Episode125:彼の願い
「……さて、処理も終わったことだし、僕も急がないといけないな」
それは砂煙の中に横たわるモノに一瞥すると、何事もなかったかのように去って行った。
僕の体は跳ね返された一撃によって吹き飛ばされ、根の地面に叩きつけられて何度も転がった。
痛みを感じるよりもまず、意識が遠ざかっていく感覚に襲われた。
ロウソクの火が次第に弱々しく消えていくように、僕の生命力ももはや風前の灯に等しかった。
……体が動かない。
指一本でさえ、まともに動かすことができない。
かろうじて消え入りそうな呼吸を繰り返すのがやっとで、それを生きていると表現するのは無理があった。
「……か、り……ん……」
遠ざかっていく意識の中で、彼女の名前を呼んだ。
この腕の中で、静かに消えて行ったあの命の重み。
無駄にすることはできない。
必ず敵は討つ。
そう、心にどれだけ強く誓っても、肝心の体はもう動かない。
動こうともしてくれない。
微かに開いた視界の先、赤い水溜りが広がっていた。
それは全部、僕の体から流れ出している血によって形作られているものだった。
全身全霊で打ち込んだ風の力。
それをいともたやすく跳ね返され、無数の風の刃は僕の体を切り刻んだ。
全身の何ヶ所にも傷を負い、傷口は真っ赤な血を流し続ける。
目はかすみ、体温も徐々に奪われていく。
意識が遠のき、世界が暗転する。
「……かりん、ごめ…………」
それだけの言葉を搾り出して、僕の意識はそこで途絶えた。
暗転した視界の中、底なしの沼に体が引きずり込まれていくような感覚。
これが……死。
抗うこともできず、ただ引きずりおろされていく。
深い海の底に溺れていくかのように。
僕の体は沈み、自由を失う。
ただ最後に、往生際悪くその手を伸ばしてみた。
しかし、掴めるものは何もなく。
また、堕ちていく……はずだった。
その手が、僕の手を掴むまでは。
眩しさに目を開けた。
そこは、白い……本当に真っ白な場所だった。
部屋なのか、空間なのか。
どちらにしても現実感がなく、夢か幻かと疑ってしまいそうなほどだ。
「……生きてる、のか? 僕は……」
あれだけの血を流してなお、まだ生きているなんて、どうやら僕は相当往生際が悪いか、悪運が強いかしているようだ。
「気がついたかい?」
ふいにかけられたその声に、僕は背後を振り返る。
するとそこに、一人の少年……といっても僕と同い年くらいの風体だが、静かに立っていた。
「君は……?」
「僕の名前は、春彦」
「春彦って……もしかして君が、かりんのお兄さんの……?」
「ああ、そうだよ」
「で、でも、どうして? 確か、君は昔交通事故で死んでしまったはずじゃ……」
「確かに僕は、あの日交通事故で命を落とした。けど、それがどうしても無念でね。どういう奇跡か知らないけれど、僕は僕の心の一部をあの時持っていたぬいぐるみに移すことができた」
「ぬいぐるみ……クロウサのことか」
「そう。それからずっと、僕は妹を見てきた。ぬいぐるみの体では喋ることも動くこともできなかったけど、傍に居れるだけで僕は満足だった。そうやって陰ながらに、かりんを見守っていくつもりだったんだ。あの日が来るまでは……」
「あの日……?」
「ほんの些細な偶然が、かりんと僕の運命を捻じ曲げてしまったんだよ。ちょうど、君がその指輪を拾ってしまったようにね」
「……そうか、かりんが契約者に選ばれて、それで……」
春彦は頷いて答える。
「『Ring』と呼ばれるものの力で、また奇跡じみたことが起こった。この人形が意思を持ち、喋るようになったんだ。僕の意思とは違う、別のものがね」
「それが、クロウサだね?」
「そう。けど、別に僕の心が追い出されたってわけじゃなかったんだ。言ってみれば、一つの人形に二つの心が存在するようになった。僕とクロウサは人形を通して意志の疎通はできるけど、人形の主人格はあくまでもクロウサだから、僕は人形の体を介してかりんに話しかけたりすることはできない。そうやって僕はずっと、人形の中で息を潜めていたんだ。かりんが僕を生き返らせようなんていうバカなことも、見て見ぬ振りをすることしかできなかった……」
「バカなことって……そういう言い方はないだろ? かりんは、君のために必死になってたんだ。間違いだと分かっていても、すがる思いでわずかな望みにかけて、それを君は……」
「分かっている。元を正せば、こうなってしまった一番の原因は僕の死にあるわけだからね。けど、僕はもう死者でしかない。この声がかりんに届くことも、この手が触れることも、二度とないんだ……」
「……っ」
そうだった。
分かっていたのに、僕は身勝手な言葉を吐き捨ててしまった。
一番苦しくてたまらないのは、春彦自身に決まっているというのに……。
「……大和、だったね? だから君に、頼みがある」
