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十ノ一  作者: 泰然自若
序章
4/30

四 一ノ四

 一磨が一人で外を歩いた事が無いのは、周りがそれを拒むからだった。理由無き外出は禁止され、修行やう稽古、武家衆との顔見せに同行する事はあっても、決して一人きりで自由気ままに歩き回る事は許されなかった。

 外出の際に付き従うのは屈強かつ目と鼻の良い男達で、その男達は一磨が逃げ出さないように、ぴったりと張り付き、厠にまで付いて来るほどだった。

 息苦しい外出よりも、狭苦しくも限られた自由があった家の中が楽園に思えるほどの窮屈を覚えたほど、良い思い出が一磨にはない。

 ――今、僕は良い思い出のない内海の町を歩いている。たった一人で。

 興奮冷めやらぬ思いを胸に秘めながらも、一磨は勤めて平静を装いながら街を歩く。

 追っ手が掛かっている気配は無いが、油断は決してしていない。人生を賭けての行動を無碍に出来ない。

 衝動的に飛び出した事だけは少々の悔いは残る。準備をしていればもっと余裕を持てたはずだとも思ったが、結局のところあの時の逡巡が全てだったのだから、今の状況こそが最善と思い直す。

 今は草鞋も履いていなければ、身銭を持っているわけでもない。

 一磨はそっと人々の足元に目をやった。草鞋を履いている人も居れば、靴を履いているお金持ちの人々も居る事が窺い知れる。様相も着物を着込む人も居れば洋服を来た洒落者も居る。対して一磨は裸足で、うぐいす色の野袴のばかなという様相だった。身なりこそそれなりの着物を与えてもらってはいたが、それこそ体裁を保つ方法の一つとしての事だった。汚れでもつけようものなら、即懲罰が一磨を襲う。

 着物に関しては、稽古着よりかは目立つ恰好ではない、それに顔を隠す必要は無いのも助かる事だった。一般の人々に、一磨の顔は知られて居ないだろうし、顔を知っているだろう家柄の良い者が徒歩で歩いているとは考えにくい。

 一磨はそこまで考えると、思った以上に自分が冷静だと感じていた。初めて町を一人で歩いているのに驚くほど落ち着いている。他者の目を気にするわけでもないが、周囲に気を配りながら、丁寧に歩いていける。

 やっていける。絶対に、やっていける。自信を持つんだ。一磨はそう言い聞かせると、まず身銭をどうにかして手に入れて内海を出ようと考えた。ここは十河の勢力圏、追っ手を出されるのは判りきっているので、早々に立ち去る必要があった。

 一磨はゆったりと路地に入り、草鞋になりそうな代物を物色し始めながら、今後の行動予定を立て始める。

 なんとかボロ切れを見つけると、打ち捨てられた縄で適当に自分の足へ縛り付ける。素足よりも大分マシになったと感じながら、取り合えず上着を売り払い、内海を出るところまで考え付いたところで、一磨は視線を上げた。

 目の前には家屋の土壁があるだけだ。そのまま視線をゆっくりと路地の奥へと向ける。その先は昼間だというというにどうしてか妙に薄暗く、澱んでいると感じる光景が広がっていた。吸い込まれそうな感覚に思わず、一磨は一歩、後ずさりして砂利を踏みしめた。

「おい、君」

 唐突に背中から声を掛けられた。少々高めだが抑揚のある声で、一磨には滑らかな印象を持たせながら耳に入り込んできていた。

 一磨はその声に驚いたというよりも、人の気配を察する事が出来なかった事に驚き、思わず顔を強張らせつつも振り返る。決して散漫だったと思ってはいない。十二分に気をつけていた。にも関わらず気付く事が出来なかった。

 振り向いた先には女が立っている。影になっているが、身体にぴったりと合うような衣服は黒地で、腰には鞘が垂れている。

 軍人だった。一磨の記憶には帯剣を許可されているのは警官か軍人くらいしか覚えが無い。浮浪者が見るからに高そうな衣服を纏っているはずもない。身体にぴったりと合う灰色の上下に、靴は黒くて硬そうだ。警官の紺色に染まる制服とは違うのだから、軍人に違いないと一磨は決め付けた。

 銀色の髪の毛は短く軍帽に隠れているようにも見えるが、どうやら後ろで束ねているようだった。

 引き締まった顎に、瞳は青々とした空のように澄んでいる。一磨には、その女がすぐに異国の人との混血だという事が判った。内海にはそういう人が多いのだが、銀色の髪の毛は珍しかったからだ。

 隙が無いと一目で判る出で立ちだと判断した。無意識ではあるが、その判断を可能にしたのは祖父との稽古があったからだ。ともかく、一磨はこのまま走って逃げる選択肢を即座に捨てる。狭い路地に短い間合い、相手が女であろうと自分よりも腕の立つと仮定している一磨からすれば、普通に走ったところで逃げ切れるはずはないと考えていた。

 ――ならば、戦うか?

