Episode101:断裁の日常
「……で、結局これからどうする?」
一度は降りた沈黙を破り、真吾が口を開く。
「そうですね……何にしても、残された封印はあと一つだけ。こちらから開放することは、むざむざ相手の思惑通りに動くことにもなりますが……」
「逆に言えば、恰好のエサにもなる。そういうことでしょ?」
氷室の言葉を飛鳥が継ぐ。
「その通りです。あれは、全ての開放に相当執着している。すでに私達なんて目ではないだけの強大な力を手に入れているにもかかわらず、です。それはつまり、どうあっても全ての力を取り戻す必要があるということでしょう。理由は分かりませんけどね」
「かといって、バカ正直に開放しちまえばそれこそ水の泡だしな。どうにかして向こうを出し抜いたりでもしないと、どうにもならない」
真正面から渡り合ったところで、多対一でも勝ちの目がないのは明白だった。
残された封印を開放し、氷室が更なる力を手にし、その結果としての総力を以ってして挑んだところでも、だ。
「……時間がないわけではないですが、余裕があるわけでもありませんしね。どちらにせよ、決断を急ぐ必要がありそうです」
「……なんとかならないのかな。こんなの、あんまりじゃない……」
「…………」
表情が沈む。
迫られた選択肢は二つ。
そのどちらもが、希望に繋がる線にしてはあまりに細く、脆すぎた。
「……傷は平気?」
「ん? ああ、うん。もう大丈夫だよ」
三人がまだ地下で話をしているとき、僕はかりんと事務所のソファーに隣り合って座っていた。
会話らしい会話はほとんどない。
僕が問い、かりんが答えるか、かりんが問い、僕が答えることの繰り返し。
腕の中に抱かれたクロウサも、いつものような軽い調子で声を発することはなく、大人しく抱かれているだけだった。
「…………」
「…………」
互いにかける言葉は多く持ち合わせていない。
少し手を伸ばせば触れられるくらいの距離なのに、その距離が途方もなく遠くに感じる。
僕は横目でそっとかりんの様子を覗う。
不安の色に満ちたその双眸は、わずかに揺らぎながらここではないどこか遠くを見据えていた。
その小さな体が、今もなお小刻みに震えている。
寒さか、それとも恐怖か。
真意は分からなかったけど、僕は自然と上着を脱ぎ、それをかりんの背中にかぶせていた。
「風邪、引くといけないから」
「……」
答えず、かりんは小さく頷いてそれを受け入れた。
と、そのときになって僕は気付いた。
かりんがクロウサを抱きかかえるその両手の片方に、白い包帯の姿が見て取れた。
「かりん、どうしたの? その手」
「……あ」
指摘すると、罰が悪そうにかりんはその手を引っ込めてしまう。
悪いことを聞いてしまっただろうかと、僕は少し後悔する。
「ごめん、聞かない方がよかった?」
「……」
答えず、今度は首を横に振って否定する。
「……少し。擦り剥いただけ。今はもう。ほとんど治りかけ」
「……そっか」
そしてまた沈黙。
互いに膝を抱え、ぼんやりと視線を彷徨わせる。
「……これから。どうするの?」
と、ふいにかりんが聞いた。
「……分からない。けど、アイツを止めなくちゃ。このままじゃ本当に、僕達が今いるこの世界が消えてなくなってしまうから」
「……大和は」
「ん?」
「……大和は。今のこの世界が。好きなの?」
「どう、かな。好きとか嫌いとか、そういう言い方だとうまく言えないけど……消えてほしくはないと思ってる。それに、僕だってまだ死にたくないから」
「……死んでしまうことは。怖い?」
「……怖いよ。多分、僕だけじゃなく皆そうだと思う。飛鳥も氷室も、死に急いでた真吾だって、本当は死ぬことは他のどんなことよりも怖くて仕方ないんだと思う。それでも、表面上だけは言葉や態度で虚勢を張って、必死に無理してるんだと思う」
「…………」
「逆に僕は、そういうことができないからさ。例えば僕が明日死んでしまうとして、それはもう逃れられない運命で、諦めて死を受け入れることしか選択肢に残されていないとしたら、多分僕は、素直にそれを受け入れてしまうと思う」
「……え?」
「矛盾してるだろ? 自分でも、よく分からないんだ。面と向かってそう言われたら、普通は何言ってるんだろうって笑い飛ばすはずなのにさ。死にたくないのに、死ぬんだと言われたらそれを鵜呑みにしてしまいそうで……」
「……じゃあどうして。今は目の前の運命を。素直に受け入れず。抗おうとするの?」
「……どうしてだろう。やっぱり、よく分からない。でも多分……いや、もしかしたら、だけど」
