Episode106:始祖の足元で
間近で見るそれは、すでに樹というものの大きさをはるかに超越したものだった。
大きさや高さはもちろんのこと、まず感じるのはその正体不明の威圧感。
気圧されるというのはこういうことなのだろうか。
空気の流れではない別の何かが、辺り一面に充満している。
それらはまるで目には見えずにその場でひしめき合い、蠢くように這いずり回っている。
ずるずる、ずるずる。
そんな音が、聴覚を通り越して直接脳の中に響いてくるようだった。
「やぁ、ようこそ」
そんな不穏な空気の中心で、それは囁くようにそう言った。
「どうだい? これを見た感想は?」
言って、天を仰ぎ見る。
どこまでもどこまでも、本当にどこまでも続くかのように見える幹。
どこが頂点なのか、もはや肉眼では絶対に捕らえきることはできないだろう。
その見えない頂点付近からは、傘のように広範囲に枝葉が広げられている。
確かな新緑を思わせるそれらも、これだけ密集していると黒以外の何色にも見えはしない。
「……っ、こんなもの作って、一体どうしようってのよ」
やっとのことで押し出した声で飛鳥が聞く。
「作る? それは誤解だよ。この樹はもうずっと前から、この場所で生を育んでいたのだからね。ただし、あくまでも仮の姿を晒しながらではあったけれど」
「……仮の姿?」
「ところで」
と、それは一度話を区切るように言う。
「どうして君が、生きてこの場に立っているのかな?」
その言葉は間違いなく、僕に向けられたものだった。
「…………」
対して、僕は答えなかった。
それで返答と受け取られたのだろうか、それは大した感慨も見せずに話を戻す。
「……まぁいいか。それよりも、もう少し分かりやすく説明しようか。何も知らずに消えていくのも、それはそれで悲しいだろう?」
その表情が不気味な笑みに変わる。
こちらの返答など待たずして、それは再び語り出した。
「もともと、世界が創られた最初の瞬間には何もなかった。これは当たり前のこと。聖書では、神はまず海と大地を分かち、その上に植物を生んだとされている。けれど、この世界ではそうじゃない。何よりもまず最初に生まれたのは、この樹だ。たった一本の、ね」
言って、それはもう一度天を仰ぐ。
そしていとおしむように樹の幹に触れ、静かに目を閉じた。
「海よりも、空よりも、大地よりも先に、この樹が生まれた。そして、この樹がその後に全てを創り出した。海を、空を、大地を、草を。そして人間も含めた、全ての生物の種子を。それからは何も変わりはしない。時の流れと共に、生物は絶滅と再生を繰り返し、そして今に至る。つまり、だ」
目を開け、再び僕達に向き直って続ける。
「この樹さえ失われれば、今ある世界は簡単に崩すことができる。言ってみれば、この樹そのものが世界を支える根なのだから。けれど、頭で理解できても実行に移すことは非常に困難でね。事実、僕の力をもってしても傷一つつけることは叶わなかった。だが」
幹に触れたその手に、力を込める。
すると、その手はずぶりと音を立てて幹の中へ容易く進入していく。
そしてその部分が、黒ずんで腐敗していく。
黒煙が立ち上り、まるで酸か何かで溶かされているかのようだった。
「僕が力の大半を費やして分割した各種の封印を、君達が開放してくれた。おかげで今のこの樹は、かつてのデタラメな防御力をほとんど失った状態にある。これなら破壊することもそう難しくはないはずだ」
幹の中から手が引き抜かれる。
その手の上から、すでに消し炭のように成り果ててしまったものがぼろぼろと落ちていく。
「改めて礼を言うよ。本当に君達は、僕が思った通りに踊ってくれた。ここまで思い通りにいくとは、正直思っていなかったよ」
見下したような笑み。
手のひらの上で踊らされていたという現実を突きつけられる。
「どうだろう? どうせもうどうにもなりはしないのだから、このまま何せずに傍観してくれないかな? 僕としても、作業に集中したいし、何よりいつまでも相手をしてやるほど暇じゃないんだ」