 頭に浮かんだ言葉をかき消すように、それこそ無謀だと鼻の周りに皺を寄せた。相手は本物の軍人。対して一磨は武家の人間、といっても稽古しか経験がない。いきなりの実戦をやれなんて無理な話だった。

 状況が許すのならば、一磨は間違いなく逃亡を選んでいた事だろう。

「良い面構えだな。それに身体も良い」

 軍人は一磨が武芸を身に付けている事を見抜いていた。軍人の言い放ったその言葉に、一磨はもしかするならば追っ手かもしれない。と考えた。

 考えてみると途端に身体は熱くなっていく。高ぶる思いは、捕まりたくないという願い。

 こんな所で捕まりたくは無いし、戻りたくもない。もう二度とあんな生活に戻りたくは無い。その感情が、一磨の身体を熱していく。

「僕は、戻らない」

 声に出したのは覚悟を確認するためだった。

「僕は、もう戻らない」

 二度呟いたのは、目の前の軍人と戦う覚悟を決めたからだった。

「だから、捕まるわけにはいかない」

 軍人の顔は険しかったが、初めて動揺を見せた。

 一瞬。僅かに顔を狼狽させ、身構える事を躊躇させたその一瞬に、一磨は人生の全てを賭して、襲い掛かった。

 腰を下げ、膝を折り曲げ、全身を鉄砲の弾に化けさせたつもりで一気に間合いを詰める。軍人の顔は一気に見えなくなり目の前に相手の腹が迫ると、そのまま右肩をぶつける。後は、軍人を押し倒して、後はそのまま走り去る。出来る、絶対に出来る。全ては思惑通りに進み後は逃げるだけになる。そうなるはずだった。

「良い判断だった」

 ――どうして僕は空を見上げている?

 一磨の戸惑いを他所に、顔を影で隠すように見下ろしたのは押し倒したはずの軍人だった。その顔は、何処か嬉しそうで笑みを深めている。

 一磨の背中に痛みが這って行く。

 呼吸はきちんと出来ているし、身体はまだ悲鳴を轟かせていない。わけが判らなかった。一体何が起こったのか。

「短い間合いに狭い路地。私が場数を踏んでいるという事を即座に理解し、警戒した。その用心深さが良い。何より、私が驚いた刹那を隙と心得、全てを賭して攻め立てた。その気概と思い切りの良さ。お前は、良い物を併せ持っているな」

 一磨は何故か褒められていた。何故この軍人は自分を褒めているのだろうかと疑問に思いつつ、極自然な素振りで差し出された軍人の右手を取って、上半身を起き上がらせた。

 不思議な感覚が一磨を覆っていた。目に見える全てが、今まで見た事無いような新しい代物に映るのは何故だろうか。とさえ思えたほどの変化を捉えていた。

「突進も中々理に適っている。体重を乗せて、腰目掛ける。……誤算だったのは私がそれらの定石を熟知していたという事実を君が知らなかった、それだけだな。生半可な訓練をしているわけじゃないってことだ」

 ――嗚呼、そうか。僕は投げ飛ばされたのか。

 一磨は今になってようやく事態を把握する事ができていた。と同時に、それはとんでもなく凄い事だとも理解する。一磨の突進する勢いそのままに、軍人は流れにそって身体を倒した。流れに逆らう事をせず、力を活かしたままその方向を変え、投げ飛ばした。

「受身までも良かったぞ。尤も、その顔じゃ受身を取ろうとしていたわけではなさそうだが、身体がきちんと覚えていた事に感謝するんだな」

 一磨は自分の腹を左手で触る。そこには砂利がついていた。

 身体を倒し、そのまま足を腹に当てながら、勢いそのままに一磨は宙を舞ってしまっていたのだ。

「あの、貴方は……一体」

 僕を褒めてくれる人が十河家の者であるはずがない。その重いから思わず一磨は聞いてしまった。動揺していたし、顔が火照り、汗を掻いている。視線が泳ぎ、一磨は軍人の顔をまともに見る事すら出来なかった。