「……」
「僕自身が行動することで、まだ何かが変わる可能性が少しでも残っているから、かもしれない。もちろん、どうやっても動かないからこそ、運命っていうのかもしれないけど」
「……その途中で。大和自身が。命を失ってしまうかもしれないのに?」
「うん。だから、やっぱり怖いことは怖いんだよ。死にたくないって思う。でも、何もしないまま終わりを迎えて、終わってから実はあのときこうしていれば何かが変わったんじゃないかって後悔するのは、もっと嫌だから」
「……一つ。聞かせて」
「……何?」
「……もしも。もしも変えられるとしたら。どうする?」
「……え?」
「……最後の最後。ほんの少しの。ささやかな抵抗で。目の前にあるこの運命を。打ち砕くことができるとしたら……」
「…………」
「……大和。あなたはそれを……望む?」
「……うん。望むよ」
僕ははっきりと答える。
そのためにこうして、今までできうることをしてきたのだから。
「……分かった」
かりんは答え、立ち上がる。
「……私も。できることを。やってみる。だから。お願いがあるの」
「お願い?」
かりんは頷く。
「……もしものときは。きっと私が何とかするから。だから。そのときは……」
一瞬の間。
やがてかりんは俯いていた顔を上げ、僕の目を真っ直ぐに見て言った。
「――きっと。笑っていて。きっと。私も笑うから」
「……かりん?」
「……じゃあね。大和」
羽織ったコートを僕に手渡し、かりんはゆっくりと歩いて去っていった。
事務所の扉を押し開け、そのまま出ていく。
その背中が、更に小さく遠くに見えて。
そのままどこかに、いなくなってしまうんじゃないかと……そんな印象を僕に与えていた。
パタン。
音を立て、扉が閉まる。
僕だけを取り残して、かりんが去っていく。
まるで今生の別れのように。
遠く、遠く。
消え往く背中を追うこともせずに。
立ち尽くすことしか、僕にはできなかった。
しばらくして、三人が事務所内に戻ってきた。
「あれ? 大和、あの子は?」
「……あ、かりんなら、少し前に戻ったよ」
「そう……」
「っと、もうこんな時間ですか。どうりで明るくなってきたと思ったら」
言われて時計を見てみると、時刻は朝の四時半を示そうとしていた。
「さすがにそろそろ戻らないと、俺もまずいな」
「結局徹夜だったしね。私も少し、眠気が……」
「そうですね。一度解散しましょうか。今後のことは、追ってまた連絡するとして、今は休息が必要です」
「ああ、一応携帯の番号教えておく」
「そうですね、助かります」
氷室達の会話を聞きながら、僕の意識は半分ほどしか残っていなかった。
疲労ではない……と思う。
確かに少しは眠気もあるけど、それとはまた少し違うものだ。
塞がったはずの胸の傷が、今頃になって軋むように痛んだ。
分かってる。
これはきっと……不安だ。
どうしようもない、しかし確たる証拠もない不安が、胸の中に蔓延している。
全ては想像に過ぎない。
予感と言い換えてもいいだろう。
何かよくないことが起こりそうな……すでに起こり始めているような、そんな気がしてならない。
「……大和、大丈夫?」
「……え?」
「何か、ずっと考え込んでるみたいだったから」
「あ、うん。大丈夫、何でもないよ。僕も少し、疲れてるみたい」
飛鳥の言葉に、僕はそんな適当な言い訳を並べて返す。
「心配は要らないと思いますが、大和は特にしっかり休養を取っておいてください。できるだけ外出も控えた方がいいでしょう」
「そう、だね。そうするよ」
「さて。それでは一時解散としましょうか。とりあえず、今夜当たりに一度連絡をしますので」
頷き、この場は散開となった。
事務所を出て、飛鳥と別れて僕と真吾は家路に着く。
会話もほとんどなく、やがて僕と真吾も分かれ道に差し掛かる。
「じゃあな。しっかり休んどけよ」
「……うん。そうする」
「……大和」
「……何?」
「……いや、いい。無理だけはすんな。それだけだ」
それだけ告げて、真吾は朝焼けの中に小走りで去っていった。
その背中を見送って、僕も再び家路を歩き出す。
昇りかけの太陽がまぶしい。
しかしそれ以上に、胸の中は暗い。
濁った水底のようだ。
後戻りができないことは、とっくに理解している。
だからここまできた。
……けれど。
この先に、何がある?
僕はこの朝陽を、あと何度無事に迎えることができるのだろう?
残された時間は、きっと思っているよりもずっと少ないはずだ。
日常は徐々に、しかし間違いなく、見えない何かに削り取られているのだから。




