八 二ノ二
祖父の夢を見た。どうしてだろう、という疑問よりもまず先に、夢の中の一磨は土下座をして謝っていた。
夢だと気付いたのは自分がその光景を上から――天井裏から覗き見ている、そんな感覚を覚えたからだった。それほど、視点だけしか動かすことのできない一磨は上から祖父の姿を見ただけで恐れ、委縮してしまった。
祖父の顔を眺め見ると表面上では怒っているようにはとても見えなかった。祖父の事を知っている人物であったとしても、その顔色に激怒が混ざっている事を察することは難しい。
そも、一磨であっても本当は、怒っているかを正確に判断出来ているわけではない。純粋に、一磨にはその無表情ともいえる顔が怖かった。
いつもの顔。稽古でも出会いがしらでも、一磨にはその顔以外に祖父の顔を知らない。有り触れた恐怖の対象が夢の中で仁王立ちして土下座している一磨を眺めていた。
謝罪の言葉はうやむやで上から覗いている一磨には聞こえない。けれども一字一句、悲しい事に判ってしまっていた。
本心からの反省など微塵も含まれていない、ただ痛めつけられる事だけを回避しようと必死になっている。水面だけを波立たせ激しい感情の起伏を演出している様。これほどに滑稽だと思ってしまったのは一磨自身における心情の変化からなのだろうか。ただその思いも一瞬で終わりを迎える。
上から覗く一磨の視点はゆらめき、やがては白濁してとろけていった。
一磨は寝台の上で眼が覚めた。
四肢を僅かに動かす。問題はなく、思うままに動く。少々の気だるさは仕方ないにしても、良好な状態だと一磨は思った。
まだ生きている、そう考えると身体がほのかに暖かくなった。勿論情けないという思いもあったが、大きいのはやはり生きているという事への喜びだった。
寝たままの状態で頭を動かし辺りを見回す。部屋の中は綺麗に整頓がなされていて、花瓶には薄紅色の小さな花が飾られている事を確認することが出来た。
視線を天井に戻すとそこには統一感のない木目が広がっていた。
室内は薄暗い。それでも、まったく見えないというほどではなく、どこからか鳥のさえずりが耳に流れてくる。耳を澄まし声の方向――左を向いてみるとそこには雨戸に閉ざされている窓を見つけることができた。
その窓の隙間から入り込む光は弱々しい。鳥のさえずり、夜に襲撃された事を踏まえ早朝だということを理解する。
途端に、一磨は静かにため息を漏らした。結局、自分は変わらぬ生活を続けようとしている事への落胆が一磨の顔から生きている事への安堵を消し去っていく。
一磨は日が昇る前に起きる事が出来ていた。死ぬかもしれない恐怖を感じ、ラーレに助けられてからの記憶がないにも関わらず、自分はいつもと同じ時間に目覚めている。
「変われるのかな」
ずっと続けなければならなかった慣習から、一磨は未だ抜け出せてはいない。自身でその事を改めて理解するとたまらなく溜息がこぼれてしまっていた。
一磨は首だけではなく、上体を起こして部屋を見回し始める。
「僕は……」
怖いと思った瞬間から、身体が動かなくなる。今も僅かに身体が強張ってしまっている。こんな身体で本当に戦えるのか。
どんな楽観的な希望を持っても、今の自分自身を騙す事など出来はしなかった。殺されるかもしれないと知って身体が硬化してしまえば戦場では命取りとなる。知識としては知っていてもいざ実践の場に身を置けばあのざまだ。
稽古では命のやり取りなどしなかった。何故教えてはくれなかったのか。筋違いも甚だしいが、一磨はそう思うほどに情けない醜態を晒してしまったと自覚していた。ラーレの事を思えば、さらにその思いは強くなる。
どうせ自分は駄目なのだ。諦めがさも当然のように一磨の内に溜まっていく。
