Episode104:隔離の夜
店内を駆け出す。
しかし、注意を促す店員の声さえ聞こえない。
もっとも、聞こえたところで僕達は全て無視していただろう。
扉を乱暴に押し開ける。
夜の冷えた空気が頬を打った。
「……これは」
言いかけ、氷室は言葉を失った。
「何だよ、これ……」
「気味が悪い……」
真吾、そして飛鳥が口々にそう告げる。
僕はただ息を呑んで、目の前の光景を眺めることが精一杯だった。
行き来する人々。
彼らはしっかりと、自分の足で歩いている。
ただしそれは、歩いているのではなく、歩かされている。
笑っているのではなく、笑わされている。
自らの意思でそうしているのではなく、見えない糸によって操られているだけなのだ。
そこはすでに、現実から隔離されていた。
もしもこの世界に名を与えるのなら、きっと人形の国が相応しい。
メルヘンのような話なんかじゃない。
恐怖と薄気味悪さだけを如実に語る、暗闇の舞台だ。
「……これも全部、アイツの仕業だっていうの?」
「わからねぇ。わからねぇけど、こんな芸当ができるの、他にいるかよ……」
そんな僕達の会話など意にも介さずに、目の前を行き来する人形達はあまりにも無表情。
人形なのだから当然といえば当然なのだが、その反面どこか残る人間じみたその仕草が、逆にいっそうの恐怖を与えてくる。
「周囲を探しましょう。人形といえど、これだけの数の物体を遠隔操作で長時間に渡って動かせるとは思えません。そう遠くない距離に、ヤツは潜んでいるはずです」
「……よし、手分けして探すぞ。見つけたらまず、大声を出せ。一人で挑もうとするなよ」
僕達は同時に頷き、それぞればらばらの方向へと走り出そうとして……。
それを待っていたかのように、僕達以外の時間が音もなく止まった。
「え……?」
「な、何?」
走り出そうとした僕達の足がピタリと止まる。
止まったのはそれだけに留まらず、僕達に視界に入る全ての人形達もまた、ピタリとその動きを止めていた。
「……止まった?」
「…………」
人形たちはピクリとも動かない。
まるで時間の狭間で凍り付いてしまったかのように。
「どうなって……」
そっと僕は、その人形の一つに手を伸ばした。
その指先が、人形に触れるか否かという寸前のところで、今度は人形の体がどろりと溶けた。
「っ!」
思っても見なかったその動作に、僕は反射的に半歩身を引いた。
ゾッとするほどの寒気が背中に走り、冷や汗が湧き出るかのようだった。
粘土細工に水をかけたように、人形はぐにゃりとその形を歪めながら、溶けると崩れるを同時に成していく。
見る見るうちにそれは人の形をしていた原型を跡形もないほどに崩し、最後にはどす黒い水溜りへと変わり果てた。
その崩れ去るまでの動作があまりにも奇怪で、見ているだけで吐き気がこみ上げてきそうになる。
事実、飛鳥はずっと両手で口元を押さえていた。
僕だって、胃の中のものが全部逆流してしまうんじゃないかというくらいの吐き気を必死で堪えている。
とてもじゃないが、こんな光景は瞬きせずに見入ることなどできそうにもない。
そして、それはまだ始まりに過ぎなかった。
僕の目の前で崩れ落ちた人形。
それを皮切りに、周囲にあるいくつもの人形達が今のと全く同じ動作で、歪み、蠢き、崩れ始めた。
一つ、また一つと人形が朽ち果てていく。
もはやその様は、直視できるレベルのものではない。
そうしているうちに、どれだけの時間が過ぎたのだろうか。
長くはないはずだが、すでに精神的な疲労は嫌と言うほどに蓄積している。
あれだけあった人形達は皆、崩れ落ちてどす黒い水溜りになって地面に広がっていた。
そこに、腐敗臭などのような悪臭や異臭は微塵もない。
が、それ以上に僕達が受けたイメージは最悪のものだった。
どれだけ新鮮な空気を吸い込んでも、吐き気が収まろうとしない。
それどころか、呼吸することにさえ抵抗を感じずにはいられないほどだ。
こんなおぞましい光景を見せられたのだから、それも当たり前だろう。
だから僕は、それらから視線を外すように横合いを見た。
そして同時に、それを見つけた。
「氷室、あれ……」
呟き、その方向を指差す。
見ると、僕が指差したその方角には空に向けて真っ直ぐに伸びる一筋の光が射していた。
その発生源……すなわち地上には何があるのか、ここからではまだはっきりとは見えない。
「……なぁ、あれが最後の封印なんじゃないのか?」
真吾が言った。
確かに、場所としてもそれは合っている。
「……行って見ましょう」
氷室の言葉を受け、僕達は光の方に向けて歩き出した。
その歩く道の上にも、先ほどの人形の成れの果てである黒い水溜りがいくつも連なっていた。
しかしこの水溜り、不思議なことに踏み込んでもまるで液体の感覚がない。
踏む地面の硬さを示す感覚は伝わるものの、聞こえるはずの水を跳ねた音さえ耳に届かなかった。
まぁ、そんなことを気にしている暇はない。
光に近づくにつれ、僕達は自然と小走りになっていた。
そして辿り着く。
空目指して立ち上る、一筋の光の元へ。
「思ったとおり、ですね」
結論から言えば、それは間違いなく残された最後の封印だった。
