Episode111:最後の一矢
「あ……ぐっ……!」
灼熱のような熱さを覚える肩口を触れると、ぬるりという感触があった。
「……っ」
肩から先にはしっかりと腕は繋がっている。
今にも千切れんばかりにというわけではなく、しっかりと固定されていた。
だが。
「……これでもう、右腕は使い物になるまい」
温度のない声が、飛鳥に耳に突き刺さった。
しかし、そんな言葉をいちいち聞き取っていられるほど、受けた傷は浅くはない。
流れ続ける血は二の腕を伝い、まるで螺旋を描くように肘を通過し、手のひらにまとわりつきながら指の間をすり抜け、一つまた一つと赤い雫を落としている。
飛鳥の右肩は、今の一撃によって一直線に貫かれていた。
穴が見えるわけではないが、肩の中を間違いなくあの刃が行き来したのだ。
心臓の鼓動よりも大きな鼓動が、痛みに変わって襲い掛かる。
飛鳥は奥歯を噛み締め、ひたすらに痛みに耐えることしかできなかった。
命に関わる傷ではないことは分かっている。
が、これでは矢を作り出すことはできても、弓を引くことなどできるわけがない。
それはつまり、戦いの中で唯一の武器を封じられたということだ。
そしてそれは、あっさりと死という一つの結果に繋がるだろう。
「……これ、くらい……っ!」
痛みを堪えて言葉を吐き出すが、体は痛みに正直だった。
だらりとぶら下がるだけに成り果てた右腕は、指先一つを動かすだけで傷口に激痛を呼び寄せた。
「…………っ!」
その痛みにうっすらと涙さえ浮かびそうになり、こみ上げてくる悲鳴をそれでもどうにか歯を食いしばって押し殺した。
「ここまでだな。早々で悪いが、勝負を終わらせてもらうぞ」
対して、手負いとなった飛鳥を目の前にし、好機とばかりに蓮華は決着を試みる。
血に染まった刃を軽く振り払い、付着した血を周囲に飛び散らせた。
「苦しませずに死なせることはできない、あいにくだがな。これも運命だ、悪く思うなよ」
先ほどまでの斬撃を思わせる構えとは変わり、切っ先は真っ直ぐに飛鳥の胸の中心を狙い定めていた。
心臓を一突きにするつもりだ。
構え、突進しようとする蓮華を目の前にし、しかし飛鳥も何もしないでいることはできない。
「ん?」
蓮華が目を向けると、飛鳥はその左手に一本の矢を作り出していた。
よく見ると、それは矢ではない。
そもそも雷のエネルギーの集合体であるそれに実体など求めるのがおかしいのだが、よく見ればそれは剣の形をしているように見えなくもない。
だが、蓮華の持つ天地と比べれば、見劣りする以前の問題だ。
なまくら刀もいいところ、強度も切れ味も木刀以下のようなお粗末なものだった。
「……まだ、負けたわけじゃ……ない」
飛鳥の呼吸は荒い。
額にはいくつもの汗の玉を浮かべていることからも、傷口が熱を帯びて猛っていることが分かった。
「……そんな武器で、私と戦うつもりか?」
「…………」
飛鳥は答えない。
いや、痛みでそれどころではないというのが本音か。
「大体、私とお前とでは近接戦闘における能力が違いすぎる。そんなことは分かるだろうに、ムダなことを……」
「……っ、ムダかどうか……やってみなくちゃ、分からないじゃない……」
「……愚かな」
それだけ返し、蓮華は静かに目を閉じ、再び開くと同時に勢いよく地を蹴り、飛鳥の懐までの距離を瞬時に詰めた。
真っ直ぐに突き出される切っ先。
本来なら左右のどちらかに動けば、回避は比較的簡単にできるはずだった。
だが、今の飛鳥の傷ではそれさえも難しい。
右腕に限らず、体のどこを動かしても傷口に痛みが響く。
もはや空気に触れるだけで、むき出しの神経が切り裂かれているかのように。
「ぐっ……」
それでもどうにか、痛みを食いしばって体を横に逸らす。
