Episode114:霧の中
鮮血が舞った。
氷雨のように降り注ぐ赤い雫は、ヒタヒタという音を立てながら地に落ちる。
やがて、一つの音が崩れた。
膝が折れ、屈する音。
「……が……」
そんな苦痛の色に閉まった声を吐き出して、跪いたのは。
「ふー、危ねぇ危ねぇ……」
赤穂ではなく、氷室だった。
見ると、赤穂の二の腕の辺りからはわずかながらの出血が見られる。
しかし、確実に狙い済ましたはずの肩口の部分には、傷一つつけられていなかった。
足元を釘付けにした氷も、今は溶かされて水溜りへと戻り、それどころか赤穂の周囲から立ち上る膨大な熱量によって蒸発させられてしまっていた。
「な、にが……」
くぐもった声を絞り出し、氷室は向き直る。
「が、ごほっ……」
せきこむと、口の中から鉄の味の赤い液体がむせ返るように広がった。
吐き出した唾の色は、真っ赤に染まりかえっている。
ズキンズキンと、強烈な痛みが全身に響いていた。
押さえた脇腹の辺りからは、おびただしい量の出血が続いている。
紛れもなく、赤穂の鎌によってつけられた傷痕だった。
「ぐ……」
立ち上がることすら満足にできない。
力を入れるだけで、その拍子に体中の血液が傷口から抜け出していってしまいそうだ。
「無様だな、おい」
そんな姿勢の氷室を嘲笑うように、赤穂は一歩近づく。
「何が起きたか分かんねぇって感じだな? 確実に俺を貫いたはずのお前の槍は、かすり傷程度に終わり、なぜか逆に俺の鎌が、お前の体に致命傷を与えている」
「……っ」
「別に難しいことじゃないだろ? ようするに、お前は俺より弱かった。そして、今から俺に殺される。そんだけのことだろうが」
言って、赤穂は高々と大鎌を振りかざす。
「最後は死神気取りで、その首はね飛ばしてやる。避けれるもんなら避けてみろ」
そして、ふりかぶった大鎌を振り下ろす。
「おらぁっ!」
「ぐっ……」
向かい来る一撃。
もはやこの体では、どこに受けても死は免れない。
痛む体にムチ打って、氷室は崩れたままの姿勢で全力で後ろへ飛び退いた。
首を切り落とす軌道で放たれた一撃を、すえすれのところで回避する。
刈り取られた前髪が数本、宙を舞った。
「何だ、まだ動けるのか。けど、その傷でいつまでもつかな?」
赤穂は詰め寄ってくるが、その足は走ったりすることはしない。
一歩一歩歩いて近づき、じわじわといたぶって死に至らしめるその過程を楽しんでいる。
一撃を回避したとはいえ、刻一刻と氷室には死が迫る。
出血量が多い。
おそらく、常人ならとっくに意識を失っているだろう。
動いても動かなくても、血は流れ出し続ける。
すでに目は霞み始め、体のあちこちから感覚がなくなりつつあった。
「……まずい、ですね……このままじゃ本当に、こんなのと心中する羽目に、なりそうです……」
この状態からの形勢逆転は望めない。
仮にできたとしても、一か八かで刺し違えるのが限界だろうと氷室は考える。
「……考えてる余裕は、なさそうですね。一か八かの賭けなんて、何年ぶりでしょうかね……」
呟き、小さく笑った。
笑えない状況に立つと、人は笑いを堪えられなくなるというのはどうやら本当のようだ。
「っ、ぐ、あ……」
槍を支えに、氷室はその体を強引に立ち上がらせた。
「お?」
その動きに、歩み寄っていた赤穂も一度動きを止める。
「何だよ、まだやんのか? いい加減に面倒臭いから、大人しく跪けよ」
「……一部だけ、同感ですね」
「あ?」
「……私もいい加減、疲れました。あなたとの会話は、それだけでストレスになる。もういいですから、それ以上喋らないでもらえますか? 空気が汚れる」
「……何だと?」
「聞こえませんでしたか? 空気が汚れるから、黙っていろと言ったんです」
「……殺す」
「三度言わせるな。無能が」
その言葉が合図となり、赤穂は突進した。
ただ本能のままに、目の前の敵を切り刻み、跡形もなく焼き尽くしてしまいたいがために。
