傷一つ負うことなく最短距離で僕の部屋へとやってきた。
本当に、最短距離で。
「到着ー」
笑顔で言う唯。
数学の課題をやる前から、僕は小さな頭痛に悩まされそうで仕方がなかった。
「……それで、そうするとこの公式が当てはまるだろ? そこで、こっちを代入して」
「あー、そっかそっか。なるほどー」
思いがけないアクシデントはあったものの、とりあえず僕と唯は数学の課題を始めている。
一応、この場合は僕が教える立場ではあるのだけど、それもすぐにいらなくなりそうだ。
唯は飲み込みが早く、僕の舌足らずな説明でもすぐに基礎を理解してしまう。
これで数学が苦手というから驚きだ。
「唯さ、本当に数学苦手なの? とてもそうは見えないんだけど……」
コーヒーを口に含みながら、僕は訊ねた。
ちなみにこのコーヒー、先ほど母さんがわざわざもってきてくれたものだ。
それはつまり、こうして唯が僕の部屋にいるということも当たり前のようにバレてしまっているわけで。
にもかかわらず、母さんと唯はさも当たり前のように挨拶を交わし、何事もなかったかのようにしているのだから恐ろしい。
普通、驚くと思うんだ。
いくら昔に、似たようなことが何度となくあったとはいっても。
まぁ、それを言えば唯も同じなのだろう。
自分で言うのもなんだけど、僕達だってもう高校生だ、子供じゃない。
かといって大人というわけでもないけど、大人に近づきつつある時期だと思う。
だから、というわけじゃないけど……。
唯はこう、異性を意識したりとかはないのだろうか?
相手が幼馴染の僕であるということもあるのだろうけど……。
僕はというと、完全に意識していないといえばそれはきっと嘘になると思う。
はっきりとは言えないけど、やはり無意識のうちにどこかで意識しているんだと思う。
それは幼馴染の唯とはいえ、きっと例外ではなく。
だから、なのだろうか。
普段とは違う、本当に小さい緊張のようなものが胸にあるような気がする。
……って、一体僕は何を考えているんだ。
今はレポートの処理に集中すればいいはずだろうに。
いやしかし、ああでも、でも待てよ、あーでもない、こーでもない……。
……ダメだ、これじゃ僕は百面相になってしまう。
「大和?」
と、僕が我に帰ったのは唯がそう呼びかけたからだった。
「……ん? って、わぁっ! な、何?」
思わず僕は腰を引いて後ずさった。
唯が僕の顔を覗き込むようにして顔を寄せてきたのだ、無理もない。
心臓が必要以上にバクバクしている。
ああ、もう、何だっていうんだ一体。
どうして僕が自分の部屋の中で右往左往して緊張しなくちゃいけないんだ……。
「大和、大丈夫? 何か顔赤いけど」
「あ、赤くない! 気のせいだよ気のせい! うん、全然平気!」
明らかに墓穴だった。
しかし言ってしまったからにはもう取り返しはつかない。
「……変なの」
としかし、唯は黙々とノートに数式を書き連ねていく。
妙なところで鈍い唯の性格が、このときほど幸いしたことはないだろう。
僕は気付かれないように何度となく深呼吸を繰り返し、どうにか自分自身を落ち着けさせて、再びレポートに取り掛かろうとして……。
コトン、と。
ふいに聞こえたその音に、振り返った。
見るとそこに、クローゼットにかけた制服のズボンから抜け落ちた、あの銀の指輪が転がっていた。
思い出したように僕はそれを拾う。
そうだ、帰り際に捨ててしまおうと思っていたのに、唯と話しながら歩いてたからすっかり忘れていたんだ。
ひやりと冷たい金属の感触。
外見は何の変哲もないただの輪なのに、その内周にはビッシリと記号のようなものが書き連ねられている。
掘り込まれたようなその記号の羅列は、その溝の中にまるで血液を流し込んだかのような目移りするほどの美しい赤色に染まっている。
もう一度僕は、その記号を流し読みするように手の中で転がして。
――次の瞬間、その赤い記号が蠢いた。
ぐにゃりと、音もなく揺らぐ。
同時に、ファミレスのトイレの中で感じたのと同じ変動が僕の体にも起こった。
ドクン。
高鳴る心臓の鼓動。
血液が沸騰し、体中の至るところが熱を持つかのよう。
鉄を溶かしたモノが、血と混ざって体内を駆け巡る。
一瞬の後に、軽いめまい。
これはすぐに収まるが、体の熱は未だにまとわりついたまま。
……何だ?
