Episode128:一閃の果てに
余計なことは何一つ考えていなかった。
ただ、自分の中にある力という力を全部、一点に集約してぶつけるだけ。
敵わないかもしれない。
及ばないかもしれない。
けど、きっとそれは無駄なことじゃない。
「うあああああっ!」
どうなったって構わない。
かりんと春彦、そしてクロウサと交わした約束を果たせるのならば、僕の体なんか……命なんか、いくらでも放り出していい。
たとえそれが、結果的に誰かを悲しませるものになったとしても。
……それでも、構わない。
たった一度……いや、一瞬でいい。
目の前の敵を超越できるだけの……力を。
願うように剣をかざす。
振るえ。
ただ、真っ直ぐに。
どんな衝撃音が響いたのだろうか。
少なくとも、僕の耳にはその音は届いていなかっただろう。
ありったけの力で振り下ろした剣は、刀身全体から空気の渦を巻き上げ、音速を超える速度で回転していた。
空気が裂け、真空が生まれる。
体を支える二本の足が、根の床を削り取りながら沈んでいった。
「……っ、ぐ……っ」
巻き起こる烈風。
真空の刃が、目の前の敵と同時に我が身にも跳ね返り、腕や足、肩や頬を何ヶ所も切り裂いた。
鮮血が迸るが、赤い雫は空気の渦に触れるや否や、跡形もなく飛散して消え去る。
そんな痛みに構っている余裕はない。
剣を握るその両手だけに、渾身の力を込める。
だが、それでも。
振り下ろしたはずの剣は、目の前を切り裂くまでには至らない。
「ぐ、が……っ、ああ……」
まるで闇のカーテンのように、黒い障壁が風の剣を受け止めていた。
皮一枚か、あるいはそれ以下の厚みしかないその壁に、しかし風の剣はそれ以上食い込むことができない。
「……っ」
かたや、風の剣を受け止めるそれも、決して楽ではなかった。
まだ片手でしか防御をしていないとはいえ、今までの力量からは想像もつかないほどの大きな力が押し寄せていることを実感させられている。
「……この期に及んで、どこにこんな力が……」
片手だけではどうやら耐え切ることができないようだ。
それは初めて、目の前の力に危険性を感じていた。
「くっ!」
風の剣を、両手で受け止める。
障壁の力が一段と強まり、振り下ろされた風の剣をわずかに押し返す。
「く、そ……っ、まだ、だ……もっと強く、強く……」
轟、と。
その言葉に答えるかのように、風は強さを増した。
もはやその規模は大型の台風か、いや、あるいは嵐にさえ匹敵するものになっているかもしれない。
全身を引き裂くように駆け巡る痛み。
肉は裂け、骨は軋み、血が噴き出した。
それでも、剣を握る手は離さない。
絶対に、離せない。
「ぐっ……」
それは歯噛みした。
おかしい。
もうとっくに、目の前の少年の体には力は残されていないはずだ。
立っているのもやっとのはずのその体の、一体どこにこれだけの力があるというのか?
底なしに溢れてくるそれは、恐怖の対象として十分認識できるものだった。
危険だ。
本能がそう告げる。
ならば、手段を選ばず今この場で、確実にその息の根を止める必要性がある。
両の手はこれ以上動かせない。
少しでも力を抜けば、その隙にこの風は更なる力で振り下ろされ、間違いなくこの体を両断するだろう。
持久戦に持ち込めば先に倒れるのは少年のほうだろう。
しかし、今までのことも考えるとそんな確証のない理由に頼るのは愚かな行為だ。
理屈や計算では、少年の力は把握できるものではない。
現に少年は、二度もの死線を潜り抜けて今この場に立ちはだかっているのだから。
「っ、ならばこれで止めを刺してやるまでだ!」
グニャリと、それに付き従うようにまとわりついていた闇が蠢いた。
影が異形の型を成し、うねりを繰り返しながら変形していく。
「っ、な、に……?」
僕は視界の端で その影を微かに捉えていた。
グニャグニャと曲がりくねりながら、黒い影が見る見るうちに変形していく。
やがてそれは、五指を鋭く尖らせた巨大な手……魔手の姿と成る。
「あれ、は……っ!」
それには見覚えがあった。
あの夜、確かに一度僕の心臓を貫いた黒い刃。
禍々しいその切っ先は、さらに漆黒の濃さを増しているようにも見える。
「……一度は確かに、貫いたはずだが」
それが語る。
「どうやらその程度では、手緩いらしい。だから今度は、跡形もなく握り潰させてもらうよ。欠片も残らないようにね」
ギリギリと音を鳴らしながら、魔手がその五指を大きく開き、構えられる。
「く……っ!」
今剣を握る手を離せば、障壁の押し返す力でこの場に集まった全部の力が飛散してしまう。
かといって、この体勢じゃどれだけ真正面から飛んでくるものであろうとも、回避することはできない。
一体、どうすれば……!
