Episode103:廻る景色
浅い眠りから起こされては、また浅い眠りの中へと戻される。
正直、これではまともな睡眠を取れたとは思えなかった。
が、そんなことを何度も繰り返しているうちに日は昇り、昼が過ぎ、空は夕焼け色に包まれる頃になっていた。
「…………」
ベッドの上で寝返りを打つ。
しっかりと眠っていられた時間は二時間程度だろうか。
最後に起きたときに見た時計の針は、確か午後の三時を示していたと思う。
疲れは……しっかり取れたとは言いがたい。
むしろ逆に、体の奥のほうに別の疲労が蓄積しているんじゃないかと思うくらいだ。
それでも、どうやらこれ以上は眠ることはできそうにもなかった。
僕は体を起こし、わずかに頭を抱える。
何も食べていないのに、不思議と空腹感は感じなかった。
それどころじゃない、とうのが本音なのだが、少しずつ体のあちこちが壊れかけてきているような気もする。
いや、壊れているのは何も肉体的な部分だけではないだろう。
むしろ、精神的な面で限界が近づいてきているのかもしれない。
現実の中で引き起こされた、現実を壊すための戦争。
今となっては、どこからが始まりでどこまでいけば終わりがあるのかすらままならない。
あの日、僕が学校でこの『Ring』を拾ったときが始まりだったのだろうか?
もしもそれがなければ、今の僕はどうなっていたのだろう?
何も知らず普通に生活を続けて、やはりある日突然世界が消えていくのと同じように僕も消えていくのだろうか。
何も知らず、何も知らされず。
聞く暇さえ与えられず、抵抗する時間さえ与えられず。
そう考えると、苦しいことはあっても、今こうして少しでも抗っている自分は幸せなのかもしれない。
こういう立場に置かれたことが、果たして義務なのか。
それとも偶然なのか。
はたまた、運命というヤツなのか。
今となってはどうでもいいことだった。
直面している事実から目を背けることができないのは、きっと僕だけじゃないはずだから。
そっと目を閉じる。
すると、それ合図のように携帯が音を上げた。
氷室からの着信だ。
僕は静かに、通話ボタンを押す。
さぁ。
新しい今夜の始まりだ。
集合場所は駅前にある小さな喫茶店だった。
時刻は間もなく、夜の七時を示そうかという頃。
客足がまばらな店内の隅にある四人がけのテーブルに、僕達は揃って顔を合わせていた。
それぞれに手元には注文した飲み物が置かれてはいるが、ほとんどが手付かずのままで冷めようとしている。
静かに流れるジャズの曲も、今はほとんど耳に入らない状態だった。
「ねぇ、本当にそんなことが起きるの?」
口を開いたのは飛鳥だった。
隣に座る氷室が、視線を移さずに答える。
「絶対という自信はありません。ですが、少なからず何かが起こることは間違いないと思いますよ。そうでもしなければ、こんな人通りに面した賑やかな場所の封印を開放するなど、目立たずに行えるわけがないですからね」
こんな場所というのは、つまり今僕達がいるこの喫茶店とその周辺を含んだ駅前通りのことだ。
残された封印はわずか一ヶ所。
その最後の場所は、ちょうどこの辺りにあることになっている。
「でもさ、やっぱりいくらなんでも無理じゃない? 真夜中とかならまだしも、まだ七時過ぎたばっかりだしさ。人通りだって、あんなにあるじゃない」
ガラス窓越しに、飛鳥は指差して言った。
そしてその通りに、周辺の路上には多くの人々が往来している。
会社帰りのサラリーマンやOLをはじめとして、学生らしい姿も珍しくない。
ごった返しになるほど込み合っているわけではないが、人だかりという表現が適切であるくらいは賑わいが見えている。
確かに、こんな状況で何かしでかそうものなら、誰の目にも不審に映るに違いない。
騒ぎになれば、警察が駆けつける可能性だってある。
「それでもどうにかするのが、アイツだろ」
コーヒーを一口含み、真吾が言う。
「向こうだって、もう手段とかになりふり構ってるほどの余裕がないんだ。多少無茶で強引な手を使ってでも、どうにかしてくるだろ」
「じゃあ、そのどうにかって具体的にはどうなのよ?」
「そんなもん俺が知るかよ。いくら俺とアイツが同一存在だからって、思考や一挙手一投足まで読めるわけじゃないんだよ」
真吾の言い分ももっともだ。
そんなことができるなら、とっくに何らかの手を打つことができていたはずなのだから。
「とにかく」
と、氷室が仕切りなおす意味で口を開く。
「しばらく待ちましょう。ここからなら、駅前の景色が全て見渡せます。何かおかしなことが起きれば、誰かしら気付くことができるでしょう」
「……なんか、嫌な感じ。何かが起こることまで分かってるのに、結局後手に回ってるのは私達ってことでしょ?」