たとえ無理と判っていたところで今更逃げ出す事なんて出来ない。何よりもラーレの信頼をこれ以上踏みにじりたくは無い。どんな思いであろうと今の一磨には大切なことだった。こと、誰かから蔑まれる事が日常化していた一磨だからこそ、僅かばかりの光を絶やすまいと必死になっていた。
両手を頬に持っていき、一磨は勢い良く頬を叩いた。じわじわと痛む頬を無視しながら一度、大きく深呼吸をする。気をしっかり持て、そんな声が聞こえてきそうだった。
――ここは何処だろう。
考えてみたものの一磨は無闇に出歩く事はしない。出歩いて、ラーレやアイリスに住まう協力者となってもらえる人物らに迷惑をかけてしまう事の方が今の現状を確認するよりも怖かった。
言葉の通じぬ世界に来た事によって、この状況は危ういと一磨は思っている。ラーレの事は信頼しているが、ラーレの協力者足る人物らを知らない一磨からすれば、無闇に行動し、協力者の心証を悪いものとしてしまう可能性がある。
ここは無闇に動かず今、自分に宛がわれたこの室内の状態を把握する事に範囲を限定し、辺りを見回すから行動を始めていく。
左側は直ぐに壁で窓が四角い口を開けていた。透明な壁が木材の骨組みに嵌め込まれている事に気づき、一磨はそっと感触を確かめるように撫でる。
「硝子」
見慣れてはいなかったのだが、確かにその透明な窓は硝子だと言う事は判った。十河家では硝子窓はなかったが、馬車や他家では何度か目に止めた事があった事が幸いしていた。と同時に、この家はそれなりに裕福な家系だという予測が一磨の立てられていく。
内海では金持ち以外に硝子を用いる家は無い。その事実に基づいて一磨はラーレが当初から予定していた家屋に運んでくれたのかもしれないと考え始めていた。
次に、天井を眺める。そこには大きな燭台が垂れていた。五本の蝋燭はゆうに置けるほどの大きさだった。
寝ている寝台も立派な物だ。一磨は畳みに布団を敷いて寝るだけで、寝台を使った事もない。慣れないようでいて、一磨は熟睡出来たことから寝台を使わせてくれた事への感謝を込めて寝台の縁を何度か摩る。
一通りの家具や内装を見終えると、丁度、寝台から右手にあった扉が二度、叩かれた。
思わず一磨は身を竦め狸寝入りをするか逡巡する。慌てて上体を倒し布団を被せ終えた正にその瞬間。
「……起きたか」
ラーレが音を出さない配慮を心がけたのか、ゆっくりとした動作で扉を開けて入ってくると開口一番、一磨に向けて言葉を放った。どうやら狸寝入りをしてやり過ごそうとした一磨の行動には気づいていないようであるが、一磨からすれば少々の後悔が沸いては身体の内に沈殿していった。
その姿に、ラーレは柔和な笑みを浮かべていた。思ったほど落ち込んでいないように思えたからであったようだ。僅かな感心と程よい安堵の気持からか表情は柔らかいままだ。
一方の一磨も、昨日までの恰好と何一つ変わらないラーレの姿に、安心し一息ついたようなため息を小さく吐き出した。
夢ではない保障は先ほどの頬打ちでしたものの、今だ一磨の中ではどこかまだ夢心地気分に浸っていた事を思い知らされた。浮足立っていたと言っても良いだろう。ようやく、一磨は地に足を付けたような安心感に包まれていく。
「おはようございます」
「おはよう。随分と早起きじゃないか」
「習慣、ですから」
一磨はラーレが挨拶を返してくれた事に小さく歓喜する、と共にやはり頼れる人、信用できる人だとも実感していた。それが何よりも今の一磨を落ち着かせる事に効果を表していく。
ラーレからすれば至極当たり前の事を行ったにすぎなっただろうが、一磨からすれば当たり前ではなく、堪らなく嬉しい事だった。
こうも当たり障りなく素直に挨拶を交わした事はなど経験がなかった。本来ならば狂喜乱舞でもしてしまいそうなほどに心打ち震える事態だったのだが、一磨の顔には決して嬉しさは出てきてはいない。そも初めこそ歓喜が表情に表れたものだが、それも刹那には溶け消えてしまい、今では逆の感情、不甲斐無さと自責の念に苛まれてしまっていた。
