参 一ノ三
一磨の父は、十河家の血を正統に受け継ぐ男だった。一磨の祖父にあたる男の嫡男として生を受けていた。本当ならば一磨は当主の座に就く継承順位は一位でも良いだろうが、十河家の内情は違っている。
一磨とは別に、現在当主となっている者が存在していた。おかしな話であるが、一磨に継承権はない。
そのような話になってしまった原因は一磨の父が握っている。
本当ならば、一磨は正統な継承者として名乗り出ても良さそうだが、一磨にその意志はなく、誰も相手にはしない。
元より息子である一磨は父の顔は元より、名前すらも知らない。否、教えられてはいなかった。
知っている事と言えば家を捨てて逃げ出した男だという事だった。
一磨にとってそうした虐めで吐き出される凶器から、有益だと思えるものを取捨選択して父の知識を得ていかなければならなかった。
一磨はそれでも良いと思っている。深く知らなくとも一磨にとって何の問題にもならなかった。
母を捨て家を捨て、全てを捨ててどこかへ逃げてしまった父を恨みはすれど、詳しく知りたいとは到底思えなかったのであった。
一磨は稽古場の掃除を終え、屋敷にある土間へ向かっていた。
横に目を向ければ見事な庭園が広がり、庭師が三脚に跨りながら庭木の手入れに精を出しているのを望む事が出来る。
一磨は本来、庭師に会う事をなるべく避けるように行動する。
嫌な思いをするからだというのがその主な理由ではあるのだが、今の一磨はその庭師に挨拶をするべきか迷っていた。
視界に入っている庭師は一磨の記憶するところ、最近十河家にやってきた庭師で、見たところ白髪が混じる中年男だった。
一磨は庭師と限定する事無く、他者との関わりを怖いと思っている。にも関わらずだ、一磨の根底には人と関わりたいという欲求も持っていた。その欲求ゆえに一磨は挨拶するべきかを逡巡し、思わず立ち止まっていた。
庭師からすれば、廊下に佇みつつもこちらを凝視してきていると思しき一磨の存在に気付き、一瞥してから嫌そうに顔を顰めていた。
「お早うございます」
結局、一磨は挨拶を口にしていた。挨拶するという行為ときちんと聞こえるくらい大きな声で挨拶出来た事に安堵しつつ、顔は僅かに沈んでいく。
庭師が何も聞こえてはいないかのように仕事に没頭しているからだったが、一先ず集中しているからきっと聞こえなかったと思い込むことにした。
廊下を渡る一磨は明らかに沈んでいた。簡単に気持ちを切り替える事が出来るのならば、一磨はあれほど挨拶一つで逡巡などはしなかっただろう。淡い願いを未だに持ち続けていた自分の思い上がりに思わず双肩を下げてしまっている。
何度か似たような場面に遭遇しては落胆している事に一磨は気付いていない。外から来る人間に対して、希望を捨てきれないでいるのだが、自分から積極的に関わろうという気になれないのは、これまでの経験から言えば仕方ないのかもしれない。
一磨は努めて気持ちを切り替えようと口を一文字に結ぶと、視線を前に向け長い廊下を踏みしめていく。
人と出会う事から逃げ、体罰を受けぬようにひっそりと誰かのご機嫌を伺い、痛みを抑えるように身体を動かし続け、この広い家の中という狭い世界で生きて生きていた。
今日もいつもと同じ日常だったはずだが、珍しく一磨の身に小さな変化が起こっている。祖父との稽古は早く終わったのだ。
いつもより痛めつけられる時間が短かった事に一磨は歓喜はしたが、持続はしない。
稽古場の掃除をしっかりと行い、他の者と会わないよう時間を調整するなどして、とにかく人との出会いを避けていたからだ。
結局、庭師に挨拶こそしてしまったが、これは仕方がない。彼らも仕事をしなければ怒られてしまうので出会うべくして出会ってしまったのだ。挨拶は自業自得でしかない。
こと、外部からやってくる人間に対しては変に意識してしまう一磨だったが、そうした人物が段々と十河の者になっていく様を見るのが辛く、それでいて哀しく思っている。虐めにこそ参加はしないが嫌悪している態度は露骨だからだが、結局のところ、一磨自身がそうした変化を認め、諦めてしまっている。
嗚呼、これが当然なのか、と。違和感すら覚えずに受け入れてしまっていた。
そんな中、唯一の安らぎは今という時間。祖父との稽古終わりと朝食、夕食後までだった。
祖父との稽古終わりはいつも身体が痛み、苦しくも確定した朝の習慣だった。日暮れには朝の稽古が再び行われる。辛く、苦しい日常ではあるが、一磨にとって最も痛いのは稽古場を出てから行われる鍛錬や躾と言われる虐めだった。安息を得られるひと時でも、誰かに会えば言われ無き体罰の名目をでっち上げられ、一磨はせっかくの安息日としているこの時も例外なく痛めつけられてしまう。
