Episode112:同一
足元がふらつく。
力を使いすぎ、さらには出血も後押しして、体力はもう限界に達しようとしていた。
「……っと」
よろめきながらも、飛鳥はどうにか自力で立ち上がった。
体全体が疲労の塊に押し潰されそうで、少しでも気を抜けば倒れてしまいそう。
「…………」
それらを何とか堪えて、飛鳥はそう遠くない距離に横たわる蓮華の姿を見た。
だらりと投げ出されたその体は、ピクリとも動く様子を見せない。
それもそのはずだ。
全力を込めて放った最後の一矢は、間違いなく蓮華の体を貫いた。
死に至ることはないとしても、しばらくの間は全身が麻痺したように動かせないはずだ。
あの一瞬で、力の加減を考える余裕などは一切なかった。
ただ全力で、渾身の一撃を放った。
だからもしかしたら、本当に蓮華は死んでしまっているかもしれない。
よろよろと足を引きずりながら、飛鳥は前に歩き出す。
わずか数メートルほどの距離が、これほど遠く感じるとは思わなかった。
傍らに立ち、横たわったままの蓮華の顔を見下ろした。
不幸中の幸いだったのか、蓮華の目はうっすらとだが開いていた。
どうやら生きているようだ。
「……平気?」
と、飛鳥はそんな声をかけた。
「……自分でやっておいて、何だその言葉は……」
細く小さな声ではあったが、蓮華は言い返した。
「それは、そうだけどさ……」
そう言い返されると、飛鳥としてももう返す言葉がない。
「……ふん、つくづくお前は甘いやつだ。そんなことでこの世界の消滅を防ぐなど、できるわけがない」
「……そう、かもね……」
「……おかしなヤツだな。皮肉のつもりで言ったんだがな」
「…………」
そうは言うが、不思議と蓮華の表情は自然なものだった。
嘲笑うわけでもなく、かといって優しく微笑むようなものでもない。
けど、逆にそれがこの場には似合わないくらいに不釣合いで。
反面、ありのままをさらけ出しているようで。
「っ……!」
体を起こそうとした蓮華が、その表情に苦痛の色を見せた。
「無理して動かない方がいいよ。とてもじゃないけど、動ける状態じゃないでしょ」
「……悔しいが、その通りだな。全身が麻痺している上に、指一本でも動かせば電流が流れるような鋭い痛みが走る。これではもう、戦えないだろうな……」
「……っ」
「お前の勝ちだ。殺すなら殺せ」
「え……」
「何を……迷うことがある? 勝者が敗者の命を奪うことは、もはや鉄則だ。そうするだけの権利が、勝者にはある」
「だからって……」
「……つくづく甘いヤツだな、お前は。ここで私を殺しておかなければ、どうなるか分からんぞ? 寝首をかかれることになるかもしれない」
「……そう、かもしれない……けど、だけど……」
迷いを見せる飛鳥に対し、蓮華は一つ嘆息する。
「分からないな」
「え?」
「全くもって理解できない。戦うということは、相手の命を奪う覚悟があるということ。どの世界でも同じだ。敗者には生きる価値などない。自然界を見てみろ。動物達は本能に忠実に、弱肉強食の理に従って生きているだろう」
確かに、蓮華のその言葉は正しい。
動物に限らず、人間だって歴史を振り返れば、生き残ってきたのは常にその時代で力を手にしていたものばかりだ。
「勝者が敗者のことを考えるな。勝ったのなら、顔を上げろ。前を向け。歩き続けろ。終わったことを振り返るな」
「…………」
「敗者への情け? 哀れみ? 自分の中ではそれが優しさのつもりなのだろうがな、そんなものは全部偽りのものだ。勝者は常に前だけを向いていればいいんだ。身勝手な優しさで他人を救えると思うな。そんなものは求めていない、頼んじゃいない。迷惑にしかならない」
蓮華ははっきりとそう言い切った。
負ければそこで終わりなのだと。
全てを失うのだと。
意思も、命も、何もかも。
けれど、それでも飛鳥は。
間違っていないはずの言葉を聞きながらも、その全てを聞き入れることはできなかった。
「――……そう。要するにアンタは、そういうのを言い訳にして、ずっと逃げ続けてきたってことね」
「……何、だと?」
「私にはそうとしか聞こえない。並べ立てているのは全部正論に聞こえるけど、ようはそれって、ただの逃げ口上じゃないの?」
「ふざけ……」
「言い切れる?」
その言葉に、蓮華は言葉を失った。
