Episode120:本当の声を
心はきっと、泣いていた。
「セレナーデ」
呟き、囁かれた言の葉が力となり、次々に襲い掛かってきた。
実体のない音の塊は、わずかに白く揺らいで光り、もの悲しい音色を奏でながら降り注ぐ。
「っ、やめるんだかりん!」
その音の塊を避けつつ、僕は言葉を投げた。
が、そんなことでは攻撃の手は止まない。
無尽蔵に生み出される弾幕に、僕の体の疲労の方が先に音を上げてしまう。
「うっ……」
足元を直撃した一撃で、僕の体はバランスを崩してわずかに浮き上がる。
不安定な空中に運ばれ、体の自由が利かない。
それを見逃すわけもなく、ここぞとばかりに無数の弾幕が無防備な僕の体の中心目掛けて飛来した。
ゴッという、まるで金属の塊が直撃したかのような衝撃。
「がっ……」
胃の中のものが全部吐き出されそうになるほどの威力。
一撃でそれだけの威力を誇るものが、十や二十では収まらない数で直撃した。
地面から空中へ、僕の体はほぼ垂直に強制的に押し上げられ、気付いたときには高さ五メートルまでに達していた。
意識が遠のきそうになるのを必死に堪えられたのは、腹部に残る真新しい痛覚のおかげだろう。
「く、そ……」
そのまま無防備な体勢で地面に叩きつけられるのを、かろうじて僕は防いだ。
逆立ちするような体制でてのひらを地面に向け、勢いよく風を解き放つ。
放たれた風が気流を生み、落下速度を緩和した。
「は、ぁ……はぁ、はぁ……」
ズキズキと腹部が痛む。
もしかしたら肋骨の数本くらいは折れているかもしれない。
「か、かり……ん……」
それでも僕は、彼女の名を呼んだ。
腹の底からこみ上げてくる鉄の味を無理矢理に飲み込んで、絶え絶えの声で呼びかけた。
「だめ、だよ……こんなのは、違う。間違ってる……」
「……間違ってない。私は私の。信じる道を行く。大和は大和の。信じる道を行けばいい」
俯き加減に告げられる言葉は冷たく、体温をすでになくしていた。
「……私にはもう。これしかないの。これしか残されていないの。あの頃を取り戻す。たった一つの方法。それがたとえ。間違った道だったとしても。そのためなら私は。どんな罪だって。背負っていける」
「……嘘、だろ?」
「……違う。嘘なんかじゃない」
「……いや、やっぱりそれは嘘だよ」
「……嘘じゃない」
「どうして、嘘をつくの?」
「……っ、嘘なんかじゃないっ!」
かりんは叫び、その手に今まで以上の大きな力を集束させ、迷うことなく叩きつけるように打ち出した。
直径三メートルにも及ぼうかというエネルギーの塊。
今から反応しても、きっと回避は間に合わないだろう。
けど、それでいい。
直後に、先ほどとは比べ物にならないほどの威力の一撃が僕の体を吹き飛ばした。
「っ……!」
もはや悲鳴は声にすらなろうとしない。
叫ぶ方が逆に体に障りそうだ。
吹き飛ばされ、地面に叩きつけられ、何度も転がり、引きずられるようにして止まる。
「……う、あ……」
呻くのがやっとだった。
防御の上からでこれだけのダメージを受けるということは、無防備な状態で喰らえば冗談ではなく死んでしまうかもしれないだろう。
「っ、う……」
それでも僕は立ち上がる。
全身に残るのはすでに痛み以外の感覚では何もなく、痛みさえもしだいに麻痺していくようだ。
棒のようになった両足を引きずって、前に進む。
ズルズル、ズルズルと。
たった数メートルの距離を戻るのに、一体どれだけの時間がかかるのだろう。
ようやく元の位置に戻り、僕は荒い呼吸の合間にかりんを見る。
その表情は、俯かれたまま隠れていた。
「……嘘、なんだろ?」
僕はもう一度繰り返す。
その言葉が合図になり、今と全く同じ巨大な一撃が再び繰り出された。
そして直撃。
僕の体はまたもや後方へと吹き飛ばされ、叩きつけられ、転がり、引きずられる。
「……っ、が、あ……」
痛みに痛みを上書きしても、やはり痛みは消えないらしい。
呻きながら立ち上がる。
立ち上がったまではいいが、すでに体はバランスを保つことさえも怪しくなっていた。
両足はどちらも膝が笑い、杖の一つでもなければ動けないくらいだ。
「ご、ほっ……」
せきこみ、口の中から生暖かい液体が吐き出された。