これは、何だ?
一体僕の体に、何が起きている?
起きようとしているんだ?
「……ちょっと、どうしたの大和?」
わずかに呻いた僕の声は、唯の耳にも届いていた。
「……う、あ……」
僕の声は自分でも分かるくらいにか細いものだった。
体の自由が利かない。
見えない重圧に、僕は押し潰されそうになる。
「大和? 大和、しっかりして!」
背中に、肩に、唯の手が触れているのが分かる。
しかしそれさえも、駆け巡る熱の熱さに遠く感じる。
――…………よ。……を…………。
その声に。
僕は聞き覚えがあった。
今度のは間違いなく、空耳や幻聴なんかじゃない。
――我に…………よ。……を求め……。
誰だ、お前は?
なぜ、僕に語りかける?
どうして、僕を呼ぶんだ?
――我に身を委ねよ。力を求めよ。
力……?
そんなもの、僕はいらない……っ!
望んだ覚えは、ない……。
――資格有る者よ。我は汝を待っていた。赤の予言を詠みし者よ。ここに契約は果たされる。汝に力を授けよう。我が片割れの力を。
何を、言って……。
「大和、大和? ねぇ、しっかりして……!」
体を揺さぶられる。
あ、れ……?
唯、何で……?
何で、お前が泣いてるんだ……。
虚ろな視界の先、透明な雫が一つ落ちて。
僕の頭の中に、一つのテキストが流れた。
それは日本語でも英語でも、ましてやこの世界のどこかで言語として使われているものではなく。
しかし、どれだけ歴史を遡っても、決して歴史の表舞台に現れることはなかったもの。
文字でも記号でもないそれらは、媒体として紙の上に書かれることさえ知らず。
ただ、イメージのように浮かんでは消えるだけの存在に過ぎず。
それらの羅列は全て、血のように強く深い赤色で記されていた。
ゆえに、それらはこう呼ばれる。
英知にして無知、予言にして記憶、覚醒にして封印。
――クリムゾン・テキスト。
唯一読めるその一文。
声に出さず、僕が胸の内でその言葉を繰り返すと、同時に僕の体は何事もなかったかのように平静を取り戻していた。
「…………」
体内を駆け巡るような熱さも、心臓の鼓動も、頭の中に響いた声も。
何もかもが、過ぎ去った台風のように静かだった。
「私、小母さん呼んでくる!」
「ま、待って唯!」
慌てて立ち上がった唯の腕を、僕は掴んだ。
「僕なら、大丈夫。もう収まったから」
「だ、だけど……」
「……本当に大丈夫。別に病気でも何でもないから。ちょっと頭が痛くなっただけなんだ」
「……本当に、大丈夫なんだね?」
「うん。もう平気。収まったよ」
「……うん。分かった……」
僕がそう言うと、ようやく唯も落ち着きを取り戻してくれた。
唯は座っていた場所にもう一度座り、カップの中のレモンティーをゆっくりと口に含んだ。
それでもう少し落ち着いたのか、唯はハァと小さく溜め息をついた。
「……寒くなってきたから、窓、閉めるよ」
「あ、うん……」
立ち上がり、僕は窓枠に近づく。
窓を閉め、鍵をかけ、カーテンを引こうとしたそのとき。
窓ガラスの向こう側に、閃光が瞬いた。
そしてそれを、僕は直感でもなく、本能でもなく、潜在意識で理解した。
――あの場所に、鍵がある。
想像もしなかった。
まさか今日という一日が、夜を越えてこんなにも長く感じることになるなんて。
僕の非日常は、もう間もなく始まろうとしている……。