Episode15:今日の終わりに
僕が目を覚ましたとき、すでに時刻は夜の七時を回っていた。
「気が付きましたか、大和。具合はどうです?」
と、目覚めて最初に聞こえてきた声は氷室のものだった。
どうやら僕はソファの上に寝かされているらしく、真上にある蛍光灯の明かりが起き抜けの目には少し毒だった。
「……氷室? あれ、ここは……僕は、どうして……」
ゆっくりと体を起こす。
が、そのたびに体中の筋肉がキリキリと悲鳴を上げるようで、僕は思わずその痛みに声を漏らしてしまう。
「痛っ……」
「まだ無理をしないほうがいいでしょう。今のあなたは、相当量の体力を消耗しています。まぁ、無理もありませんか……」
そう付け加えるように言うと、氷室はテーブルの上のカップを僕に差し出した。
「ホットコーヒーです。よかったら飲んでください」
「あ、ありがと……」
真っ白な湯気が立ち上るカップを僕は取り上げ、まだ暖かいコーヒーを一口だけ口に含んだ。
少し苦かったけど、逆にそれが覚め切ってない頭を鮮明にしてくれる。
ハァと一つ溜め息を吐いて、僕はカップをテーブルの上に置いた。
そして、今頃になって自分のいる場所を見回す。
どうやらここは氷室の事務所のようだ。
「あれ……僕、飛鳥と一緒に森林公園に行ってたはずなんだけど……」
自分で言いながら、僕は記憶の糸を手繰り寄せた。
「……そうだ。氷室、僕と飛鳥はその公園で……」
「ええ、聞いています。炎を操る能力者と出会い、戦っていたのでしょう?」
「う、うん。それで……あれ? そのあと、どうなったんだっけ……?」
僕の記憶の糸は途端にプッツリと切れてしまう。
あの炎使いの少年と出会い、戦うことになったことまでは覚えている。
僕も確かに、あの少年と一戦を交えたはずだ。
それは間違いない。
「……そう、だ。あのとき僕は負けそうになって、それで……」
「あなたはそこでまた、自分の力を制御しきれずに暴走させてしまったんですよ。ちょうど、初めて私達と出会った夜のようにね」
「……僕が、暴走……?」
言われて思い出そうとするが、やはり記憶はひどく不安定だ。
でも確かに、あの負けると思ったその瞬間に何か別の意識が入り込んできたようなことは覚えている。
……そうだ、確かあのとき、僕は……。
「……シルフィア……」
その名を呟く。
僕は確かに、その名を持つ風の声を聞いた。
そして少年の炎に対抗するべく、僕も風の刃を生み出した。
それを放った、その瞬間までは覚えている。
だけど、そのあとの記憶が全くない。
一体僕はその後、どうなってしまったのだろうか?
「……氷室。それで、あの炎使いの彼は……?」
「私が森林公園に到着したときには、すでに姿はありませんでした。飛鳥の話だと、暴走したあなたを止めるために一時休戦したんだそうですよ。その後彼は、何をするわけでもなく去っていったそうです」
「…………」
どうして、だろうか?
僕の中のその記憶がないということは、僕が意識を失っていたということだ。
そして僕の覚えている限り、あの場にいた飛鳥もすでに相当量の体力を消耗し、少なくとも戦える状態ではなかったはずだ。
つまり、彼が僕達に止めを刺す機会なんてそれこそいくらでもあったということになる。
殺す殺さないに関わらず、少なくとも僕と飛鳥の『Ring』を奪い取るくらいのことは簡単にできたはずだ。
なのに、一体どうして……?
「恐らくは、飛鳥とあなた相手の連戦、加えてあなたの暴走を止めることによって、彼も相当量の体力を消耗していたのでしょう。飛鳥もずいぶんと消耗していたとはいえ、戦えないというわけではなかったようですしね。そんな状態で戦えば、彼も無事ではすまない。あえてその場は、リスクを背負うことをしなかったということかもしれません」
と、氷室は僕の考えをそのまま見透かしたように言った。
……そうなのだろうか。
僕はまだ能力を自由に使いこなせるわけではないし、何ともはっきりと言えることは少ない。
それでも、実際に彼と戦ってみた僕は分かる。
彼はまだ、全然手の内を……本気で戦ってなんかいなかった。
そうでなければ、僕相手にあんなに苦戦を強いられることだってなかっただろう。
あれはまるで、僕に合わせて戦っているような、そんな訓練じみた感覚を覚えた。
だとすれば、余力は十分に残っているはずだ。
なのに、なぜ?