魔手は狙いを定めた。
一点、その体の中心にある命の鼓動を絶つために。
ならばこちらも、一か八かでも賭けに出るしかない。
あの魔手があるということは、多少なりともそれの集中力、および注意はそちらにも割かれているはず。
ならばその分だけでも、障壁を生み出す力も弱まっているはずだ。
魔手が僕を目掛けて解き放たれる、その瞬間。
一瞬だろうけど、必ずそこで障壁の力は弱まる。
そこに、賭けるしかない。
どうせこのままじゃ消える命なのだから、最後に限界を超えた奇跡を……!
「……か、りん……春彦、クロ……ウサ、力を、貸してくれ……」
その言葉が、今はいない人達に届いたのだろうか。
クロウサから受け取ったかりんの『Ring』。
ポケットの中にしまいこんだ、すでに力を失ったはずのその『Ring』が、再び弱々しくも光り始めた。
まるで、最後の後押しをしてくれているかのように。
「これが本当に最後だ。もう、何人たりとも邪魔はさせない」
魔手が、静かに呼吸した。
シンと、一瞬の静寂。
一瞬の後、動く。
「――冥府の鉤爪よ、心の臓を握り潰せ」
魔手が走る。
同時に、障壁による押し返す力がわずかに弱まった。
その刹那の拍子を、見逃さない。
「い、けえええええっ!」
呼応する音の『Ring』。
風と音は今一つとなり、それは…………詩となった。
「な、に……?」
障壁に亀裂が走る。
小さなヒビが枝葉のように次々と分かれ、やがて表面全体に行き渡り、ついには障壁がガラスのように砕け散る。
「ば、かな……っ!」
振り下ろされる力は、すでに風ではなく。
それはいつの日か、滅びを予め定められた一つの世界で、一人の吟遊詩人が奏でた詩。
幾重にも折り重なった時代と場所を超え、今この場所でその詩は、ようやく誰が為に紡がれること知る。
かつてない力が来る。
ただ真っ直ぐに、一片の迷いも躊躇いもなく。
真っ直ぐに、振り下ろされる。
……だが。
「……確かに見事な力だが……残念だがわずかに遅いね」
そう。
振り下ろされる力よりもわずかに早く、魔手は僕の心臓に到達しようとしていた。
当然、回避しようにも僕の体は言うことを聞いてくれないし、そもそもそんな力はもう体のどこにも残されていなかった。
だからせめて、相打ちになってくれと。
そう願って、僕はその目を閉じかけていた。
……ごめん、かりん……春彦……クロウサ。
……約束、守れないみたいだ…………。
視界が暗転する。
そしてその直後に、確かな手応えを感じた。
しかし、やはりそれよりも一瞬だけ早く、僕の心臓はあの魔手によって握り潰され……。
……握り、潰されて…………いない?
「え……?」
視界が開く。
すると、僕の胸の手前で魔手はピタリとその動きを止めていた。
その魔手が、目の前で音もなく崩れ去っていく。
これは一体、どういう……。
内心で呟きながら、僕は視線を移して……。
……そこに。
「……お、前……どう、して…………」
苦悶の声で、それは膝を折っていた。
そして、その間には……。
「――しん、ご…………?」
その背には、両断されたようなひどい傷跡が鮮明に残っていた。
真っ赤な血がとめどなく流れ出し、足元は地の水溜りで溢れている。
「……よぉ。悪かった、な……面倒ばっか、押し付け……ちまって…………けどまぁ、間に合って……よか…………」
そして、崩れる体。
血の海の中に、真吾の体は静かに横たわった。
「――真吾っ!」
僕は叫び、駆け寄った。
背後から、氷室と飛鳥の足音も続くようにやってきていた。