「…………っ」
「っ、アンタって、やつは……」
「……畜生が」
「代わりと言っては何だけど……そうだね、約束しよう。苦痛なくその命を果てさせると」
その表情が不敵に哂う。
背中にまとわり付く闇も、呼応するようにケタケタと哂う。
そして見せしめのように、素手で幹を切り裂いた。
それが合図になった。
立ち尽くすことに限界を感じた僕達は、一斉に地を蹴った。
各々に、その手にはありったけの力を凝縮している。
手加減とか、相手を思いやるような余裕は微塵も残ってなかった。
目の前にいるそれは、危険だ。
本能がそう告げる。
倒せ。
この場で。
潰せ。
この場で。
殺せ。
この場で。
「消えるのは……っ」
「お前だっ!」
放たれる三種の力。
無数の風は渦となり、雷と連なり、炎をまとって一つの光になって駆け抜ける。
その渾身の一撃は、真っ直ぐにそれ目掛けて飛来する。
回避は不可能。
命中は必死。
ならば答えは必死しかない。
が、それさえも嘲笑うかのように、越えられない壁が全てを妨害する。
何かと何かがぶつかり合う衝撃音。
その音は、どんな擬音でも表現できないような音だった。
白い火花を散らしながら、光は突き進む。
それを阻むのは、目には見えない透明な一枚の壁。
標的であるそれの前に張り巡らされた、たった一枚の壁。
そこに阻まれて、光はもうそれ以上先へと進むことができないでいた。
削りあうような音が響く。
にもかかわらず、見えないその壁にはヒビ一つ入った様子さえない。
「……いけっ!そのまま、突き破れっ!」
真吾が叫ぶ。
だが、その言葉とは裏腹に、光は徐々に削がれ、粒子となって散っていく。
「だったら……」
飛鳥がもう一度、その手に弓矢を構えた。
「もう一発!」
両手に力が凝縮する。
青白い火花をまとって、雷の矢は生み出された。
「これで……」
そして追撃の一撃を引き、今まさに打ち出そうとしたその瞬間。
バチンという音を立てて、一撃目の光が弾けて消えた。
飛び散った粒子は、まるで雪のようにちらちらと宙を舞い、地面に落ちて輝きを失っていく。
残された壁の前、そこには傷一つ残っていない。
無論、壁の向こうにいるそれは無傷のままだ。
「残念だったね。短期間でそこまでの力を使いこなせるようになったことは賞賛に値するけど、その程度じゃ話にならない」
言うと、それは自ら壁を通り抜けて姿を出す。
「っ!」
飛鳥は矢を構えた。
が、その手が小刻みに震えている。
寒さのせいじゃない。
これは……恐怖感だ。
「さて、もういいだろう?」
嘆くようにそれは言う。
飼いならした闇が、歪な形をさらに捻じ曲げながら蠢いた。
その一つ一つが、今間違いなく、牙を持って僕達を見据えて。
「――おやすみ、マリオネット達」
その言葉を受けて、一斉に襲い掛かってきた。
「……う」
氷室が目を覚ますと、そこは屋外だった。
「ここは……」
周囲を見回す。
どうやらここは駅の構内のようで、そこにある長椅子の上に寝かされているらしい。
「……そうだ、大和達は?」
立ち上がり、周囲に目を向ける。
その拍子に、椅子の上に置かれていたであろう携帯が床の上を転がった。
それを拾い上げ、画面を開いた。
するとそこに、メッセージが書かれていた。
樹に向かう、と、一言。
「樹?」
何のことか分からない氷室は、とりあえず外に出る。
直後、理解した。
空一面を多い尽くすほどの黒。
それは夜空ではなく、巨大な枝葉の群れだった。
その足元。
天を貫くように伸びたその樹の、根に当たる部分。
そこから、例えようのない威圧感を感じた。
何もしていないのに押し潰されそうになってしまう。
「そういうことですか……」
携帯を乱暴に仕舞い、氷室は急いで駆け出す。
嫌な予感がする。
というより、嫌な予感しか頭に浮かんでこなかった。
「三人とも、どうか無事でいてくださいよ……!」
振り払えない不安を食いしばることで耐えて、ただ走った。
終わりが始まった、その場所に向けて……。