Episode121:二人の頃
「……大丈夫? 大和」
「……っ、ああ、何とかね……」
そうは答えるが、骨折をはじめとした全身の打撲はかなりの激痛で、誰の目にも僕のやせ我慢は明らかだろう。
かりんの治癒のおかげで、それでも痛みはずいぶんと和らいではいる。
切り傷や擦り傷程度ならすぐに塞がるが、さすがに折れた骨はそう簡単にくっつくものではない。
普通なら二ヶ月か、あるいはそれ以上の時間がかかっておかしくないのだから。
「ありがとう。かりんのおかげで、大分楽になったよ」
「……ううん。結局私は。また大和を。傷付けてしまった。戦いたくないと言ったのは。私のほうだったのに……」
言って、かりんはまた目を伏せてしまう。
「かりん……」
腕の中で抱かれたクロウサが、悲しそうな声で呟いた。
「そんなことは、ないよ」
僕は告げ、かりんの頭を撫でる。
「かりんはかりんのために、できることを精一杯やったんだ。他人の目から見ればそれは確かに、間違ったことだったかもしれない。けど、かりんはちゃんと自分で考えて、その道を選んだんだから。そんな風に自分を責めるのは、もうやめよう」
間違うことで初めて気付かされる真実もある。
失敗は成功の元という言葉もあるように、全てが正しく、美しく、理想のままに進むことはありえない。
いつどんな形で障害が立ちはだかるかも分からない。
それは時として、越えられない壁として行く手を阻むこともあるだろう。
そのとき、諦めて引き返すのも間違いではない。
強引にぶち壊して進むのも、間違いではない。
何が正しいかとか、何が間違ってるかなんていうそんなものは、結局個人個人の価値観の中でしか比較できないものであって。
たとえ百人のうちの九十九人が、それは悪だと否定をしても。
たった一人信じ続ければ、それはその人の中では真実になるのだから。
「かりん、答えたくないなら答えなくていいから、聞いてもいいかな?」
「……何?」
「その……かりんがこうまでしてこの世界を変えようとしたのは、やっぱり……君のお兄さんのことがあるからなの?」
「……うん」
静かに、かりんは一つ頷いた。
「……私の両親は。私が生まれて間もない頃に。事故で死んじゃったの。それからはずっと。お兄ちゃんだけが。たった一人の家族だった……」
顔を上げ、どこか遠くを見つめるようにかりんは続ける。
「……両親がいなくなって。私とお兄ちゃんは。施設に預けられたの。そこには。私達みたいな。身寄りのない子が他にもたくさんいて。最初は戸惑ったりもしたけど。すぐに打ち解けて仲良くなれた。施設の大人の人達も。皆いい人で。すごく優しかった」
振り返ればそれは、そう遠すぎる日々のことではないだろう。
かりんの表情に少しだけ、懐かしさを匂わせる微笑が浮かぶ。
「……両親がいないのは。やっぱり悲しかったけど。友達も沢山いて。何よりお兄ちゃんがいつも。いてくれたから。私はちっとも。寂しくなんかなかった。お兄ちゃんはいつも。私のことを。気にかけてくれてたし。私の中では。お兄ちゃんは同時に。お父さんでもあったの」
「……そっか。きっと、優しい人だったんだね」
「……うん。すごく優しかった。怒られたことなんて。一度もなかったかもしれない。お兄ちゃんは。施設の中でも。年長者の方だったから。私みたいな小さい子達の。面倒見もすごくよくて。大人の人達からも。頼りにされてて……あの頃は。すごく楽しかった。あの場所には。何もなくなった人達しかいないのに。でもあそこには。全てがあった。幸せも温もりも。優しさも喜びも。全部全部揃ってた……」
僕はふと想像してみる。
かりんが言うような、何もないけど全てがある場所。
それはきっと、一度失うことの悲しさを知った人間でなければ、幸せと感じることができない場所なのだろう。
失ったことが、結果的に新しいものを得るきっかけになる。
どんなものでも、失ってしまえばそれは悲しいことだけれど。
いつまでも失ってばかりじゃないだろう。
