Episode119:決別
「……そこをどいて」
「どこへ行くんだい? 君が望んだ場所は、もうこちら側ではないだろう?」
「……いいからどいて」
「……彼らが心配かい? それだったら、ひとまず安心していいよ。誰も彼も、まだ生きているみたいだからね。もちろん、君が心配している風の能力の彼もね」
「……どうして?」
「何がだい?」
「……どうして。皆を戦わせたの? あなたの力なら。ここへ来させなくすることくらい。簡単だったはず」
「出る杭は打つ。が、出そうな杭も打つのが僕のやり方でね。分かりやすく言えば、念には念をということだよ。それがどうしたっていうんだい?」
「……だからって。こんなの……私は望んでない。こんなことがしたくて。私はあなたに。力を貸すんじゃない」
細く小さな声で、かりんは叫んだ。
「……それはすまなかった。実を言うと、僕も内心では結構焦っていたんだ。このままじゃ大事な計画が狂ってしまうんじゃないかと、不安だったんだ。ここまできてずべてが水の泡に帰すのはごめんだからね」
「……」
「大丈夫、君の言葉は覚えている。無関係な人もそうでない人も、この世界にいる全ての人々の再生。そうだったね?」
聞かれ、かりんは無言のままで頷いた。
「その願いも、もうじき実現する。ここまできたんだ、もう誰にも邪魔はさせやしない。だからかりん、君には悪いけど、もしもこれ以上邪魔立てをするやつがこの場所までやってきたら、僕は排除に手段を選ばないと思ってくれ」
「……っ」
「分かってほしい。これは君のためでもあるんだ。その理由はもう、言わなくても分かるだろう?」
「……それは……」
わずかにかりんは戸惑った。
頭の中では、理屈としては理解はとっくにできていることだった。
ただ、いざとなると心がそれを拒絶し始める。
結局のところ、これはスケールの大きすぎるわがままなのだ。
あまりに規模が大きすぎて、端から聞いてもピンとこないだけで。
しかしその内容は、世界を造りかえること。
そのためにはまず、全てをゼロに戻さなくてはならない。
それが、虚無への回帰。
この世界は、このたった一本の大樹によって支えられ、成り立っている。
始まりの種が撒かれて幾千年。
無限に思える時の流れを経て、世界は今の形を作り上げた。
滅びと再生を繰り返し、弱肉強食の理を受け継ぎ、やがて辿り着いた現在。
それは確かに、これ以上手を付け加えなくてもいい、一つの完成された世界だった。
だが、かりんにとってこの世界はもう、どうでもいい抜け殻でしかなかった。
大切な人がいない。
大好きな人がいない。
たったそれだけで、かりんの世界は崩れ落ちた。
だからもう、こんな世界に何の未練もないし、執着もない。
……いや、なかった。
少なくともあの日まで……一人の少年と出会った、あの日までは。
「……やま、と……」
かりんは呟く。
自分の中にある何かを変えてくれるきっかけをくれた、少年の名を。
今はもういない、大好きだった兄とよく似た優しさと温もり。
暗闇だらけだった世界に、一筋の光がさした。
けれど、それは。
望んではいけない……起こってはいけない出会いだったと知り。
かりんの中で、葛藤が始まることになる。
こんな世界はもういらないと。
壊れてしまえと空に願って。
けれど、いらないはずの世界には。
懐かしく、そして暖かい面影が残っていて。
ただ、理由はなく。
そう、単純に。
似ているという、それだけのことが。
かりんの心に、ブレーキを踏ませていた。
「……私、は……私は…………」
「……かりん、せめて最後くらいは、君がその手で決別をするんだ。望み願うことはいくつあってもいいけれど、叶えるものは一つに絞らなくてはいけない。これが、僕にできる最大の譲歩だ……」
言って、それは身を翻す。
「彼が近づいてきている。きっと、彼は君を止めるだろう。救おうとするだろう。それに対してどうするかは、君次第だ」
「……っ」
「……種の元で待っているよ」
それだけ言い残して、それは静かに歩き去っていく。
無音の足音と、ひきずるような闇の呻き。
笑いもせず、泣きもせず、種の元へと立ち去った。
「……私は……私は。どうすれば……いいの……?」
「かりん……」
クロウサを抱く腕に、わずかに力がこもった。
選択肢がある。
どちらかを選ばなくてはいけない。
けれど、どちらを選んだとしても、それはかりんにとって不幸な結末を招くことにしかならない。
例え、生まれ変わる命だとしても。
奪いたくない。
傷付けたくない。
戦いたくない。
その人とだけは……。
「……」
だが、それでも。
選ばなくてはいけない。
選んだら、進まなくてはいけない。
道とは、そういうものなのだから……。
「は、はぁ……はっ……」
息が苦しい。
もうずいぶんと走り続けているというのに、根の道は終わることを知らないほどに伸び続けている。
すでに上下左右の感覚すらなくなり、僕はひたすら前に走るだけの事を繰り返していた。
「くそっ、急がないと、いけないのに……!」
次第に心は焦りを見せてくる。
焦りはやがて苛立ちに変わり、思考能力は著しく低下していく。
「どこまで、続いてるんだ……」
さすがに疲労が伴って、僕は一度その足を止めた。
いけどもいけども、道の果ては姿を現さない。
他の皆はどうしているだろうか。
無事に最深部へ辿り着いていてくれるといいのだが……。
「……やっぱり、この道も間違ってるのか? そうすると、他に正しい道があるってことになるけど……」
そう思って周辺を見回しても、暗闇が佇むだけで何もありはしない。
いっそのこと、この闇の中へ飛び込んでしまえば辿り着けるだろうか?
