Episode124:深みへ
「……出口?」
長く続いた洞窟のような暗がりの先に、ようやく明るさが見て取れた。
飛鳥はわずかに歩調を速め、小走りでその場所へと急ぐ。
暗闇を抜ける。
「……何、ここ?」
辿り着いた場所は、ただただ広いだけのがらんどうな空間で、不気味なくらいに殺風景だった。
シンと静まり返るその場所で、飛鳥はしばし呆然と立ち尽くす。
キィンと、耳の奥で耳鳴りがしたかと思うと、直後にすぐ近くから何かの物音が聞こえた。
「っ、誰?」
警戒しながら振り向きざまに叫ぶ。
薄暗い景色の向こうから、一人分の足音が徐々に近づいてきていた。
「……っ」
緊張が走る。
体が受けたダメージから考えても、これ以上の無理な戦闘は文字通り命を削ることになりかねない。
最深部を目指すためにも、できる限りの余力を残しておきたいのはやまやまだったが、相手次第ではそんな悠長なことを言ってられる余裕もないだろう。
バチッと、手の中で雷が弾ける。
弓を構え、弦を引き、青白い閃光を放つ矢を向ける。
「……その声は、飛鳥……ですか?」
としかし、暗がりの向こう側の声は聞き覚えのあるものだった。
「……氷室? 氷室なの?」
弓を提げ、矢を消滅させて飛鳥は言葉を返す。
足音が近づき、闇の中からその輪郭が覗いた。
「どうやら、そちらも無事だったようですね……」
姿を現した氷室の外見は、一言で言えばボロボロだった。
飛鳥もそれなりに傷を負ってはいるものの、氷室のそれと比べれば比較的軽傷だ。
が、氷室はすでに満身創痍という言葉が似合うくらいの姿だった。
「ちょ、ちょっと、大丈夫なの?」
慌てて飛鳥は駆け寄り、肩を貸す。
「平気ですよ……と、言いたいところですが、見ての通りです。少し、いらない傷を増やしすぎましたね……」
言うや否や、氷室の体が前のめりに傾く。
「っと……情けないですね」
「無理しない方がいいって。その傷、浅くないじゃない」
「ええ、本当に。不愉快極まりないですね。よりによってあんなやつ相手に致命傷に近い傷をもらうなんて……」
「……大人しく休んでたほうがいいと思うけど、ここまできてそんな言葉に従うわけないわよね」
「理解が早くて助かりますよ。さぁ、先を急ぎましょう。大和達にも、早く合流しないと……」
「うん、分かってる」
二人は揃って歩き出す。
景色と呼ぶには程遠い外観の根の壁が、見えない眼差しを突きつけているかのようにその行方を眺めていた。
「ねぇ、氷室。あれ、何?」
「え……?」
少し歩いたところで、氷室は聞かれた。
飛鳥の指差すその方向に目を向けてみると、そこにはなにやら黒い塊のようなものが佇んでいる。
この世のどんな色合いの黒にも属さない、闇と闇が混ざり合うことを繰り返し続けてできたような、そんな不気味な色合いの黒。
遠目から見ているだけで悪寒が走り、息苦しささえ感じてしまうほどだ。
「……何か、いやだよあれ。見ているだけで気分が悪くなってくる」
その不気味さに呼応するかのように、全身のあちこちの傷が疼くように悲鳴を上げた。
「っ……」
「……とにかく、近くにいって見ましょう。無関係とは思えません」
「う、うん……分かった」
二人は少しずつ歩を進め、その黒い塊に近づく。
そのたびに、重さのない薄い膜を音もなく破るような感覚に襲われた。
それはまるで、その塊までの距離に幾重にも薄い膜が張り巡らされ、進入を拒んでいるかのようだった。
嫌にまとわりつくその感覚は妙にリアルで、しかし現実には体には何も付着していない。
見えない粘膜を全身が包んでいるようで、それがさらに不気味さを引き立てていた。
「な、何なの、これ……?」
「見えない何かで、押し返されそうです。何もない、はずなのに……」
二人の目の前に佇むのは、何もない空間だけ。
ただ、その塊のような闇から溶け出した粒子のような何かが、ゆらゆらと揺れるように蠢いている。
「やだ、これ……これ以上近づけない……近づきたくない……」
二人の足はそれ以上、一歩たりとも前に踏み込むことができなくなっていた。
進もうとする意思とは裏腹に、本能が全身を拒絶する。
そして叫ぶ。
警告する。
下がれ。
近づくな、と。
そしてその言葉が実際に力を持つかのように、二人の体は見えない何かの力に弾き出されるように後方へと飛ばされた。
「うあっ……」
「ぐっ……、これは、一体……?」
ただただ、闇はそこに佇むだけ。
それは見ようによっては箱のようにも見え、まるでその中に何かを閉じ込めておくためのもののようだった。
よく見れば、それはわずかではあるが宙に浮いている。
揺れているように見えたのはそのせいだったのだろう。
「何よこれ、何なの?」
「…………」
氷室は目を凝らした。
もしもこれが箱、あるいはそれに近い役目を持ったものならば、その中には何かが入っているはずである。