氷室が石碑の前に立つと、何もなかったはずの石碑の表面に赤い記号の羅列が浮かび上がる。
間違いはなかった。
これが最後の……八つ目の、水の封印だ。
「……ねぇ、これってさ……やっぱり、開放しないといけないのかな?」
飛鳥が疑問を口にする。
が、それは飛鳥に限らず僕も真吾も、対象者である氷室も感じていたことだった。
「…………」
氷室はすぐには答えなかった。
「どう、なんだろう……」
「さぁな……」
僕も真吾も、曖昧な言葉しか口にできない。
八つの封印全てを開放しなくては、最後の封印は姿を現さない。
しかし、この封印を解くということは、すなわち彼に分散していた全ての力が舞い戻ることを意味する。
今でさえかけ離れているほどの力の差を、さらに広げることになりかねない。
とはいえ、このまま何もせずに放っておいたところで、それは束の間の時間稼ぎにしかならない。
どちらにせよ、今あるこの世界は消滅に向かう。
遅かれ早かれ、同じ運命を辿ることになってしまう。
「……開放、しましょう」
しばしの思考を終えて、氷室は呟いた。
「どの道、このままじゃ何も変わらないんです。だったら、少しでもこちらの戦力を底上げして、対抗する力を備えるべきです。もっとも、この開放によって向こうも本来の力を取り戻すことにはなりますがね」
「……ああ、俺も賛成だ」
「……そう、だよね。そうでなきゃ、こうしてここに立ってる理由がないもの」
「……大和、いいですか?」
「……うん。大丈夫、きっと何とかなる。そんな気がするんだ」
その言葉を受け、氷室は小さく一つ笑い、石碑の上に手を置いた。
光が淡く、青く変化する。
浮かび上がる赤い記号が、相反した光を放ってさらに浮き彫りになる。
「――我、清涼なる命の流れを司る者なり。さらる力を欲するならば、古の盟約において、我が流れをその身に受け入れよ。さすれば我は、汝が求めるものとなろう……」
氷室の持つ『Ring』が、呼応するように輝きを増す。
空に伸びていた光は、徐々にその輝きと調和し、静かに集束していく。
空に伸びた光が、だんだんと消えていく。
吸い込まれ、渦を巻き、それらの光はしだいに安定した流れとなって一つに混ざり合った。
「……ふぅ」
深呼吸を一つし、氷室は手を離した。
これで無事、八つの封印のその全てが開放されたことになる。
「……っと」
グラリと、氷室の体が傾いた。
「おい、しっかりしろ」
真吾と僕は両方から肩を支え、氷室はどうにか持ちこたえた。
「……どうやら、例の反動がもう始まっているみたいですね。困りましたね、車を運転できるのは私くらいなんですが……」
言葉そのものはまだはっきりとしているが、その表情は苦しそうだ。
僕も飛鳥も一度経験しているからよくわかる。
「とにかく、どこかで休ませないと……」
「そうはいっても、どこでだ? 駅前どころか、この街全体がすでに現実から隔離されてそうだぞ」
「どこでもいいよ、そんなの。ほら、早く早く」
飛鳥に先導され、僕達は一度その場から離れていく。
が、結局行く当てなどあるわけもなく、また先ほどの喫茶店へと戻ってきたのだった。
当たり前だが、店員も他の客も全て人形だったわけで、店内は人影もなくがらんとしている。
それでも氷室を休ませるには十分なスペースは確保できたので、あとはしばらく様子を見るしかない。
僕や飛鳥は半日ほどで意識を取り戻したようだが、氷室の場合もそうなのだろうか?
こればっかりは見てみないと分かりそうにもなかった。
とはいえ、どうしたものだろうか。
今いるこの場所が、現実から隔離された空間であるということは分かる。
となると、現実である世界との時間の流れ方はどうなのだろうか?
同じように並行して進んでいるのか、それとも全く別物なのか。
同じ流れだとすると、少なくとも今夜一晩くらいはこの場所で過ごさなくてはならないことになる。
当然、現実世界でも同じ流れで時間が進めば、何かと問題にもなるだろう。
だが、今はそうも言ってられない。
どういう理由でこんな空間に居合わせたのかは分からないが、そうさせたのは間違いなく彼だ。
だとしたら、それにはきっと何かしらの理由があるはず。
だから、次に何かが起こるのもこっち側でのはず。
今はただ、向こうの出方を覗うしかない。
「僕達も、今のうちに少し休んだ方がいいかもしれない」
「……そうだな。少しでいいから仮眠をしておけ。しばらくは俺が起きててやる」
「いいの? アンタだって、疲れてるんじゃ……」
「そう思うなら、しっかり休んでから交代してくれ。こっちもその方がありがたい」
「分かった。じゃあ、頼んだよ、真吾」
「ああ」
幸い、店の中の暖房はしっかりと効いている。
横に長い椅子をソファ代わりにすれば、足を伸ばして寝ることもできそうだ。
「あ、ちょっと」
と、横になる前に飛鳥が口を開いた。
「寝てることをいいことに、変なことしないでよね」
「……とっとと寝ろ」
呆れ顔の真吾。
僕はわずかに苦笑いしながら、体を横に倒していった。
束の間の休息。
全ての決着をつけるときは、そう遠くない。
そんな気がした。