いつかきっと、その悲しみを上塗りできるだけの幸せが降りかかる。
それはきっと、懐かしいような暖かさがあって。
どことなく安心できるような、そんな感覚なのかもしれない。
「……でも」
と、かりんは話を区切る。
「……そんなささやかな幸せも。ずっとは続かなかった」
「…………」
僕にはその後に続く言葉が、容易に想像できた。
不幸が訪れてしまったのだ。
きっと、かりんに残された最後の居場所を、根こそぎ奪い去ってしまうほどの強風……嵐のような、出来事が……。
「――……私の七歳の誕生日に。お兄ちゃんは……交通事故で死んでしまった……」
「……かりん、無理しないで」
「……ううん。大丈夫。大和にはちゃんと。聞いてほしいから」
「……分かった。でも、無理はしないで」
一つ頷き、かりんはふとクロウサに目を落とした。
「……その日お兄ちゃんは。私にプレゼントを買うために。施設から出かけてたの。私の誕生会を。施設の皆がやってくれることになって。お兄ちゃんはその場で。私にプレゼントをくれるつもりだったみたいなの。それがこの……」
「オイラってわけさ」
クロウサが喋る。
「アイツは……ハルヒコはお店でオイラを買って、それを丁寧に包装してもらってさ。あとはオイラを、施設まで持ち帰ってかりんに渡すだけだったんだ。けど、その途中で……」
「……事故だったの。その日は真冬で。雪もいっぱい積もってて……」
「……きっと、ハルヒコも少し浮かれてたんだ。プレゼントを渡したときのかりんの笑顔が早く見たくて、少しだけ焦ってたんだ。だから、あのときハルヒコは、信号が青から赤に点滅しかけてた歩道を、急いで駆け出したんだ」
「まさか、それが原因で……」
「……ああ、そうさ。そのまま走り抜けてれば、それでよかったんだ。けど、ハルヒコは運悪く雪道に足を取られて転びそうになった。そのとき、オイラを手放してしまったんだ。オイラは宙を描いて、地面に落ちた。当然そのときにはもう、信号は赤に変わってしまってた。そして、ハルヒコがオイラを拾おうと近寄ってきたところに、大型のトラックが突っ込んで……」
「……」
「そんな、ことが……」
「……分かってたの」
かりんは呟いた。
「……事故だって。本当は分かってた。悪いのはお兄ちゃんで。信号を無視しなければ。そんなことにはならなかったから」
「かりん……」
「……全部全部分かってた。でも。心がどうしても納得できなくて……頭の中がごちゃごちゃになって。もういないんだって。どれだけ自分に言い聞かせても。全然納得できなくて……悲しくて、寂しくて。どうしようも……なく、て……ただ、泣くことしか……でき、な……くて…………」
かりんから嗚咽が漏れる。
その小さな体を小刻みに震わせて、かりんは膝を付いて泣いていた。
「……いっぱい泣いて。お兄ちゃんはもういないんだって。そう思ったらまた。涙が出てきて……それの繰り返ししか、できなくって……」
「……」
何となくだけど、僕にも気持ちは分かる。
もちろんそれは、当事者のかりんほどの悲しみを感じることはできない。
同情と言われれば否定はしない。
他人の悲しみに共感することが、同情だと思うから。
「……あの日が」
かりんは続ける。
涙に枯れた小声で、想いを絞り出すように。
「……あの日が私の誕生日じゃなければ。お兄ちゃんは今も。生きててくれたのかな? 私の隣で。笑ってくれてたのかな? 私の名前を……今日も呼んで、くれたの……かな……?」
「…………」
クロウサは何も言わなかった。
強く抱きしめられることを嫌とも思わず、かりんの頬を伝い落ちてきた涙を、その黒い体に染み込ませた。
僕はもう一度、かりんのその頭を優しく撫でた。
ふいに、かりんが顔を上げる。
「……あのね、かりん。僕にはあんまり、うまい言葉は言えないかもしれないけど」
「……」
「お兄さんの死を、自分のせいにするのだけはしちゃいけないことだよ」