さながらにそれはパンドラの箱を思わせた。
ありとあらゆる災いを閉じ込めたとされる箱。
しかしその中には、たった一つの希望が隠されていたという。
果たして、この場合はいかなるものなのか。
闇が揺れる。
その隙間から、一瞬だけ中身が見て取れた。
そして、そこに。
「……真吾……?」
氷室はその名を呟く。
「……ちょっと、何言ってるのよ氷室?」
飛鳥がすぐさま聞き返す。
「あの中に、真吾がいます。しかし、意識を失っているようにうなだれて……」
「本当? だったら、急いで助けないと……」
急いで駆け寄ろうとするものの、その闇は行く手を阻む。
「うっ……」
意思だけでは拭いきれない防衛の本能が、何度も進む足を止まらせた。
「こ、の……っ」
無理に体を動かそうとしたところで、逆に反発する意思が強くなる。
どうあがいても体は思うように動かず、ただひたすらに防衛本能のみが働いた。
「ラチがあきません。破壊します」
「破壊って、中にはアイツがいるんでしょ? そんなことしたら……」
「もちろん、加減はします。このまま黙って傍観しているよりはマシだろうし、何より真吾の意識があったら彼も同じことを言うはずです」
「そ、それは確かにそうかもしれないけど……」
とはいえ、仲間に向けて攻撃を仕向けるのは気が引ける。
しかし、このまま手をこまねいていたところで時間の無駄であることも明白。
飛鳥は一瞬だけ迷い、しかしすぐに思考を切り替える。
「分かったわよ。やればいいんでしょやれば!」
「……どうして半ギレなのか分かりませんが、まぁそういうことです」
氷室の右手に青い槍が握られる。
習い、飛鳥もその手に弓矢を構えた。
「狙いは一点。地面すれすれに浮いている部分の中心です」
「了解」
二人に残された力は残り少ない。
この場で力を使いきるにはいかないが、恐らく中途半端な力ではあの塊を破壊することはできないだろう。
とはいえ、加減を間違えれば中にいる真吾もろとも吹き飛ばしてしまう可能性もある。
色んな意味で面倒だなと、口には出さずに氷室は舌打ちした。
「行きますよ」
「いつでもいいよ」
一拍の間。
直後に、それぞれの一撃が解き放たれる。
雷の矢と水流は絡み合い、一つになって一点に直撃した。
音らしい音はない。
が、微かにその塊には亀裂が生じていた。
「もう少し威力を」
「うん」
二人は徐々に力を上げていく。
小さなヒビが上方向に走り、ビシビシと音を立てながら裂け始めた。
そしてとうとう、亀裂は頂点にまで達し、黒い塊に縦一閃の筋が走る。
やがてそれは音もなく弾け、空気に溶けるように消えていった。
その中から、崩れ落ちるように真吾の体が投げ出され、そのまま根の床の上に落下する。
「真吾!」
飛鳥が駆け寄る。
「ちょっと、しっかりしなさいよ!」
体を揺すると、呻くように真吾は声を漏らした。
とりあえず命に別状もなさそうだが、ひどく衰弱しているような様子だ。
「……お、お前ら……」
「気がつきましたか?」
「……俺は、どうして……」
「どうしてって、こっちが聞きたいわよ。変な塊の中に閉じ込められてるし、氷室が気付かなかったらアンタごと壊してたんだからね」
「……そう、だ。アイツは、アイツはどこに……うっ……」
起き上がろうとするものの、真吾の体はまともに動こうとはしなかった。
目立つ外傷などは何もないのに、ひどく体力を失っている。
「早く、早くアイツを止めないと……」
「ええ、そのつもりです。それで、肝心のやつはどこに?」
「最深部。そこでアイツは、最後の儀式を行うはずだ。それを止められなかったら、もうどうしようもない」
「だったら急がないと。早く最深部へ行こうよ」
「そうですね。急ぎましょう」
「……お前達は、先に行け。俺もすぐ追いつく」
「……分かりました。状況が状況ですから、今はあなたの言葉に従いますよ」
「野垂れ死んだりしたら、承知しないからね」
それだけ言い残して、二人は先を急いだ。
その背中を見送ってから、真吾はよろめきながら立ち上がる。
「く、そ……力のほとんどを奪われてやがるな。あの檻みたいなのが、少しずつ力を奪っていったのか……」
すでに今の真吾に戦うために使える力などは残っていなかった。
それどころかこうして、歩くことさえもままならない状態。
「後から追いつくとは言ったが、それも怪しいな……」
呟き、乾いた笑いが漏れる。
時間がない。
それは、あらゆる意味でのことだった。
この世界がなくなるまでの時間。
もしかしたら、それよりも早く真吾は……。
「……頼む、もう少しだけもってくれよ、俺の体。望まれて生まれたわけじゃない俺にも、今は帰る場所があるんだからよ……」
引きずる体は重い。
全てが終わるまで、自分はそこに居られるだろうか?
答えを待つ暇もなく、真吾は自由の聞かない体を引きずり始めた。