Episode122:「ありがとう」
自分の体に対する制御は、もうきかなかった。
歯止めのない感情が溢れ出して、全身の痛みさえ忘れて殴りかかっていた。
届くかどうかも分からない、壊れかけの拳を振り上げて。
「あああああっ!」
握り締めた拳の方が引きちぎれるほどの力を込めて、全力で振るう。
が、その拳は虚しく空を切る。
当たらない。
ただの一度も、かすりさえしない。
がむしゃらになって殴りかかる。
休む間を自分に与えず、足が動く限り追いかけ、拳を振るった。
「…………」
それでも当たらない。
必要最小限の動きだけで、それは僕の攻撃を全てかわしている。
「くそ……くそ……っ!」
次第に息が上がっていく。
考えてみればそれは当たり前のことだった。
すでに二度の連戦を終え、体力も精神力も極限の域まで使い果たそうそしているこの体。
痛みは歯を食いしばれば堪えることはできるだろう。
しかし、失った体力はどうがんばっても取り戻すことはできない。
流れ出た血も、また然り。
「……はっ、はぁ……はぁ……」
追いかける足が鈍る。
呼吸の繰り返しだけで肺が内側から破裂してしまいそうで、息を吸い込むだけで全身に痛みが走る。
両足はすでに棒同然か、あるいはそれ以下。
今の今まで動いてくれたことが奇跡的にすら思えてくる。
視界が霞み始める。
汗の球が頬を伝い、血と混ざって滴り落ちた。
「は……くそ、く、そ……っ」
届かない。
ほんのわずかなその距離が、永遠のように遠く果てなく感じられる。
手を伸ばせばすぐにでもつかめるはずなのに。
全力で拳を叩きこめるはずなのに。
「ヤマト、かりんが……!」
ふと呼ばれたその声に、僕は振り返る。
地面を転がっていたクロウサが、必死に叫んでいた。
「……う、あ……」
微かな呻き声。
それは横たわったかりんのものだった。
「っ、かりん!」
その声に意識を引き戻され、僕は急いでかりんの傍へ駆け寄る。
胸を貫かれ、かりんの出血はおびただしい量に達していた。
このままでは間違いなく失血死してしまう。
「かりん、しっかりするんだ。かりん!」
強く呼びかける。
横たわるその体を抱き上げる。
「……やま……と?」
「ああ、僕だよ」
そう答えると、かりんは力が抜け落ちかけているその体を必死に動かして、小さなその手を伸ばしてきた。
僕はその手をしっかりと取り、強く握り返した。
そこにはすでに、体温というものが失われかけていた。
氷のように冷え切った手のひらと指先。
本当に、少しでも力を入れれば跡形もなく砕け散ってしまいそう。
「……よ、かった……」
それだけ言うと、かりんはどこか満足そうに笑みを浮かべた。
その微笑が、あまりにも痛々しい。
今もなお少しずつ流れ続ける血潮。
その一滴一滴が流れるたびに、命の灯は確実に消えていく。
「もう喋っちゃダメだ。待ってて、今からでも傷口を塞げば……」
望み薄だが、一命は取り留められるかもしれない。
僕は自分に残されたありったけの力を、治癒のために使うべく手のひらに集中させた。
しかし、それを。
「……かりん?」
もう片方のかりんの手が、必死にしがみついてくる。
まるで、やめてくれと、そう叫んでいるように。
「何するんだよ、かりん? 早く治癒しないと、かりんが……」
「……いい、の……もう、いい……から」
「な……」
僕は絶句しながら、自然とその先に続くであろう言葉を想像してしまう。
ダメだ。
そんな言葉を、言わせてはならない。
「何、言ってるんだ? 大丈夫だよ。約束しただろ? 必ず助けてやるって!」
その僕の言葉に、しかしかりんは小さく首を左右に振った。
「……いいの。本当に、もう……いいから。私のために、使う力があるなら……それ、を……彼を止める、ために……っ」
言いかけたかりんの表情が、苦痛に歪んだ。
「かりんっ!」
「……お、願い……私は、もういい……から。もう、十分……だか、ら……」
「っ、そんなわけないっ! 何が十分なんだよ? そんなことないだろ! さっき、ようやく気付けたばっかりじゃないか。本当の自分の気持ちを、言葉にできたばっかりじゃないか!」
僕は怒鳴り散らすように叫んでいた。
自分でももう、何が何だかわからなくなっていたのかもしれない。
どうしようもなくて、ただ喚いているだけ。
それはまるで、おもちゃを与えてもらえない子供が、母親に対して駄々をこねているのと同じで。
矛盾なんてものにはとうに気付いていた。
けれど、矛盾させでもしないと何も出来ない気がして。
最初から分かっていた自分の無力さを、ただ認めたくなかっただけで。
「だから、そんなこと言うなよ! 必ず……必ず助けてやるから。絶対に、絶対に僕が……」
いつからだったろう。
僕は、涙を流していた。
それはきっと、この体にある無数の痛みのせいなんかじゃない。
ただ、単純に。
――悔しくて……悔しくて、仕方がなかったんだろう。
「っ、助けて、やるから……っ!」
たどたどしい言葉だった。
自分の言葉を自分の耳で聞いていて、どれほど頼りなく、情けない言葉であるかがよく分かった。
何の根拠もなく。
何の自信もなく。
ただ、うわべだけを着飾った言葉を連ねている。
気付いていた矛盾。
どうにかしたいという理想と、どうにもならないという現実。
ないものねだりは叶わないと、とうの昔に気付かされているのに。
それでも僕は、叫ぶことしかできなかった。
根拠のない強がりで自分を偽って、虚勢の壁で仮初の安らぎを与えて。
けど、それが何になる?