かたや、迎え撃つはずの氷室は。
「…………」
この局面で、唯一の武器である三又の槍をその手から消し去った。
これでもう、身を守る盾となるものは何一つない。
何もしなければ、このまま四肢をバラバラに引き裂かれて死ぬだけである。
「けっ、何だかんだで結局諦めてんじゃねぇか。ジッとしてろや。痛みを感じる間もなく消し炭にしてやる」
「…………ない」
「何をブツブツと……」
構わずに切りかかろうとした赤穂の目に、しかし妙なものが映った。
「な、んだ?」
それは、いつの間にか周囲を覆いつくすほどに立ち上った白い霧だった。
いや、それは正確には霧ではない。
これは……。
「水蒸気か? ヤロウの消した武器に注がれて多分の水が、俺の炎に反応して気化してやがる……」
「…………は、ない」
「何を言って」
瞬間、赤穂の背中に寒気が走った。
目の前にいたのは、あまりにも冷酷で冷たい、そんな目の色をした男だった。
目が合っただけで足が竦みそうになるほどの圧力。
恐怖とは似て非なる何かに、わずかに足が鈍った。
そして、その口からは冷たい言葉が囁かれていた。
さっきから何度も、何度も、何度も。
ただ、こう一言。
「――四度目は、ない」
ゾクリと、凍てつくような寒さが赤穂の全身に走った。
が、時はすでに遅い。
全ての準備は整っていた。
「コイツ、まさか……」
気付いたとき、赤穂はすでに手遅れだと悟った。
氷室は本気で、死なばもろともの覚悟でこんなことを実行していたのだから。
氷室の武器である槍を構成する物質は、基本的に水である。
が、それは全体が水から成り立っているわけではない。
特に先端部の切っ先には、水ではなく液体酸素を固体にしたものを使用している。
液体酸素の凝固点は、マイナス二百度を越える。
武器である槍を消し去ったとき、氷室はこの液体酸素部分を周囲にばら撒いた。
液体酸素は本来、マイナス百八十度付近で沸点を迎えてしまうが、氷室はこれをコントロールして制御し、水と同様に扱った。
結果、液体のまま散らばった液体酸素は、赤穂の炎に反応して一斉に沸騰する。
さて。
水が高温の物質と接触した場合、気化が一気に引き起こるため、ある現象が起こる。
それは、マグマの熱によって地下水が水蒸気となり、蓄えられたエネルギーが一気に流れ出して火山が噴火することに等しい。
その現象とは、即ち。
「水蒸気、爆発……!」
言葉にしたときには、全てが終わる頃だった。
何の予備動作もなく、大爆発が引き起こされた。
擬音として形容すら難しいその爆音は、赤穂も氷室もまとめて呑み込み、この大樹の内部にさえ轟くほどの振動を引き起こした。
爆音の残響が遠ざかっていく中、その場には間欠泉が吹き上がったような蒸気の名残が蔓延していた。
爆発によって氷室の体も大きく吹き飛ばされ、樹の壁に体を強く打ち付けていた。
「……う」
うめくことが精一杯だった。
とても、赤穂の生死を確認するために動き回る余力などは残っていない。
もはや生きていることが奇跡に等しい。
「……さす、がに……体が言うことを、聞き、ませんね……」
樹の根に背中を預け、座り込むような姿勢で氷室は目を開けた。
視界は蒸気一色に包まれ、数メートル先まで見通すことができない。
どうなったかは分からないが、無事ではすまないだろう。
死んでしまっていてもおかしくないほどの爆発だったのだから。
逆に言えば、そんな爆発に巻き込まれてなおこうしてムダ口を喋るだけの余裕があるということは、よほど悪運が強いのだろうかと、氷室は自嘲気味に笑う。
「……今回ばかりは、参り、ましたね……せめて、この傷がなければ……もう少し、どうにか……」
視界が霞む。
無駄口もここまでか。
「……皆、どうか……無事、で…………」
視界が暗転した。
白い霧に包まれながら、氷室は静かに意識を失った。
仲間の身を案じながら、静かに、静かに……。