間一髪のところで切っ先から逃れることはできたが、蓮華の攻撃の手がそこで終わるわけがない。
「はっ!」
すぐさま切り返し、再び心臓に狙い定めて突進する。
一方飛鳥は、一撃目を回避できたとはいえ、体勢が悪い。
この二撃目を同様に回避することは、もはや不可能だと本能的に理解した。
「こ、のっ……」
それはもはや苦し紛れだった。
出来損ないの雷の剣をの切っ先を、向かってくる刃の切っ先に向けて勢いよく真逆からぶつけ合った。
ギィンと、まるで真剣同士が打ち合ったときのような音が響き渡る。
「うあっ……」
しかし、力では明らかに押し負けているため、その剣は簡単に手の中から弾き飛ばされ、落下するよりも早く消え失せてしまう。
「く、そ……」
すぐさま同じものを左手の中で生み出し、手に握る。
今の二撃目を弾けたおかげで、蓮華もすぐさま追い討ちを続けることはできなかったようだ。
不幸中の幸いではあったが、そんなことが何度も続くわけもないだろう。
どの道このままでは推し負ける結末が目に見えているのは明白だった。
「っ、あざとい真似を……」
舌打ちし、蓮華はすぐさま剣を構えなおした。
やはり近接戦闘における経験と、単純な力の差が大きすぎる。
加えて言うならば、飛鳥は傷による出血で、体力の消耗が万全の状態に比べて著しく激しい状態にある。
出血は今もまだ止まらず、飛鳥の右腕はいつの間にか、血に染まっていない部分の方が少なくなっているほどだ。
「は、ぁ……っ、はぁ……」
消耗が激しすぎる。
傷自体は致命傷ではないが、出血の量がそろそろ心配になってくる頃だ。
このままの状態で動き続ければ、長く続かないうちに貧血で倒れてしまうだろう。
そうなる前にどうにか勝負を決めたいところではあるが、唯一の武器であった弓矢が封じられてしまった今、勝ちの芽は途方もなく小さいか、あるいはゼロかのどちらかだ。
左手の剣を握り締めるが、その腕にももはや力がほとんど入らなかった。
先ほどの激突で、腕全体が痺れてしまっている。
つまり、もはや両腕ともまともな状態ではないということ。
ただでさえ勝算が薄い状況に拍車をかけて、もはやこの場を乗り切ることさえも無理に思えてくる。
だがそれでも、負けるわけにはいかない。
成すべきことがあるから、こんなところで立ち止まるわけにはいかない。
その想いだけが、今の飛鳥の体をギリギリのところで動かしていた。
「……負け、られない……止めなきゃ、止めなきゃいけないんだ、私達が……」
「……理解できないな。なぜそこまでしてこんな世界に執着する?」
「……逆に、聞きたいくらいよ。どうしてそこまでして、今の世界を消滅させてしまいたいわけ?」
「…………」
「……言えないの? それとも、言葉にするのもバカらしいくらいの、くだらない理由ってわけ?」
「……お前には分かるまい」
「……分かりたくなんか、ないわよ……」
沈黙が降りた。
互いの胸の内を知ることもなく、理由らしい理由も見つからないままに、こうしてぶつかっている今。
分かっていることは一つ。
どちらにも譲れない何かがあって、そのために自分を犠牲にすることもいとわないという、ただそれだけのこと。
けど、二人は決定的に違う。
目的のためなら手段を選ばない者と、その過程にある犠牲を省みることができる者。
限りなく近い実像と虚像。
揺らめいたのは炎か、それとも想いか。
「……お喋りはここまでだ」
声の温度がさらに低下した。
正真正銘、殺すつもりで蓮華は向かってくるだろう。
対して、飛鳥もこの場を何とか切り抜けなくてはいけない。
が、見ての通り状況は圧倒的に不利。
一か八かの策の一つも浮かんでやこない。
「っ、せめて、せめて両腕が使えれば……矢を引くことができれば……」
痛みに耐えて、仮のこの両腕で弓矢を生み出して構えたとしても、恐らく狙いはまともに定まらないだろう。