胃液なのか唾液なのかさえも分からないそれは、真っ赤に染まりかえっていた。
口の端から伝う血を、袖口で拭い取る。
そのときになって気付いた。
左腕の感覚がない。
痛みで痺れているかとも思ったが、どうやらそうではないらしい。
指先を動かそうとして走った痛みで、ようやく骨折していることに気付かされた。
左腕はもう、使い物になりそうもない。
「ぐ……」
一歩、前へ。
体の一部かどうかさえ怪しい足を動かして、引きずって、前へ。
一歩歩くたびに、体は確実に限界を乗り越えようとしていた。
筋肉が悲鳴をあげ、骨は軋み、血管はもはやズタズタに引き裂かれている。
視界が赤く染まる。
切れた額から垂れた血が、目の中に入ろうとしていた。
それを右手で乱暴に拭い取る。
そしてまた、元の位置に立つ。
「はぁ、はぁ……」
呼吸を繰り返すだけで、肋骨のあたりに鈍い痛みが連続した。
やはり骨折か、あるいはヒビでも入っているのかもしれない。
けど、こんな痛みなんかに構っていられない。
いくらでもがまんできる。
腕も足も、まだ動くだろう。
何かを伝えるための手段は、口が動けばそれでいい。
だったら、まだ動くさ。
本当に……本当に痛くて仕方がなくて、一番その痛みに苦しみながら耐えているのは、僕なんかじゃない。
それは、今目の前にいて俯いたままでいる……。
「……もう……いいでしょう? 立ち上がらないで……」
絞り出したような声で、かりんは言った。
「……だったら、簡単じゃ……ないか」
その言葉に、僕は答えた。
「最初にかりんが、言ったことじゃないか。僕を……殺せばいい。死人はもう、立ち上がることはおろか、喋ることもできないんだからさ
……」
「……っ」
「……どうしたんだよ? 今のかりんになら、何も難しいことじゃないよ。僕は今、立っているのがやっとなんだから。もう一度、ありったけの力を僕に……ぶつけてみなよ」
「……」
「……できないの? それとも、本当は……したくないんじゃないの? 自分に、嘘をついているから」
「……っ、違うっ! 私は間違ってないっ!」
かりんのその手に、今まで以上の力が集まり始める。
光の球が膨らみ、巨大化していく。
その大きさは、もはや避けることがどうとかのそういうレベルの話ではなく。
何もかもを呑み込んで、消し去ってしまえるほどの規模だった。
「わああああっ!」
かりんは叫んだ。
そして、解き放つ。
ありったけの力を込めた、その一撃を。
光が近づいてくる。
全てを呑み込み、全てを消し去る悲しい光。
けれど、そんなものは、もう……いらない。
「……どうして、君はっ!」
叫び、僕は右腕を大きく横に払った。
たった、それだけで……。
「あ……」
光の球は、跡形もなく消え去ってしまった。
風は全てを引き裂いて、無に還す。
ただ一つ、そこに残されたのは。
――ずっと言いたくて、だけど言えないでいた、偽りのない言葉だけ。
「どうしてっ……言えないんだ……っ!」
「う、う……」
「たった一言じゃないかっ! そうだろ?」
「……っ」
「――どうして一言、『助けてくれ』って言えないんだよ!」
「……違う。違う……」
かりんは首を小さく横に振る。
そして、その膝がガクンと折れた。
クロウサを腕の中に抱きかかえたまま、地面にへたり込む。
「……じゃない。そんなんじゃ……ない……」
「……だったら、どうして」
僕は歩を進め、かりんの目の前に同じように膝を折り、同じ目線の高さで言った。
「――どうして、泣いてるのさ……」
「……う、うっ……うわあああああ…………」
かりんは堰を切ったように泣き出した。
その小さな手が。
小刻みに震えながら、僕の上着の裾を強く強く握り締めていた。
僕はそっと、かりんの頭を抱えて胸に寄せた。
「ありがとう、ヤマト」
「クロウサ?」
「これでようやく、かりんは救われた気がするんだ。かりんに代わって礼を言わせてくれ」
「……そっか。なら、よかったよ。じゃあもう、戦う必要もないんだね?」
「ああ。もうそんな必要はない。オイラ達の、負けだ」
そう言ったクロウサは、何となく……何となくどこか、満足そうに微笑んでいた気がした。
……よかった。
これで、約束はどうにか、果たせたみたいだ。