「そう、だね。確かにそうかも……」
飛鳥の言葉に僕は同意する。
「でも、仕方ないよ。何かが起きてからじゃないと、僕達は動けないんだ」
「……もっとも、動けたとしてもどうなるかは分かりませんが、ね」
「……やれやれ」
誰からともなく吐き出した溜め息。
冷めたコーヒーの湯気よりも、白く濁って溶けて消えた。
それから時間だけが緩やかに流れ、一時間ほどが経過した。
僕達はそれとなく注意を巡らせながら外を見ていたけど、今のところはそれらしい変化は見られない。
もちろん、今夜何かが起こるという根拠さえ何もないのだ。
明日かもしれないし、明後日かもしれないし、深夜ではなく早朝かもしれない。
否定論だけはいくらでも浮かんでくる。
まぁ、無理もない。
何かが起こるかもしれないという、ただそれだけの理由で今の僕達は動いている。
それを否定することはとても簡単で、逆に肯定するには持ち合わせた理論があまりにも未完成過ぎる。
しかしそれでも、できることからやらなくちゃいけない。
何もせずにいて、気がつけば全てが終わっていたでは、あまりにも悔しいからだ。
「…………」
僕はガラス越しの通りに目を向ける。
氷室と飛鳥は向かいの席でそれぞれに小説に目を落としている。
僕の隣にいる真吾も、何か考え事をしているらしく下を俯いたままだ。
誰も一言も発さず、壁にかかった時計の秒針が時を刻む音だけが耳の奥にまで響いていた。
行き交う人々。
身近すぎる日常の一ページ。
絵に書くこともないような、そんな当たり前の景色。
ぼんやりと眺めながら、目に映る何かおかしなものはないだろうかと目を凝らす。
が、何もおかしいものはない。
今、サラリーマン風の男性が通過した。
次は女子高生の三人組。
買い物帰りの主婦と、その手を繋ぐ子供の姿。
などなど、あまりにも当たり前すぎる景色。
変化など、まるでどこにも見当たるはずがなかった。
どこもおかしい場所はない。
が、結論を導くにはまだ時間が早い。
九時を回ったばかりの今は、真夜中と呼ぶにはどう見ても早すぎる時間帯。
何か起こるとすれば、もっともっと夜が深まってからのはず。
精神的にきつい状況ではあるが、油断はできない。
もう一度僕は目元をこすり、しっかりと景色を……。
「…………え?」
そこで僕は、何か違和感のようなものを感じた気がした。
「どうかしましたか、大和?」
小声が聞こえたのか、気が付いた氷室が声をかけてくる。
それに気付かされ、飛鳥と真吾もそれぞれに顔を上げた。
「あ、いや……ごめん、何でもなかった」
「……そうですか。何かあったら、些細なことでもいいですから教えてください」
「うん、分かった」
場の雰囲気が元に戻る。
僕は変わらずに、目の前の景色の中を見ていた。
一体このどこに、違和感を感じたというのだろう?
「…………」
もう一度、食い入るように眺めてみる。
が、やはり分からない。
何かが引っかかっている。
その引っ掛かりの正体は、間違いなく僕の目から見たこの景色の中にあるはずだ。
だが、それが何であるのかが全く分からない。
数式の答えを知っているのに、過程の計算式をすっぽりと忘れてしまったかのよう。
何がおかしい?
何もおかしくないはずなのに。
どこがおかしい?
どこもおかしくないはずなのに。
そうだ。
何も変わっていないじゃないか。
そんな中に、一体何に対する違和感を覚えたと……。
「…………同じだ」
僕は呟いていた。
ガタンと音を立て、席を立つ。
その様子に、他の誰もが異常を察知した。
「どうした、大和?」
「何か、見つかったの?」
口々に問われるその言葉を一度は全て無視して、僕はまたガラス窓の向こう側だけを凝視していた。
「……大和、同じとは、何がどう同じなんですか?」
「…………」
その問いに答える前に、僕はもう一度景色を眺めておく必要が会った。
偶然ではなく、それを必然に変えるために。
そして、確信する。
変化はあった。
いや、正確にはなかった。
支離滅裂な言葉だけど、この表現が一番近い。
僕が見た、その変化。
それは……。
「――全部、同じなんだ。行き交う人達が、まるでビデオの同じシーンだけを続けて何度も再生してるみたいに……」
その言葉に、全員の視線が移る。
窓の外。
行き交う人々。
その、性別。
その、人相。
その、外見。
全てが一定の間隔を置いて、同じ人物によって繰り返されている。
悪夢のように繰り返す。
それらは全て、作られた人形のように。
同じ笑みしか浮かべず、同じ動作しかせず、同じ道を行き来する。
ぐるぐる、ぐるぐると。
巡り巡って繰り返す。
あらかじめ、役割を決められた人形達。
傀儡の夜の、幕開けだった。