「……人を探していてね。君みたいな逸材を探して這いずり回る。本当なら使者連れた勧誘管がする仕事なんだがね」

「勧誘官?」

 人を探しているとも言った。ともすると、この軍人は軍人になる人材を探す仕事をしているのかもしれない。

「軍人ということだ。こちらだと六十年も前ならば武士とか足軽とかかな?」

 言い終えたの顔は、少し困っているようにも見える可笑しさを滲ませていた。思わず、一磨は赤面し視線を彷徨わせた。

 なんだかその笑顔が無性に嬉しかったのだ。それが何を意味する笑みなのか、一磨にはわからなかったが、理由よりも邪気のない笑みを向けてくれたという事が何よりも嬉しかったのだ。

「細かい説明はゆっくりやろう。こっちに来たのは初めてでね。旨い店はあまり知らないが、飯くらいは奢ってやるぞ」

 眩しいほどの笑みを浮かべている軍人が、一磨には神様の使いに見えていた。

 神様はきっと、自分の事をずっと見ていてくれたんだ。だから、この人を巡り合わせてくれた。

 そんな思いが溢れてきてしまった一磨は、急に顔を引き締めて口を開いた。

「お願いします。僕を軍人にしてください」

 自分を変えたい。ここから逃げ出したい。逃す手はない、ここで逃せば後がない。決意とは程遠い、懇願にも似た思いを内に秘めながら一磨は頭を下げていた。

 一磨の態度に、軍人は少々面を食らっていた。勧誘するつもりがあることは先ほどから匂わせてはいたが、少年から願い出てくるとは思わなかったようだ。

「――判った」

 それでも、軍人は大きく頷いてそう言った。

「全部私に任せろ。厄介ごとを抱え込んでいるなら全て吐き出せ。私が全て拭き取ってやる」

 そう言って笑ってくれた軍人が、一磨には無性にかっこ良く映った。自分の持つしがらみ全てを取り払ってくれるかもしれない。

 嘘だと思いもしない。今はただ、軍人の言葉を信じて、頭を下げる事しか一磨には出来なかった。

「ありがとう、ございます」

 涙が止め処なく流れて来る。それでもお礼の言葉をきちんと言う事だけは出来た。理由は沢山ある。吐き出したい思いが一杯、一杯ある。涙はそれら全てを代弁するかのように、途切れる事はない。言葉にならない思いを吐露し続ける一磨の背中を、軍人は優しくさすりながらも寄り添った。

「これから辛いことがあるぞ。軍人は殺すための勉強をしなければいけないからな。それでも良いのか」

「はい」

 しゃくりあげながらもしっかりと返事をする一磨を軍人は抱きしめていた。

「そうか。……弱音は吐いても良いが、逃げ出す事は罪になるぞ。それでも良いのか。正式な軍人になっても、二年は除隊も許可できないぞ」

「はい」

 一磨の耳からは女神のような優しい言葉が入り込み、身体を包み込む人の温もりが大きくて、それでいて堪らなく暖かかった。一磨は、その温もりにただただ感謝した。

「もう、ここには戻って来れないかもしれない。それでも良いか」

 涙を止めるように目を力いっぱい瞑る。

「はい」

 一磨は初めて自分の母以外から優しさを貰い、母以外から救いの手を差し伸べて貰えた事が、何よりも嬉しく、何よりも悲しかった。

 あの世界がいかに狂っていたのかを実感させられ、いかに今の世界が正常なのかを認識させられていたからだ。

 もう、戻らない。絶対に、あの世界には戻りたくない。憎悪にも似た一磨の決意とは裏腹に、涙は瞼を閉じようと途切れる事無く零れ落ちる。こんなにも一生懸命に涙を流す事を許されたのは、一磨にとって初めての経験だった。

 ――僕は変われる。僕は生きていける。頑張っていける。頑張ろう。新しい世界で、僕は一人前の軍人になって、誰かのために。そして、自分のために生きていくんだ。

 その思いを胸に秘めて一磨はようやく嗚咽を止めた。軍人も抱きしめるのを解くと一磨の双肩に肩を置いた。

「最後に言うぞ」

 一磨は涙を拭き取ると、真剣な表情で見つめる軍人と視線を合わせる。

「君はこれから別の世界の軍人。向こうは戦人と呼ばれているが、その戦人になる」

「――は、はい?」

 一磨の声に、軍人も頭を掻いて苦笑いを浮かべた。



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