実経験を踏まえながら、なんとか虐めを避けたいという思いを持ったのか、自然と足早となった。
全身の痛みに耐えつつも半ば祈る思いで廊下を渡りきろうとしていたのだが、今日に限って、一磨の日常に大きな変化が訪れる事になる。
鈍い重低音が一磨の背後から迫ってきた。何か物でも落ちたと思える重い音だったが、男の甲高い悲鳴が一緒くたに聞こえてきては流石に一磨も振り向いて視線を庭に向ける。 三脚が倒れているのが見える。一磨の視界は、そのすぐ脇には先ほどまで仕事に精を出していた庭師が仰向けで倒れていた姿を捉えた。
家の中が一斉にざわめき立つほどの大声だったようだ、たちまち表屋敷が騒がしくなっていくのを一磨は肌と耳で感じ取っていた。
咄嗟に、一磨はこの後どう行動すれば良いか思案していく。何が出来るかは解らないものの、ここで何もせずこの場を立ち去るか。いやいやそんな事をすれば、口実を与えて虐められるかもしれない。そう考えた一磨は思わず庭師に駆け寄ってしまった。駆け寄ったところで一磨に出来る事は少ない。にも関わらず、虐めを受ける事への恐怖となんとか逃げたいという重いから生まれた軽率で衝動的な行動に走っていた。
多少の医学、といっても刃傷の対処法程度しか叩き込まれていないのに、腰と背中を強く打ったであろう白髪の混じる壮年の男を介抱できるわけがなかった。
このまま何もせずにいるのは宜しくない。駆け寄ってしまったからには、何かしなければならなかった。
「大丈夫ですか」
一磨はとりあえず、声を掛けた。若干、声が震えているのは期待と不安からか。
庭師は苦悶に顔を歪ませ、息が満足に出来ていないようだった。
一磨はその顔を覗きこみ、思わず息を呑み込んだ。己の立場を再認識させられた気分に浸り、厭世観の坩堝に嵌っていく。
この生活に耐えるほか道は無い。
今までどのようにして生きてきた。決して口を割らず、決して反抗せず、決して相手の機嫌を損なわせないように細心の注意を払って一磨は生きてきた。
それは何故だと考えれば迷わず生きるためだと言えるのが一磨だった。にも関わらず、その生活を続けてきた一磨は庭師の反感を買ってしまっていた。庭師の顔は苦悶と怒りに打ち震えているように感じられ、それこそ一磨の責任でこのような被害を被ったと言わんばかりだ。いや口を開き言葉を発する事が叶うのならば、恨み辛みを吐き出したに違い無い。
一磨は身体の熱を感じていた。呼吸が乱れ、泳いでいた視線は一点に集中し、また泳ぎ始める。
一磨は焦っている。
――今、目の前で起こった事をどう説明する?
頭の中で様々な言葉が浮かんでは霧散していく。どれもこの場を打開できるとは思えないものばかりだったが、一磨は必死に考える。
庭師を三脚ごと突き落として怪我をさせたわけじゃないと視線の先で冷たい眼差しを向ける祖父に弁明するのか。庭師の挙げた叫び声を聞きつけて近寄ってくる家中の者に、自分は庭師を助けようと近寄っただけで、自分が仕出かしたわけではないと土下座でもしながら釈明するしかないのか。一磨は頭を振った。絶対に嫌だと思った。どちらにせよ待っているのは拷問のような虐め。情景が浮かんでしまうほど現実味を帯びている。
思わず視線を縦横無尽に動かし、逃げ場を探し、ある一点で一磨の視線は釘付けになった。荒い呼吸が徐々に整えられていく。
――違う。違うだろう。十河一磨。
もうどうする事も出来ないのならば行動するしかない。一磨は言い聞かせていく。喜べと、今、新しい選択肢が増えた事を喜べと必死に言い聞かせた。
視線は白い壁と黒い瓦の上に広がる青い空を見つめていた。壁の高さを一磨は知っている。自分の身長を考えれば、跳んで瓦に手を乗せる事は容易い。身体を持ち上げる力を持っている事も知っている。
今こそ踏み出すべきだ。一磨は自分に言い聞かせる。恐れている理由はないと。ここから逃げ出せば全てが過去の遺物となってしまう、ならば迷う必要はない。必死に自問を繰り返すも身体は震えるばかりだった。
全身が稽古中と同じような息苦しさと熱気に包まれていく。じわりと背中に汗が滲んで行くのを一磨は感じていた。
――動け、動くんだ。今、ここに僕を遮る物は何も無いが飛び出す理由は出来ているじゃないか。何を迷う。そして何故、僕は今まで気付かなかった。こんな簡単な事に何故気付けなかった。……いや、違う。違うんだ。判ってた、判ってたのに――。同じになりたくはなかった。僕のちっぽけな思い込みが邪魔をしていたんだ。