「…………」
僕は無言で考え込み、そしてもう一度コーヒーを口に含んだ。
「まぁ、深く考えることは得策ではありませんよ、大和。理由はどうあれ、まずは今自分の体が無事であることをよく思うことです」
「……そう、だね。うん、そうする」
とはいえ、あんまり体のほうも無事というわけではない。
本当に、まるでフルマラソンでもした後のように体中の筋肉が悲鳴を上げている。
このままじゃ、明日は確実に筋肉痛だろうな……。
「何はともあれ、ひとまずはあなた達二人が無事でよかった。元を正せば、あの夜私達がしっかりと枯れに止めを刺したかどうかの確認を怠ったのが原因でした。本当にすみません」
「い、いいよ。そんなの、気にしないでよ。それに、どの道遠からず通る道だったんだからさ。それがたまたま、今日だったっていうそれだけの話だよ」
「……ええ、確かに。確かにそうなのですが、これは私としてもあまりに突発的なことでした。まさか向こうから再び接触を試みてくるとは……。彼の属性は炎。ゆえに、水使いの私がいる限りはしばらく大人しくしていてもいいはずなのですがね……」
「……彼、そういう性格じゃないみたいだよ。好戦的ではあったけど、好きで殺しをしたいわけじゃないっていうところは、僕達と同じみたい。純粋に、戦いそのものを楽しんでるようにも見えたけどね」
「やれやれ。性質が悪い分だけ始末に終えませんね。やはりあの夜に、しっかりと『Ring』の破壊の確認、あるいは残っていたのなら奪い去ってくるべきでした」
ハァと溜め息を吐いて、氷室はどこか疲れたように言った。
「それよりも大和、時間のほうは大丈夫ですか? もう七時を回っていますが、あなたは明日から普通に学校があるでしょう?」
「あ、そっか。何か、今日が日曜日っていう実感が全然なくなってたよ」
「まぁ、これだけ騒々しい一日を休日と思えというのが無理でしょうね。平日だったら騒がしくてもいいというわけでもありませんが」
事務所の窓ガラス越しに映る街並みは、すでに薄暗さに包まれ始めていた。
夕方の赤い空は何処へと消え、今はもう深い青色の空が一帯を包み込んでいる。
雲が厚く、輝きを覗かせる星はまばらだ。
雨が降らなければいいのだけど……。
などと、そんなことを考えながら僕はふと思った。
「あれ、そういえば飛鳥は?」
僕自身のこともそうだが、飛鳥だってかなりの消耗をしていたはずだ。
それが僕を守るための行動でもあったとなると、やはり体の具合が気になる。
「飛鳥は少し出かけています。大和が目を覚ます一時間ほど前には、ずいぶんと疲労の色も回復していましたからね」
「出かけても大丈夫なのかな……」
「心配ですか?」
「……当たり前だよ。そもそも飛鳥が必要以上の体力を消耗したのは、短期決戦を狙って僕を庇ったからだし……」
「心配いりません。ああ見えて頑丈ですからね、飛鳥は。鼻の穴にコンセントでも差し込めば見る見るうちに回復しますよ」
「…………」
そんなわけないだろうと、僕は内心で突っ込みを入れておく。
「さて、冗談はこの辺にしておきましょう。大和もそろそろ帰らないと、家の人が心配するでしょうしね。家の近くまで送りますよ」
「あ、うん。ありがと……」
僕はぐいっと残りのコーヒーを一気に飲み干し、事務所のドアをくぐる氷室の背中に続いた。
階段を下り、僕は助手席へと乗り込む。
シートベルトをするように言われ、体の前にベルトを通した。
エンジンがかかり、車体がゆっくりと動き出す。
夕方から続いていた街の喧騒は、今の時間は打って変わってひっそりとしていた。
人通りがないわけではないが、まばらであることは確かだ。
ヘッドライトを光らせ、僕達を乗せた車は僕の自宅がある住宅街の方向へと道を進む。
「大和、疲労は大丈夫ですか? 筋肉痛などが起こっているのでは?」
「うん。もうあっちこちが痛い。明日はまともに動けないかも……」
「やはり、反動のせいでしょうね。自分の意思で無茶をしたわけではないので、負担も必要以上にかかってしまうのでしょう。火事場の馬鹿力というわけにもいかないようですからね」
「明日、学校でも一日中寝てるかもなぁ……」
