Episode16:嘘
夕食を終え、僕は一足先に入浴している兄さんが風呂から上がる時間を待って、自室でぼんやりと横になっていた。
さすがにまだあちこちの筋肉は痛くて、あまり自分から動こうという気分にはなれない。
こうしてベッドの上で大の字で寝転がっているのが、今の僕の体には一番いいことなのかもしれない。
「ふぅ……」
途中まで読んでそのままだった週刊誌を読み終え、僕はそれを枕元に置いた。
急激とまではいかないが、徐々に眠気もこみ上げてくる。
今にして思えば、今日の午後は実に長く感じた。
昼過ぎに街外れの工場跡で氷室と飛鳥に出会い、そしてそのまま話の流れで行動を共にした。
そこで僕は今の自分か置かれている状況を大雑把にだけど理解することができ、これからの目標も見定めることができた。
しかしまさか、こんな日に限って事態が一転して進行してしまうなんて、僕は思いもしなかった。
喧嘩などというレベルではない、そんなものをはるかに超越した能力者同士の戦い。
それはまさしく、規模こそ小さいものの一つの戦争だった。
銃器も火器も何もない、ただ己のうちに宿った契約の力を行使した戦い。
それは普通の人の目から見れば、まるっきりファンタジーの世界の出来事にしか見えないだろう。
事実、今だって僕はそうだ。
自分の手の中で生み出せたあの風も、飛鳥の操る雷も、あの少年の操る炎さえも幻ではないかと疑ってしまいそうになる。
本当は今こうしていることまでもが全て悪い夢で、このまま目を閉じた次の瞬間、僕はいつもと変わらない日常の中に当たり前のように立ち尽くしているのではないだろうか、と。
しかしそれこそが、ただの妄想に過ぎないことを僕は知っている。
僕の左肩、左太もも、右頬の三ヶ所には、あの少年の炎の短剣によってつけられた焼き傷がくっきりと残っているからだ。
左肩と左太ももは、服の上からでは分からないので気にはならないし気にもされない。
が、右頬は別だ。
帰宅してすぐに、僕は母さんと兄さんにその傷のことを問い詰められた。
その場は何とか適当に言い繕ってごまかしはしたけど、こういうのは何も今回ばかりではないだろう。
今回はたまたまかすり傷程度で済んだからいいものの、戦況がもっと悪化していれば入院するくらいの大怪我をしたって何の不思議もありはしないのだから。
僕は自分で傷のある右頬を指でなぞってみる。
痛みはない。
それに、言われるほど目立つような傷であることを感じさせなかった。
それでも薄く切れたように、横に数センチほど線が引かれているのは分かる。
自分では気にならなくても、さすがに顔の傷というものはやはり嫌でも目立ってしまうのだろう。
氷室の言うとおり、僕の風に癒しの力があるとするのならば、この傷も明日の朝には奇麗に消え去ってくれればいいのだが……。
って、それじゃ逆に母さんや兄さんに不思議がられてしまうじゃないか。
「……どうしろっていうのさ」
と、僕は一人呟いてみる。
すると、コンコンとノックの音が聞こえた。
僕は最初、その音は風呂から上がった兄さんが部屋の扉をノックする音だと思った。
だが、それにしては音の発生源がまるで正反対の方向だった。
もしかしたらと思い、僕は閉め切ったままのカーテンをそっと開けてみる。
「あ……」
すると案の定、わずか二メートルちょっとの距離を隔てた窓の向こう、同じく窓越しに小さく口を開けている唯の姿があった。
ガラガラと、僕はできるだけ音を立てないように窓を開けた。
それを確認してか、唯も同じように窓を開けた。
「や。こんばんは」
「うん、こんばんは……」
「…………」
「…………」
そして僕達の会話は中断した。
断っておくが、これは僕の責任じゃない。
そもそも最初に窓ガラスをノックしたのは唯の方なのだから。
「……あー、いい夜ですね」
言われて、僕は空を見上げる。
雲は厚く、月はおろか星さえもまばらにしかその姿を覗かせない……早い話がただの曇天だった。
「……そう、でもないみたいだけど」
「ア、アハハ……」
僕が素直に返すと、なぜか唯は乾いた笑いを繰り返していた。
「……唯、何かあったの?」
「へ? ど、どうして?」
「何か、やけに挙動不審だし。変なものでも食べた? 鬱病になる毒キノコとか」
「そ、そんなもん食べてないわよ!」
と、さすがに冗談が過ぎたのか、唯は一気に怒鳴りつけた。