「駄目だ」
無意識の内に一磨はその言葉に出していた。
迷っている、迷っているからこそ誰かに決めて欲しかった。誰かに決めて欲しいという思いが今の言葉を吐き出させ、一磨もその気持ちを知り、唇をかみ締める。もう言葉を発する事は絶対にしないと心に決めた。何を言い出すか、自分でも予測が出来なかったのだ。
迷うなと、言い聞かせ続ける。迷わず動けと必死に自分を鼓舞し続ける。身体は小刻みに震えるままで動こうとはしない。父と同じになってしまうのではないか、という建前と、逃げ切れなかった場合、自分にどんな仕打ちが待っているかを考える本音が介在し激しい攻防を繰り広げていた。
――僕は違う。父とは既に違う人間になっているじゃないか。顔も名前も知らない僕の父は母さんすら捨てた。それに比べて僕は捨てるべき物が何も無いじゃないか。十河家なんて始めから無いようなもの。家督なんて継げるわけでもなければ家の中で重要な役割を担っていたわけでもない。ただはけ口として利用されてきただけじゃないか。動け、何も怖くは無い、変化を求めろ。世界はこんなにも狭苦しく、僕に辛く当たるものだけじゃない。もっと広くてやさしい、そんな世界があるはずだ。僕は十年間、意味もない体罰を受け続けてきたようなものだろう……。生きろと言われた、母さんにそう言われて今まで十年も耐えてきたんだぞ。生きる事は別の場所でも出来るじゃないか。この狂った世界で生きる道理は何一つ無い。きっと母さんは判ってくれるし、あの時生きろと行ったのは別の世界で生きて欲しいと願ってくれたからじゃないのか。考えるな、今は動け。動くんだ。
「一磨」
祖父の声、意外にも鋭くはなかったその声に一磨は機敏に反応して見せた。今まで石のように動こうとしなかった身体がその一声で白い壁へ向かって走り、力の限り跳んだ。瓦は太陽の光で熱しられていたが、今の一磨にとってそれは障害にはなりはしない。腕に力を入れる。思った以上に軽々と身体は浮き上がり、一磨の世界が開けた。
「何をしている!」
誰かの叫び声が一磨の背後から聞こえてきた。その恐怖の声がただひたすらに身体を外へ突き動かす。足は瓦に登った、そのまま中腰で瓦から外の世界へと飛び降りる。
砂利が足裏に突き刺さり、凍りつくような冷たさと共に痛みが一磨の身体を駆け上がってくるが、本人はただひたすらに歓喜した。
一磨は今、広い世界に降り立ったのだ。一人で、たった一人で塀を乗り越え、降り立った。背後から聞こえてくる喧騒に別れを告げる事もせず、ただひたすらに一磨は走った。
当てなんてあるはずもなければ、内海の地理を把握しているわけでもない。
行き先も判らず一磨は走る。そうするしか道はなく、どうするかを考える余裕すら無かった。
走れば走るだけ素足が痛む。もしかしたら足裏は赤くなり、下手をすれば血でも出ているかもしれない。
今の一磨にはそれが良かった、それが嬉しかった。その痛みだけで一磨は興奮していた。
他者から与えられる痛みじゃない。他者から強制される痛みじゃない。他者から無意味に与えられる痛みなんかじゃない。
自身の行動と意志によって生じる痛み。自身によって与えられる思い通りの痛み。決して、他者から与えられたものじゃない。
この痛みこそ、本当の痛みだと一磨は確信した。この痛みこそ、一磨に新しい世界を走っている事を証明させていた。
外に出れば護衛と称し監視され、身なりだけは良くされた。十河家の人間として恥ずべき姿を見せるわけには行かないと強制され、一磨の醜くなってしまった身体を隠すように着付けをされ、十河家の一員というだけで奇異の目を向けられた世界ではなかった。
これが世界だ、これこそが世界だ。そう思うと自然に笑みが顔に張り付いていた。あんな狂った世界なんかじゃないと思っていた。
この痛みこそが世界であり、この痛みこそが生きている証なんだ。全身が総毛立ち、興奮に呼吸を乱れ、やみくそに一磨は走った。ただ走るだけがこんなにも楽しく、嬉しいものなのかと感動すらしていた。
空は何処までも青く、左に見える塀は何処までも続くかのような錯覚を覚えた。その下で一磨は走る。ただひたすらに、がむしゃらに当ても無く興奮する身体を冷ますかのように、走った。
全力で走る一磨の横に延々と追走してきた壁は終わりを迎え、一磨の見る世界はさらなる変化を見せていった。