「ハハハ。まぁ、その心配はないでしょう。前にも言いましたが、あなたの力である風には癒しの力も含まれています。まだ能力に慣れてないとはいえ、もともと人間には自己治癒力というものがある程度備わっていますからね。大和の場合、それは人一倍優れていると思えばいいんです。ですから、明日になればある程度、あるいは痛みは完全になくなっていると思いますよ」
「そう、かなぁ……。確かに理屈では分かるんだけど、やっぱりまだ実感が沸かないんだよね」
「まぁ、目に見える大怪我が一瞬で直るというわけではありませんからね。自分の意思で治癒の力を使いこなそうと思えば、それ相当に時間もかかるでしょう」
「治癒、かぁ……」
僕は指の中の『Ring』を見る。
確かにあのとき、この中からシルフィアの声がしていた。
その結果僕は一つの武器を手に入れ、代償として意識を失って暴走してしまったわけだけど……。
それでも確かに、僕は風を体で感じることができた。
それは本当に一瞬だけのことかもしれなかったけれど、僕は確かに見たんだ。
あの、言葉ではうまく言い表すことのできない不思議なイメージが瞬く中。
いつかの赤い記号……クリムゾン・テキストがその脳裏に浮かんだときのように。
――形のない風の姿を、この目で捉えたような気がしたんだ。
「とりあえず、今夜はゆっくりと休むことです。面倒なことに巻き込んでしまいましたね、すみません」
「だから、もういいって。それに、面倒に巻き込まれてるのは氷室も飛鳥も一緒でしょ?」
「いやはや、全くです」
そう返して、氷室は小さく笑った。
それにつられて、僕も少しだけ笑ってしまっていた。
「この辺りでいいでしょう。さすがに自宅前まで車で送るのはまずいでしょうからね」
「うん。ありがと」
停車を確認し、僕はシートベルトを外してドアを押し開けた。
「あ、そうでした大和」
僕がドアを押し開けて外に出ると、運転席から氷室が呼び止めた。
「え?」
「いらないことかとは思いますが、くれぐれも表向きは普通の生活を続けてください。他人に話したところで信じはしないと思いますが、それでも他言は無用です。うっかり口を滑らせたその結果、無関係な人達まで巻き込んでしまう可能性もありますからね」
「うん、分かったよ」
頷き、僕はドアを押し戻そうとして、一度の手を止めた。
「っと、ちょっと待って氷室」
「何でしょう?」
「その、だったらやっぱり、この『Ring』は普段は外しておいた方がいいのかな? さすがに目立つよね?」
「いえ、それだと逆に、放課後などに襲われたときに無抵抗になってしまいます。それに、安心してください。能力者ではない人間の目には『Ring』は認識されません。これは私も飛鳥も実証済みですから、安心していいでしょう」
「そうなんだ……。じゃあ、普段から身に着けてても……」
「ええ、問題ありません。むしろ、身に着けるのを忘れた方が危険でしょう。私達がまだ知らない能力者もこの街にはいるはずですから、極端な話、いつどこで奇襲を受けてもおかしくはないんです」
「……それって、かなりヤバイんじゃ……」
「ええ。ですから、私はいち早くあなたにも最低限身を守る術を教えておくつもりでした。もっとも、今日一日は色々とあってそうもいきませんでしたけどね」
「……ちょっと、不安だな」
「恐らくとしか言えませんが、まだ奇襲を受けることはないと見ていいでしょう。そんなことがあるなら、この街のどこかで毎日ドンパチが始まっているはずですからね。それがないということは、今はまだ安全です」
それなら大丈夫かなと、僕はようやく安堵の息をつく。
「しかし、そうともいかないから奇襲と呼ぶのですけれどね」
「…………」
一気に不安になった。
氷室は一体、僕を安心させたいのだろうか、それとも緊張させたいのだろうか。
「まぁ、ひとまずは安心していいですよ。こちらとしても、対抗策がゼロというわけじゃありませんからね」
「え? それって、どんな?」
「それは企業秘密です。さ、早く帰らないと、家の人が心配していますよ?」
促され、僕は緩やかな坂の上にある自宅を見た。
明かりがついているから、もう夕食の支度は終わった頃だろうか。
兄さんも今日は戻ってきているかもしれない。