「……けど。だけどあの日。お兄ちゃんがプレゼントなんか買いに行ってなければ……」
「うん、確かにそうかもしれない。確かに買い物に出かけてなければ、お兄さんは助かったかもしれない。けど、それはお兄さんが死んでしまった今だから言えることだよね?」
「……っ」
「厳しいことを言うようかもしれないけど、最後まで聞いてほしい。どんな過去があっても、それはもう変えることはできない。生きることも死ぬことも、全部含めてこの世界の流れなんだ。時々それを運命っていう言葉でごまかす人もいるけど、そういうのとは関係なしに僕達はこの世界で生きている。その流れの中には、当然死ぬことも含まれてる。病気か事故か、それとも寿命か。それは誰にも分からないだろうし、きっと分かっちゃいけないことなんだ。自分の終わりが最初から分かってたら、誰も一生懸命に生きようとなんてしないだろ?」
「……そう、だけど」
「うん、分かってる。かりんの思ったことは、悪いことじゃないと思うよ。僕だって、友達や家族が死んじゃったら、生き返ってほしいと思うだろうしね。逆に、こんなやついなくなればいいって思うことはあるよ。でも、それでもさ……」
一度言葉を区切り、僕は続けた。
「――人は簡単に死ぬことができる。けど、死んだ人間はもう……生き返りはしない。何があっても」
「……うん」
「かりんも、分かってたんだよね? 分かってたけど、分かろうとできなかった。でもそれは、仕方のないことだったと思う。かりんにとって、何よりも大切な人だったから……」
「……うん……うん」
「今ここで、仮にアイツのやり方で世界が生まれ変わったとしても。次の世界にいる君と君のお兄さんは、本当に元通りになれるのかな? かりん達が一緒に生きて過ごしてきた時間を、取り戻せるのかな……?」
「……ない。できないよ、そんなの……だって、私とお兄ちゃんが一緒に過ごした時間は、幸せだったあの時間は、あのときだけだもの……」
「ほら、ちゃんと分かってるじゃないか。じゃあ、もう何をするべきか、分かるよね?」
声には出さず、かりんは頷いた。
「……彼を止める。この世界を……私とお兄ちゃんが一緒に過ごせた。時間と記憶があるこの世界を。消させたくないよ……」
「ああ。絶対に消させない。そのために、ここまできたんだ」
痛みを忘れて、僕は笑ってみた。
すると、かりんもしっかりと笑い返してくれた。
初めて会ったあの時のような、小さく静かな微笑で。
……が。
「……あ……」
と、そんな呟いたようなかりんの声。
「……かりん? どうし…………」
聞きかけて、僕は言葉を失った。
トサリと、かりんの腕の中からクロウサが転がり落ちた。
ポタリと、かりんの胸から赤い雫が零れ落ちた。
そこに。
かりんの胸に、どこかで見たあの黒い切っ先が、真っ直ぐに突き刺さっていた。
「……や、ま……と…………」
か細すぎる声。
こんなに近くにいるのに、どうして声は届かない?
グラリと、その小さな体が傾いて沈む。
ドサリと音を立て、小さな体が横たわった。
胸と背中を貫いた穴から、真っ赤な血が流れ出していく。
「かりん! かりんしっかりしろ!」
転がり落ちたクロウサしきりにが叫ぶ。
「か、りん……?」
僕は片言で、その名前を呼んだ。
しかし、もうそこからの返事はなく。
音もなく静かに閉じられた双眸。
涙の跡だけが今も乾かないままに残り、その表情はなぜか柔らかく微笑んでいた。
「やれやれ。ここまできて裏切りとはね。ほとほと人の手を焼かせるのが好きな連中だ」
そこに、闇がいた。
いつの間に現れたのか、その余韻さえ残さず、静かに立ちはだかる。
「……お前が、やったのか……?」
震える声で僕は問う。
「他に誰がいると?」
あっさりとそれは認めた。
「っ、あああああっ!」
怒りで体は動いた。
僕の中で、何かの歯止めが消えていた。
キレルとは、こういうことなのかもしれない。
今の僕を突き動かす感情は、ただ一つ。
――殺意だけだった。