「本当にそうじゃないって、言い切れるの? 自分は一度たりとも逃げていない、目を背けていないって言い切れるの?」
「……っ」
「……少なくとも、私はそうじゃない。嫌なことは嫌だし、どう説得されたって受け入れられないものがある。それが世の中ってものだと思うから」
静かに、独り言のように飛鳥は言う。
「けど、それのどこがいけないの?」
「……何?」
「逃げることのどこがいけないの? 目を背けることのどこがいけないの? そんなの、誰にだって当たり前にあることじゃない。後悔したり迷ったり、悩んだり思いつめたり、そんなの全然おかしくない。普通のことじゃない」
「違う!」
蓮華は叫んだ。
痺れた体の代わりに、口だけを必死に動かして。
「普通だと? 当たり前だと? お前や一般の価値観だけで全てを語るんじゃない! そんな普通や当たり前さえも許されない環境というものが、世界にはいくらだって存在するんだ。理不尽で、思い通りになることなんて一つもなくて、ささやかな望みさえ叶わないことなんて、いくらだってあるんだ!」
肩で息をしながら、蓮華は飛鳥を睨み返した。
「何も知らないくせに、全てを知ったような口を利くな! 私とお前は違うんだ。根本的な部分がすでに違うんだ!」
怒鳴り声はむなしく響いた。
もはやその言葉は、飛鳥に対して吐き捨てられているのではなく、どうしようもなくなった感情が一人よがりに暴走しているかのようだった。
だから、言い返さなければよかった。
聞き流してしまえばよかったのだろう。
それでも、飛鳥はやはり、言う。
「――……同じだよ。私もアンタも。一つも違ってなんかいないもの」
「……いい加減にしろっ! お前と私が同じであるはずが」
「同じだよ」
柔らかく、飛鳥は言い切る。
「生い立ちがどうとか、育った環境がどうとか、そんなのは違いには含まれない。全ての人が同じ条件で生まれ、同じ条件で育つなんて、そんなことがそもそもありえない話だもの。そういう言葉を口にした時点で、それはもう言い訳だよ」
「っ……」
蓮華は言い返すことができなかった。
どういう理由だろうと、今の飛鳥の言葉は確かに正しかったから。
「自分を過小評価することも、他人を過大評価することも、それらを比較することも、悪いことじゃないと思う。けど、それを理由にして逃げ出すことはきっと間違ってる」
「……お前に、何が分かる……」
「分からないよ、何も」
「な、に?」
「私はアンタじゃないし、アンタは私じゃない。他人の気持ちを全て分かってあげることなんて、きっと誰にもできない。もっともらしい言葉を選んで、分かってあげるフリをすることは簡単。けど、それじゃ私は逃げたことになる。だから私は、アンタの気持ちなんて分からない。自分に嘘をついてまで、分かったフリなんてしたくないから。そんなことじゃ何も変わらないって、そう思うから」
「…………」
思ったこと、感じたことの全てを、今の自分が言葉にできるもので飛鳥は言い切った。
共感がほしいわけじゃない。
反発が怖いわけじゃない。
ただ、自分に嘘をついてまで自分を成り立たせていたくないだけ。
言い換えてしまえば、それはただのわがままなのかもしれない。
好きなものを好きと言えること。
嫌いなものを嫌いと言えること。
簡単で、実はすごく難しい。
なぜなら人間は、無意識のうちに嘘をつく生き物だから。
「……ふん、話にならんな」
呆れ返り、蓮華は言葉から覇気を失った。
時間の無駄だと、そう言わんばかりに視線を外す。
「……ま、自分でも分かってるんだけどね。ただのわがままなんじゃないかって」
言って、飛鳥は小さく笑った。
「……さっさと行け。油を売っている暇はないのだろう」
「……アンタは、どうするの?」
「……さぁな。なるようにしかならんさ」
「そっか……」
少しだけ残念そうに飛鳥は呟いた。
先へと続く道は、一つしかない。
その道の先は、暗闇に閉ざされていた。
大きく口を開けた怪物が、獲物が来るのをただ待ち構えているように。
「じゃあ、行くよ」
「……ああ、さっさと行ってしまえ」
視線はそらしたまま、蓮華は告げた。
視線を合わせず、飛鳥はもう一度だけ小さく笑った。
痛んだ肩の傷を押さえながら、先へと歩き出す。
やがて、暗闇の中に呑み込まれた。
どこに続くかも分からない道のり。
それでも先があるのなら、進めばいい。
やらなくてはいけないことが、まだあるから。