「……じゃ、行くね。今日は色々ありがと」
「いえ、こちらこそ。また何かあったら、こちらへ連絡してください」
氷室は財布の中から名刺を取り出し、僕に手渡した。
「その番号が私の携帯です。できれば控えておいてください」
「あ、じゃあ僕の番号も教えておくよ」
僕はポケットの中から携帯を取り出し、番号を読み上げる。
「……はい、分かりました。では、お互いに何かあったら連絡を」
「うん、分かった」
「飛鳥の番号は、後日彼女に直接聞いておいてください。では、気をつけて」
僕は助手席のドアを閉める。
再びエンジン音がかかり、氷室を乗せた車は元来た道をゆっくりと引き返していった。
薄暗い夜の道の向こう、白い車体がどんどんと遠ざかっていく。
それをしばらく見届けて、僕は緩やかな坂道を筋肉痛のする両足で歩き始めた。
「……あー、クソッタレ!」
署内の喫煙所でタバコをふかしていた竹上は、忌々しげな言葉と共に手の中のファイルをテーブルに放り投げた。
何度見ても原因は不明。
イライラは募る一方で、いくらタバコを吸ったところでストレスの発散には全然物足りない。
手近にある自販機を思い切り蹴り飛ばしたい気持ちで一杯だが、そんなことをしたら別の意味で始末書ものなのでやめておく。
「ったく、一体何がどうなってやがる……」
何度資料や報告書を読み返しても、手がかり一つ残されてはいなかった。
本日未明、アパート一つを全焼した火事。
幸いにして犠牲者は一人もいないという、聞けば奇跡的にも思えるその結果。
だがそれは、逆に不気味で仕方がないことだ。
アパートは全八室。
管理人も含め、住人は全部で八人。
その全員が、火災当時にどこかしらへと外出していたために被害者はゼロで済んだ。
そうだ、ゼロで済んだ。
だったらそれを、不幸中の幸いと素直に喜べばいいではないだろうか。
「……ふざけんな。んな幸いがあってたまるか」
竹上は呟く。
無人の廊下には、そんな言葉がわずかに反響していた。
もっとも簡単な、しかもメチャクチャな確率計算をしてみよう。
火災当時に住人がいるか、いないか。
これは単純に二分の一とする。
それが八人分ということは、すなわち二分の一の八乗。
イコール、二百五十六分の一である。
確かにこれは、まだまだ現実的な数字の上での確率だ。
一年は三百六十五日わるわけで、そう考えれば年に一度はそんな日がある計算にはなる。
だが、だからといって。
それらを単なる偶然の重なり合いだと言い切ってしまえるのだろうか?
「んなわきゃねーだろーが。こりゃ必然ってんだよ、ひ、つ、ぜ、ん!」
誰に説教するわけでもないのに、竹上は虚空に向けて怒鳴った。
五本目のタバコをもみ消して、タバコが切れたことに気付く。
「ええい、クソッ!」
空の袋をグシャグシャと潰し、ゴミ箱目掛けて放り投げた。
入らなかった。
「…………」
余計にイライラが募りそうになるそんなときに、廊下の奥から竹上の名を呼ぶ声が聞こえてきた。
「竹上さん!」
「あん?」
不機嫌度マックスで、竹上が睨む目で振り返る。
すると一瞬、その部下の若い刑事は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
何か悪いことしましたかと、聞きたそうな表情だった。
「何だ、どうかしたか?」
「あ、は、はい。その、実はですね……」
若い刑事は廊下には自分と竹上しかいないのにもかかわらず、職業上のクセだろうか、耳打ちで竹上に内容を伝える。
そして、竹上の表情が見る見るうちに変わっていく。
「ちくしょうが。どうなってやがるんだ、一体……」
「どうしますか?」
「…………」
竹上はしばし悩むように下を俯き、しかしすぐに顔を上げて再び無人の廊下に怒鳴るように言った。
「ええい、面倒かけやがる! 行くぞ、万代!」
「は、はい!」
そして二人は小走りに署内の廊下を走り去っていった。
本当に無人になった廊下には、二人の足音がどこまでも響き渡った。
「……ったくよぉ、どういうことだよ名探偵」
走りながら、竹上は愚痴をこぼすように呟いた。
――街外れの森林公園が火の海に包まれたのは、今からほんの数分ほど前のことだった。