「……唯、もう夜なんだから、少しは声を抑えて……」
「あう……って、今のは大和が悪いんでしょ!」
今度は器用にも小声で怒鳴りつけてくる。
結局は怒鳴るのか……。
「ごめん、悪かった。それで、何か用事?」
僕が素直にそう返すと、唯はキョトンとした様子で目を点にしていた。
「え、いや、その……何て言うか、特にどうってわけじゃなかったんだけど……元気かなー、と……思いまして」
「……いや、まぁ、一応元気といえば元気だけど……」
「そ、そう……それはよかったー……なんて」
「…………」
「…………」
再び沈黙。
再度言うが、決して僕は悪くないぞ。
「うん、と……」
そうして今になって言葉を探し始めるんだろう。
唯は今までにも時々こういうことがあったけど、僕には未だにその原因が解明できていない。
「そ、そうだ! 昨日はありがとね。ほら、数学のレポート」
「え? ああ、何だ、そのことか……」
「そうそう、それよそれ。ホントに助かったよ。おかげで明日の提出に間に合いそうだし」
「うん。役に立てたなら、それでよかったよ。それと、僕も途中で抜け出したりしてごめん」
「あ、いいっていいって。全然気にしてないし。っていうか、その時間で大和のノートそのまんま丸写しにできたわけだから」
「……それ、初耳」
「あ……」
見事に唯は墓穴を掘っていた。
昔から嘘がつけないタイプというか正直すぎるというか、そんな性格だったけど、近年になって僕の抱くイメージは天然に変わってきているのは確かだ。
「まぁ、別にいいけどね。その代わり、僕が間違ってたら唯も痛み分けだからね」
「平気平気。こういうのは正しいか間違いかじゃなくて、まずやり遂げることに意義があるのよ」
「……それ、堂々と人の答え丸写しにした人間が言う言葉なのかな……」
「アハハハ……細かいことは気にしないの!」
また怒鳴る。
コロコロと表情が変わって、見ている僕としては退屈しないんだけど。
ただ、その仕草が少しだけどこかと違うような気がした。
長い付き合いだから分かる。
それは普通に見ていれば見落として当たり前の小さな間違い探しなのだろうけど、僕には何となく分かってしまった。
「唯、何かあった?」
「え……ど、どうして?」
やはり、少しだけど動揺している。
「……いや、何もないならそれでいいんだけど。何か、無理してるように見えたからさ。僕の勘違いだったらいいんだ。気にしないで」
「…………」
しかし、その言葉に唯はすぐには答えなかった。
それは僕の言葉が的を射ているからなのか、それとも……。
「……それは、こっちのセリフだよ、大和」
「え?」
その言葉に、今度は僕がわずかに動揺した。
「……あのね、これ多分、私の考えすぎだと思うんだけど……」
そのあとに続く一言一句が、なぜか恐ろしい。
「大和、何かあったんじゃないの? 昨日から少し、様子が変だよ?」
「…………」
そして僕もまた、油井のその言葉にすぐに答えることができなかった。
心の中では、すでに返す言葉はしっかりと用意してあったのに、それが口から出てこない。
何もないよ、と。
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなにも絞り出さなくては出てこないのだろうか。
それはきっと、僕の中に後ろめたさがあるからだろう。
他言できない秘密を抱えているということは、僕の周囲を危険に犯さないためである。
けどそれは同時に、親しい間柄の人にも嘘を突き通さなくてはいけないということだ。
それは、こんなにも苦しいことだったのか……。
「……別に、何もないけど?」
どれだけの時間を沈黙で過ごしたのだろうか。
気が付けば僕は、胸の中の同様を全て抑制させてそう答えていた。
「……本当に?」
「本当に」
「……何も、隠してない?」
「隠すようなことを僕はしてないし、持ってもいないよ。それは、唯だってよく分かってるんじゃないの?」
「…………」
僕のその言葉に、今度は唯が押し黙る。
もちろん、それはウソだ。
それでもこう強く言い切れば、唯は必ず引く。
僕はそれを知っているからこそ、その言葉を選んだのだ。
「……そう、だよね。ゴメン、やっぱり私の考えすぎだったみたい。今のは忘れて」
「うん。それはいいけど……唯、少し疲れてるんじゃないの? 顔色も少し……って、それは夜のせいか」