自分にこれほどまで普通に接してくれる人の思いを踏みにじった。今までの人生を何一つ活かす事も出来なかった。
その二つがとてつもなく、今の一磨にとって重く、痛く、辛かった。
「すみませんでした」
言葉が漏れる。流れるように、こぼれおちた。
その謝罪にすら一磨は嫌悪感を隠す事に必死だった。どうしてこれほどまで簡単に謝罪の言葉が出てくるのか。などと思うほど、絞り出すなんて行為も無い。それほど淡々とした口調で謝罪は出てきていた。
――何をやっているんだろう。
演技をしている。そう思ってしまっている十河一磨が内に居た。
少なくともラーレは一磨の言葉を真摯に受けて止めている。だからこそ笑みを消し、真剣な眼差しを一磨に向けている。いや、向けてくれていると言って良いはずだ。にも関わらず、とうの本人が演技を仄めかす胸中を隠している。おかしな状況、状態であった。
せっかくラーレさんから認めてもらえていたのに、僕は何も出来なかった。それどころか足手まといにしかならなかった。今まで習ってきた事。今まで受けてきた虐めや稽古の全てが無駄になってしまった。一磨は、その思いですら素直に受け入れる事が出来ずにいた。
本当に自分は後悔しているのか、悔しがっているのか。疑惑が疑惑を呼び、本当の自分が影に消え、本心が見えなくなっていく。
一磨の中に、自分自身ですら信じられない考えがまるで憑き物のように重くのしかかっていった。
信じる事をしようとはしない、のではなく、自分を信じる事を知らない。自責の念が走馬灯のように蘇ってはどこかへ流れて行ってしまうのだが、どうしたってもやもやがとれる事はなかった。
気持ちは本当なのに、今まで大人達からの躾を許容し演じてきてしまっていたがため。一磨は、自分の心を見失っていた。
ゆえに、だろう。本当ならば泣き叫ぶなり、反省するなり、ラーレに問いかけるなり、感情を吐露する行為をするはずだった一磨は、ただ、涙を溢した。
嗚咽を漏らす事もせず、瞼をさざなみのように打ち揺らす事もせず、ただ、一筋だけ目じりからこぼれ落ちただけに過ぎなかった。まるで大きな欠伸をして流してしまったような、そのような陳腐さを持つ涙が一粒。
何のために今まで辛い稽古を重ねてきたのか。意味の判らなかった稽古がやっと日の目を見るときが来たのではなかったのか。そう思っているにも関わらず、身体は熱を帯びず、冷やかで外の一磨は冷静だった。
幾ばくかの時が流れたのだろう。扉の向こうには幾人が行き渡る床の軋みが漏れ聞こえ、締め切られた窓からは先ほどよりも強く暖かい光が差し込んでくる。
ただ室内の空気は酷く重かった。暗い、薄暗さに拍車が掛かるほどの暗さの中でラーレの瞳は先ほど変わらず鋭さを見せる事無く、儚げな瑞々しさを兼ね備え、光っているようにも見えた。ラーレは顔を僅かに上を見上げ、再度一磨を見据え直し、口を広げた。
「一磨、君はスジが良い」
それは、唐突な賛辞だった。一磨は思わずラーレを見つめるが、ラーレは視線を交えた状態で、次の言葉を放つ。
「一磨、君が望むのなら、軍学校へ行くのを少し遅らせる事も出来る」
一磨は、身体の中で何かが壊れたような錯覚を覚えた。
途端、途端にだ。後悔の言葉が滝のように一磨の内に溢れてくる。
自然に涙が溢れてきた。先ほど流したものとは全く別の涙だ。感情の吐露によってまるで吐き気を催すようで、今までの冷静さが嘘のように高ぶる感情が制御出来なくなっていく。
訳がわからなかった。一磨にとって自分の身体が今、どういった状況なのかを知る術はない。ただ、驚きしゃくり上げ、この状況を、この状態をなんとか収めようと躍起になった。