「……頼み?」
「僕はクロウサの中からではあるけど、ずっと君たちの戦いも見てきた。君が真剣にかりんを救おうとしてくれたことも、この戦いを犠牲なく終わらせようとしている気持ちも知っている。だから、頼みたい。一秒でも早く、この無意味な戦いを終わらせてほしい」
「……それは、もちろんそうしたいよ。けど、僕はもう……」
この体はじきに朽ち果てるだろう。
立ち上がる力さえ残されていない僕に、一体何をどうできるというのだろうか。
「分かっている。だから、これは僕にできる最初で最後の助力」
「……何を、言って……」
「――この場に残された僕のわずかな命の欠片、全て君に託す」
「な……」
それは、つまり。
「ま、待ってよ! そんなことしたら、今そこに居る君は……心の一部でしかない君は、どうなるんだ?」
「……消滅する。恐らくは、かりんの記憶にさえも俺の記憶は残ることはないだろう。いや、最初から僕はこの世界のどこにも存在しなかったことになるだろう」
「そん、な……」
「気に病むことはないよ。どうせ僕はもう死んでしまっているんだから」
「っ、そういう問題じゃないだろ!」
僕は感情に任せて叫んでいた。
「死んでるからとか生きてるからとか、そんなの関係ない! そんな、誰の記憶からもいなくなってしまうなんて、そんなことあっていいはずないじゃないか!」
「……大和」
「だってそうだろ? たとえ死んでしまっても、覚えてくれてる人はいるんだ。かりんがそうだったじゃないか。人形の中で何もできなかったとしても、そのことを嬉しく思わなかったのか? いつも自分のことを思い出してくれる人がこんなに傍に居たことを、何とも思わなかったのかよ!」
「そんなわけないだろ!」
春彦もまた叫んだ。
様々な感情を押し殺していても、溢れ出す言葉は止められない。
「分かっているんだ、そんな矛盾は。しかし、もうこれしか手段はないんだ。僕の肉体はすでに滅び、存在しない。しかし大和、君はそうじゃない。今ならまだ間に合うんだ。僕のわずかな命の欠片でも、今の君ならまだ立ち上がることはできる。立ち上がって、立ち上がって……何度倒されても、今まで君は立ち上がってくれた。他の誰でもない、かりんのためにだ。だから、だから……」
「春彦……」
「……だから、君に託すんだ……」
……本当ならば。
本当ならば、春彦自身がその拳であいつを思いっきり殴りつけてしまいたいだろう。
しかし、それができないということを嫌というほどに理解しているから。
すでに死んでしまっている自分では、それも叶わないと理解しているから。
「……頼む。かりんの……妹の敵を、討ってくれ。そして、この無意味な戦いの幕を引いてくれ。かりんが最後まで願ってやまなかった、当たり前の時間と世界を……取り戻してやってくれ…………」
涙ながらに春彦は言った。
どれだけの悔しさがそこにあっただろう。
どれだけの悲しさがそこにあっただろう。
大切な人をその手で守ることさえできないこと。
大切な人を目の前で失ってしまうこと。
そして何より、大切な人が願ったことさえ叶えられないこと。
それはきっと。
ナイフで心臓を抉り取られるよりも。
拳銃で頭を撃ち抜かれるよりも。
生きながら炎で身を焼かれるよりも。
ずっと、ずっと……。
――心が痛んで、仕方のないことなのだろう。
「……もう一度だけ言う」
その言葉に、僕は顔を上げる。
「僕の命を、君に託す。どうか、打ち勝ってほしい。全ての間違いを、打ち砕いてくれ」
そして、弾けた光。
あまりにも儚く、弱々しく、しかし暖かい命の欠片。
僕の胸の中に、溶け込んでいく。
「……ああ、分かった。必ず……必ず止めるよ。だから、だから君も……」
溶け込んだ光が広がっていく。
春彦の想い、記憶、全てが流れ始める。
「――ここで、最後まで見届けてくれ」
体の中、どこかで誰かの声がした。
ああ、と、そう一言。
優しい声で、頷いていた。
お久しぶりになります、作者のやくもです、こんにちは。
四月末に事故で腕を骨折してしまい、そのせいで執筆作業ができない状況が続いていましたが、近日になってようやく完治できましたので、執筆作業のほうを再開させていただきます。
長らくお待たせした読者の皆さん、本当に申し訳ありませんでした。
なお、本日投稿したもう一つの作品の続編、we can not fly.but――――の後書きにても同じようなことを書かせていただきましたが、その中の一部にある小説の削除に関するコメントですが、規約の方で極力小説の削除は控えるようにと注意書きがありましたので、削除ではなく更新未定という風に言い方を変えさせていただきます。
どちらにしても読者の方々にはご迷惑をおかけしますが、なにとぞご了承ください。
それでは今後ともよろしくお願いしたします。