「ううん、全然平気。聞きたいこと聞いてすっきりしたから、これでグッスリ眠れるわ」
「そう。ならよかった」
そうして僕達は互いに小さく笑い合った。
だけど、どうしてだろうか。
――もうずいぶんと忘れたままだった、その痛みのない傷が、今頃になって開いてしまったような……。
「よっし。それじゃあ私はもう寝る!」
「もう? まだ十時半だよ? 今時、小学生だって起きてる時間なのに……」
「いいのいいの。今日はうんとグッスリ寝るって決めたの。うん、今決めた」
「そ、そう……」
「んじゃ、おやすみ大和。また明日ね」
「うん、また明日」
そう言うと、結いは小さく手を振って窓を閉め、そのままカーテンを閉め切った。
僕はその閉じられたカーテンの向こうにやるせない思いをわずかに抱え、ふいに痛んだ胸の辺りを手で鷲掴みにしていた。
「……っ、痛っ……」
何なんだろう、この痛みは。
遠い昔にも、同じ痛みを味わったことがあるような気がする。
……そうだ、あれは、確か……。
――ザァザァと、まるでラジオのノイズのような冷たい雨が降っていた日のことだ。
「…………」
しばらくそのままでいると、痛みは自然と引いていった。
必要以上に汗を握る自分の手が、どこか不安定だった。
僕は窓を閉め、カーテンを閉めた。
「ふぅ……」
重い溜め息を一つ吐き出す。
それと一緒に、色々なものまで吐き出してしまったように感じた。
コンコン、と。
今度こそ、僕の部屋の扉をノックする音が聞こえた。
「大和ー、風呂空いたぞー」
廊下から兄さんの声がする。
「分かった、今行くよ」
扉越しに僕は答える。
今になって再び、今日一日の疲れがドッと押し寄せてきていることに気付いた。
唯に倣うわけじゃないけど、僕も今日はさっさと休むことにしよう。
着替えを手に、部屋を出るその前にもう一度窓の方を振り返った。
閉め切られたカーテンの向こうにある、隣の窓。
僕は唯に、ウソをついた。
ズキンと、また胸のどこかが痛んだ。
……いいんだ、これで。
僕は決めたんだ。
誰も巻き込まず、誰も殺さず、この戦争の生き抜いて終わらせて見せると。
そのためだったら、僕は……。
――今ついたウソを、いつか真実に変えてみせる。
「……ごめん、唯」
今はもう見えない、カーテンの向こう側に向けて僕は呟く。
「約束を先に破るのは、いつも僕の方だね……」
それは、もうずいぶんと遠い日の約束……だったと思う。
その約束を交わしたきっかけなんて、僕はもう何も覚えていない。
ただ、その約束だけはしっかりと覚えている。
幼い頃の日々に、まだお互いに嘘の罪深ささえも何一つ知らないままで交わした一つの約束。
互いの小指を絡ませたのは、恐らくその日が最初で最後だっただろう。
どんな言葉を交わしてその約束をしたのかは、はっきりと覚えている。
でも、そうしてだろうか。
そのときの唯の顔だけが、未だにぼやけてしまってよく見えないままなんだ。
それはきっと、そのときの僕が泣いていたからなのだろう。
涙ながらに交わした約束は一つ。
――隠し事をせず、辛いときはお互いが支え合おうという、そんなどこにでもあるようなちっぽけな約束……。
それを僕は、破ってしまっている。
「……ごめん」
もう一度僕は、届かないと知って同じ言葉を繰り返した。
この見えない戦争の中で、僕は最終的に勝者の立場にいるのだろうか。
それとも、敗者の立場にいるのだろうか。
今はまだ分からない。
『――戦争は常に勝者と敗者でしか分かれない。そして敗者を待つのは、例外なく死だ』
それは、あの炎使いの少年の言葉だ。
その言葉はきっと、いつの世にも等しく正しい。
だからその言葉に従うのならば、僕は勝者にならなくてはならない。
けれど、そこに正義なんてものはきっと、何一つ存在しはしないだろう。
僕だけじゃなく、誰もが身勝手な自分の正義を振りかざしているのだ。
ゆえにこの戦争に、真の勝者なんて絶対に存在しない。
勝者が全て正しいというのが、ファンタジー世界の基本設定だ。
だけど僕は、それをこのリアルなファンタジーの中で覆す。
――僕は勇者にも、魔王にもなりはしない。
それでもきっと、この戦争を終わらせて見せる。
そのための嘘なら、どれだけ心苦しくても突き通してみせる。
部屋の電気を消し、扉を閉める。
眠気はとっくになくなってしまっていた。