などと、バカな考えすら浮かび始める始末だ。
とはいえ、本当にどうしたらいいのだろうか……。
「……え?」
ふと聞こえたそれは、僕の聞き間違いだったのだろうか?
それは、音だった。
歌でもなければ曲でもなく、楽器の単音が響いたようなものだった。
「何だ、この音……」
何かに引き付けられるように、僕は再び前に足を踏み出す。
少し歩くと、また同じような音が聞こえた。
さっきのに比べると、わずかだが音程が上がっている気がする。
その音に誘われてみる。
ひたすら追いかけて、根の道を往く。
前へ進むたびに、音はだんだんと単音ではなくなり連なり始めた。
単なる音と音の組み合わせが、しだいにに重なり、響き合い、メロディへと変わっていく。
それはまるで、呼び声のようなメロディだった。
こっちへおいでと、見えない誰かに手招きされているかのよう。
不思議とそのメロディは心に溶け、安らぐような気持ちを思い出させてくれる。
聞いたことはないはずなのに、どこか懐かしいと思ってしまうような、そんな不思議なメロディだ。
「……あ、れ? ここは……」
そそてふと気が付くと、僕はいつの間にか開けた場所にいた。
慌てて後ろを振り返ると、あれほど長く続いていたはずの根の道は、今は忽然とその姿を消していた。
「どうなって……」
そうは思ったが、ともあれ、ここが最深部なのだろうか?
辺りを見回すが、そこに人影は浮かばず、静寂だけが僕を待ち構えていた。
そんな薄暗い闇の向こう。
「……まだ、聞こえる」
先ほどから続く優しいメロディは、僕を誘うように流れ続けていた。
僕はその方向に向けて歩き出す。
一歩近づくたびに、メロディがよりはっきりと聞こえてくる。
音源は近い。
そのまま数十メートルほど進んで、途端にある場所を境にして薄暗さがなくなった。
太陽もないのに、まるで真昼のように明るい。
根の地面を見れば、自分の影が背中にくっついてきていた。
「ここは、一体……」
僕は呟いた。
すると、その拍子に今まで流れ続けていたメロディがプツリと途切れる。
同時に僕は正面を向き直った。
そして、そこに。
「……か、りん……?」
「……」
少女は一人、佇むようにその場所に立っていた。
全身を黒いゴスロリの衣装の包んだ、あたかも人形のような背格好。
その腕の中には、耳が白で目が赤く、他が全部真っ黒に包まれたウサギのぬいぐるみを抱きかかえている。
かりんは静かに、その顔を上げた。
「かりん……かりんなのか?」
僕は思わず声に出し、確かめるようにその名前を呟いた。
「かり……」
僕が三度その名を呼び、一歩踏み出そうとしたその瞬間。
「動かないで」
世界が凍りつくような冷たい声が、凛と響き渡った。
「……かりん? どうしたんだよ。僕だよ、大和……」
「分かってる。そんなことは。分かってる」
「……かりん?」
僕の声は掠れていた。
のどの奥が乾きすぎて、続く言葉が声になってくれない。
そんな僕に、かりんの言葉がさらに突き刺さる。
「大和。私と戦って」
「な……」
「あなた達が。この世界を。救おうというのなら。私とあなたは。やはり相容れることはできない。どちらかが倒れるしか。その先に道は開かれない。だから。今ここで。命をかけて。私と戦って」
「……何、言ってるんだ? おかしいよ……どうしちゃったんだよかりん! あんなに……あんなに戦いたくないって、そう言ってたじゃないか!」
「……」
「どうしたんだよ? 何があったんだよ? 教えてくれよ、僕に!」
「……ごめんなさい」
と、そう一言、低くかりんは呟いて。
「――……大和。私はあなたを……殺す」
決別の言葉を、絞り出した。