感情の高ぶりを押えきれず身体を振るわせ続ける一磨は、涙を流す事を是とせず、必死に我慢し、涙を溜める。
その涙は、自分にとって流す意味がない事を一番知っているから、ただ一磨は黙って身を震わせた。
今、一磨は顔を挙げることが出来ない。我慢していようが悔しさを抑えきれるはずもなく、零れ落ちてしまっている。その顔を見られたくないという羞恥心からか、握り拳を作り俯いている。
きっと失望させてしまったという思いが強かった。助けてくれた、救い出してくれた、切欠を与えてくれた人の思いを無碍にしてしまったと考えてしまっている。
目の前に突き付けられたのだ。自分が無力だという事を、演技していると思い込むことによってどうせ自分は駄目なんだと思い続けていたのに、せっかく傷を最小に留めるよう働きかけていたのに、ラーレの一言で全てが無に帰した。
嘘を付くことを止めろ。そう言われたようにも一磨には感じられたほどの衝撃だった。
「一磨。顔を挙げろ」
ラーレの声に一磨は顔を挙げた。
「三日。三日間、この地に留まりアイリスの簡単な知識を蓄え、私が稽古を付けよう。選べ、今のままでいるか。可能性を掴み取るか」
射抜かれるような瞳ではなかった。優しく穏やかな瞳に柔和な顔が一磨の前にはあった。
「一磨、君は強い。誰だっていきなり実戦ともなれば身体が動かなくなるものだ。昨日は運が悪く、その悪い中に良い事もあった」
――悪い中に良い事。
「むしろ幸運だった」
――不幸中の幸い?
「君はこうして生きている。私の声を聞き取れる耳を持ち、私の姿を見る事が出来る眼を持ち、私の問い掛けに受け答えできる口を持ち、剣を握り、地を駆ける四肢を持っている。それを幸運と言って何が悪い?」
一磨は、確かに生きている。身体の一部を失ったわけでもない。十河一磨は、まだ生きている。
「一磨はどうしたい」
ラーレは、一磨に答えを求めている。
意志を、確認してくれている。ならばどうしたい。どうなりたい。一磨は初めて、必死に考えた。とうに答えなど決まっているにも関わらず、一磨にとって意志を確認してくれた事に対する言いしれぬ狂喜のはけ口として、頭を沸騰させていた。必死に考えたところで行きつくところは一つしかない。
――そんなの、選択肢なんて僕には無い。
「強く、なりたいです」
変わりたい。
「自分を守れるように……もう、痛い思いをしたくないです」
一磨は逃げ出した、変わるために逃げ出し、全てを捨てて来た。知っている、覚悟もしていれば自覚もしている。ならば前に進むしかない。どんな人生になってしまおうと前に進むしか道は無い。
僕は僕の変化を勝ち取るんだ。
「判った。私の出来る限りの事をお前に教え込む。痛い思いをするだろう。傷も作る。だが、それも三日間だ。その後の軍学校に入ってからは色んな教官の下で鍛錬する事になる。それまでに、少しでも一磨を変えてやる」
たった三日。三日で十六年を覆す事が不可能だと一磨は理解している。荒唐無稽だとすら思っている。
――ずるい。ずるいよ。
何度目か。いや、ラーレと会話をする都度、一磨はラーレの狡猾さを知っていく。決して嫌いじゃない。今まで味わった事のないずるさ。
期待するのではなく、自らが前に進む。
「お願いします」
頼ってばかりだ。そう思ったところで、一磨には縋る事しか出来ない。何も知らない。何も判らない。
きっと僕は邪魔で面倒な存在だ。なのにラーレさんは僕を見捨てようとはしていなかった。だったら僕は少しでもラーレさんが喜んでくれるように、変わりたい。強くなりたい。
お前を連れて着て良かった。そう言って欲しい。そう笑って欲しい。
「よし。なら、まずは飯だ」
「はい」
一磨は目の前に垂れた縄に縋りつき、ただ誰かに押し上げられる事を夢見る事を止め、自らの身体でラーレが垂らした救いの縄をよじ登り始めた。