Episode123:背中
腕の中に感じていたわずかな重さが消えていく。
抱きかかえたかりんの体は徐々に半透明に薄れていき、まるで目の前で蜃気楼を見せられているかのようだった。
「あ、あ……」
薄れていく現実感。
存在を示す重さが、暖かさが、消えていく。
雪が溶けて消えるように、かりんの体は天に昇るように粒子化していった。
白く淡く、そしてあまりにも儚いけど、美しすぎる光。
消えていく。
自分の間違いと、過ぎた頃の思い出だけを胸に仕舞い、ゼロに還っていく。
やがて、何もかもが文字通りに消えてなくなった。
足元に転がり落ちていたのは、かりんが身に着けていた「Ring」。
今はもうその力の大半を失い、どこからどう見てもただの金属片にしか見えなかった。
僕はそれを、震える指先で拾い上げる。
冷たかった。
その冷たさが、余計に悲しかった。
「かりん……」
すぐ傍でクロウサがその名前を呟く。
名前を呼ばれた少女は、もういない。
どこにも、いない。
「今生の別れは済んだかな?」
その声が、意識を現実に引き戻した。
視界の向こう、闇を引き連れたそれは待ちくたびれたように立っていた。
「……お前、は……」
声が震えているのは、多分恐怖のせいじゃない。
この際、理由なんてどうでもよかった。
僕の胸の中にたぎるように残ったのは、ただの虚しさと悔しさと、怒りだけ。
「あまりこちらの予定を次々に狂わせないでもらいたいものだね。その度に打開策を考えるこっちの身にもなってほしいよ。まぁ、この場合に限って言わせてもらえば、予想の範疇ではあったけどね」
そんな言葉はもう耳には入ってこなかった。
「……何も、感じないのか? 仮にも、かりんはお前の仲間だったはずだろ……?」
「君は一体、どこまでくだらない誤解を続ければ気が済むのかな?」
それははっきりと言い切る。
言ってはならないことまでも、ためらいなく。
「――拾った道具だから、僕に所有権があっただけのこと。そんなに大事に扱ってほしいのなら、取扱説明書でも添えておくことだ」
「……っ!」
もはや、叫びにも声にもする必要はなかった。
体が動く理由は、たった一つの単純な動機。
こいつは、殺す。
何が何でも殺す。
四肢をばらばらにして、全ての骨を砕き、肉を裂き、神経を引きちぎり、原型を留めない肉と血の塊に変えてやる。
怒りの引き鉄は引かれた。
かつてない力がその手に宿っていた。
それはすでに、風ではない。
制御の利かない暴風……嵐だった。
「あああああっ!」
その手に握り締めたのは、一本の剣。
わずかに淡い緑色に光るそれは、風の力を凝縮したエネルギーの塊だ。
しかしそこに定められた原型はなく、刀身部分は目には映らないほどに薄く鋭い。
全力を持ってそれを振るう。
何もかもを呑み込むような轟音が響いた。
空振った衝撃だけで、硬く頑丈に張り巡らされた根の床が簡単に引き裂かれた。
まるで巨大な獣が強靭な爪で地を抉ったように見える。
「……君には本当に驚かされる」
それは口ではそう言うが、実際は軽々と攻撃を回避していた。
「風の力とは、ここまで底なしのものなとはね。怒りで我を忘れているからかもしれないが、ここまで古代の力を引き出せるとは……」
賛辞ともとれるその言葉も、今の僕の耳には全く届かない。
僕自身、我を忘れていたのかもしれない。
煮えたぎるような怒りと、自分に対する憤りだけが、今の僕を突き動かしていた。
「……っ、死ねえええええっ!」
全力で剣を振り下ろした。
信じられない速度と、それと空気と摩擦による衝撃が、わずかに火花すら散らせた。
繰り出された突風。
いや、それはすでに小型の台風か、あるいはそれ以上の強さだろうか。
形のない牙が、全てを呑み込むように襲い掛かる。
根の床が面白いくらいに朽ち果てていく。
残骸を吹き飛ばしながら、風の塊は真っ直ぐにそれの中心を目掛けて突き進む。
「しかし、悲しいかな。怒りで我を忘れ、内に眠る潜在能力を全て引き出して……」
迎い来る風を避けることもせず、それは落ち着いて語る。
「――やはり、この程度か」
静かに手のひらをかざす。
そこへ、風の塊が直撃した。
次の瞬間。
何一つの音もなく、風がかき消された。
「な、に……?」
その光景に、思わずそんな言葉が出る。
間違いなく直撃したはずだ。
少なくとも、あの手のひらに触れたはず。
それがどうして一瞬で、何もなかったかのように掻き消えてしまうんだ?
「まさか、アイツ……」
クロウサは呟いた。
「……呑み込みやがったのか? ヤマトの力全部、自分の中に取り込んじまいやがった……」
「何、だって……?」
「ご名答」
と、隠す素振りも見せずにそれは頷く。
「さて。それじゃあ力を返そうか」
言うと、それは差し出したままの手のひらにわずかに力を込めた。
たったそれだけで……。
「……な……」
「嘘、だろ? こんなの……」
そこに、信じられない力があった。
風というレベルを遥かに超越した、しかし風から成る力の集合。
分かる範囲の言葉で例えれば、竜巻。
「倍返しという言葉があるけれど、どうやらそれでは足りないかもしれないね」
倍どころの話ではない。
僕が叩き付けた一撃の十倍……いや、それ以上の威力を誇るであろう力が、あの手のひらの上で踊っていた。
「…………」
あまりの違いに、いつしか声も出なくなっていた。
乾いた空気を呑み込む音が、やけに耳の奥にまで響く。
そして、嫌でも理解させられる。
説明など不要な、力量の差を。
「では、返そう。そしてお別れだ。来世でどうか幸せに」
音もなく、合図もなく、それは放たれた。
逃げるとか避けるとか、そういう方法の一つも思い浮かばなかった。
なぜなら、逃げることも避けることもできないほどのとてつもない力だったから。
「……く、そ……くそおおおおおっ!」
目の前に完全な死が迫っていた。
呑み込まれることをただ待つだけの時間。
「……ごめん、かりん」
両膝が折れ、地面にへたり込む。
「何も、守れなくて……」
これが、抗えない運命なのかと。
屈することを知り始めた、刹那の拍子に。
「――ふざけるな。そんなもの、オイラは絶対に認めない!」
そんな声が聞こえて、僕は顔を上げた。
すると、そこに。
一体いつから、そこにいたのか。
いや、そもそも誰なのか。
――両手を広げ、壁のように立ちはだかる誰かが、背中を向けて立っていた。
「君は……?」
ふと、僕は問う。
するとその人は……少年はわずかに振り返って、僕の目を見て。
「――君を死なせはしない」
たった一言、それだけ告げて。
小さく笑って、前を向いた。