心の奥底では、もう気付いていたんだ。
だからこそ、かりんが胸を貫かれた直後、僕は。
真っ先に殴りかかっていったんじゃないか。
それは、仇をとるという行為。
それは、心のどこかでかりんの死を受け入れてしまっていた行為。
本能が動かした体は、目の前の現実を如実に語る。
かりんは、もう……助からない。
「……っ、くそっ……くそっ……」
そんな言葉しかこみ上げてこない。
もっとこう、気の利いた言葉はないものだろうか。
でも、それでも。
「……大和」
かりんのその手は、僕の手をすり抜け、涙の伝う僕の頬に優しく触れてくれた。
そこに、握り締めたときのような冷たさはなく。
不思議と落ち着きを感じてしまうような、温もりがあって。
僕の頬をそっと撫でるように触れて、かりんは言った。
「ありがとう、大和。あなたのおかげで、私は自分の間違いに気付くことができた……」
「…………」
「きっと、お兄ちゃんもこんなこと、望んでなかったよ。もう少しで私は、いなくなったお兄ちゃんをまた悲しませてしまうところだった……」
「……っ、か、りん……」
「……私は、もう十分だから。本当ならあの日。お兄ちゃんが死んでしまったあの日、私も死んでしまったはずだったの。体は生きていても、心が死んでしまっていたから。けど、そんな私を支えてくれたのは、クロウサだった」
「かりん……」
「ごめんね、クロウサ。あなたも本当は、ずっと前から私の間違いに気付いてたんだよね? それでも、何も言わずに私の味方であり続けてくれた。ごめんね、いっぱい迷惑かけたよね?」
「そんなことない。オイラだって、かりんだったからここまで一緒にこれたんだ。そして、その気持ちはこれからだって変わるもんか。オイラはずっと、この先もずっとずっとかりんと一緒だ」
「……うん。ありがとう」
そう答え、かりんは微笑んだ。
「でも、ね。ごめんね。その約束は、もう、守れない……」
呟いた言葉。
かりんの目が、静かに閉じようとしていた。
「っ、ダメだ! 目を開けるんだかりん。そんなのは絶対にダメだ!」
「そうだぞかりん! オイラはこんな結末、絶対に認めないぞ!」
「……ごめ、んね。でも、これはきっと、私の罪だから。もう、逃げたり……したくない、から……」
頬に触れていたその手が、スルリと剥がれ落ちる。
落ちるその手を、僕は掴んだ。
掴んで、強く強く握り締めた。
認めない。
こんな終わり方、絶対に認めない。
認めたくない。
「かりん、かりん……」
「ダメだかりん! 死んじゃ、ダメだっ!」
その言葉が、かりんの耳にはどう届いたのだろうか。
最後にもう一度、かりんはしっかりと僕とクロウサに向けて優しく微笑んで。
「――……ありがとう。ごめんね。そして……さよ……な…………」
やがて、閉じる瞳。
抱きかかえた小さな体はもう、ピクリとも動かない。
「……っ!」
「か、りん……」
その顔は。
最後の最後まで優しいままで。
暖かさに包まれて、眠っているようだった……。