それでは意味がない。
とにもかくにも、射った矢が標的を貫かなくては、勝ったことにはならないのだから。
どうすればいい。
焦りばかりがこみ上げて、思考もまともに働かない。
絶望的な状況を目前に控え、何をどうするべきかが分からない。
……やはり無理なのか。
もしもこの状況を打開する一撃を見舞うことができるとしても、そのためにはまず矢を射るための弓が、そしてその弓を支える両腕の代わりとなるものが必要なわけであって……。
「……腕の、代わり……? そう、だ、これなら……っ」
何とかなるかもしれない。
もはやためらう時間はなかった。
賭けるしかない。
咄嗟に浮かんだ、この発想に。
「……行くぞ」
と、ちょうど合図のように蓮華は静かに告げた。
構えられた切っ先は、三度変わらずに飛鳥の心臓を狙い定めている。
そして、動いた。
音はない。
ただ真っ直ぐに、最短距離を問答無用で駆け抜けるだけの突進。
その最前線に、不気味に輝く切っ先が迫っていた。
「こ、のっ!」
飛鳥はその突進に向けて、左手の剣を真っ向から投げつける。
蓮華も突進力が強すぎるせいで、これを方向転換によって回避することはできない。
だが、そもそもそんな必要などなかったのだ。
「はっ!」
さらに少し前に、蓮華は切っ先を押し出す。
空気の層を突き破るその加速度により風圧が生じ、それだけで飛鳥が投じた剣は弾かれていってしまう。
「これで終わりだ……」
勝利を確信し、突進力はさらに加速する。
一秒以内に全てが終わるだろう。
あとはただ、真っ直ぐに駆け抜けるだけでいい。
止まったときに、全ては終わっているだろう。
そう。
終わっていなくては、ならない……はずだった。
「な……」
――目の前に飛鳥がいれば、それで終わっていたはずだった。
そこにもう、飛鳥の姿はない。
突進により視野は狭まっているとはいえ、どう見ても前方百八十度の世界の中に飛鳥の姿はなくなっていた。
「どこに……」
言いかけた蓮華は、そこで気付いた。
自分の頭上を、何かが移動していることを。
影に包まれたことで、初めて実感した。
「まさか、上……」
呟き、視線を向けたときには、飛鳥の姿は頭上を超え、後方に向けて落下していくところだった。
「くっ、さっきの剣を弾いた隙に、そんな真似を……」
失態だった。
失態ではあったが、まだいくらでも修正がきく範囲だ。
一度突進を止め、休む間もなく再度後方へと駆ければ、着地後の体勢を立て直す前にしとめることは十分に可能。
勝利は揺るがない……はずだったのだ。
加速を強制的に中断させ、一瞬の停止。
直後に百八十度向きを変え、同等か、あるいはそれ以上の速度で再度突進した。
「もらった!」
と、そう言葉にしたその目の前に。
「っ!」
それは、待ち構えるようにして矢を引いていた。
地面に二本の矢を突き刺して固定し、それに引っ掛けるようにして弓を固定し、さらにその弦には、最初の目くらましも兼ねて投げつけられ、一度は弾かれたあの出来損ないの剣が、めいっぱいに弦を引いて待ち構えていた。
そう。
真っ直ぐに、突進する蓮華の体を迎え撃つようにして。
飛鳥はまだ痺れが抜け切っていない左腕に、それでも渾身の力を込めて矢を引き、歯を食いしばって狙いを定めた。
即席で作った、矢による弓矢。
正真正銘、最後の一矢。
「いっ、けぇぇぇっ!」
極限まで引いた弦から、手を離す。
放たれた一矢は、尾を引くようにして、固定砲台の役目を果たした二本の矢と弓の力まで根こそぎ吸収し、巨大な槍となって飛来した。
――サジタリウス・グングニール。
「う、あああああっ!」
蓮華の叫び声が聞こえた。
ぶつかり合う双極。
押し潰し、貫き通したのは……。
――紛れもなく、青白い閃光を放つ迅雷の槍だった。