二十五
戴冠式に我々は間に合う事が出来ない。その報告がレオノーレの元に届いたのは二日後にその式典が押し迫っている頃合であった。読み耽るその顔は硬直に冷たさを纏わせ、一切の感情を押し殺している様にしか見えず、侍従らは静かにレオノーレの席を後にするほかなかった。もちろん部屋の外には護衛の甲士が付き従ってはいるが、それでも広い室内にはレオノーレ以外に人を入れる事は出来なかった。
ただ今だけは一人にさせるべきとの判断だったのだろう。しかしながら、レオノーレはそれほど落ち込んではいなかった。今、彼女の瞳に涙が止め処なく溜まり、零れ落ちてはいるが、決して憂いているわけではなかった。その先を見つめているかのように、唇をかみ締めて文面を何度も読み直し、その書状を蝋燭の火によって燃やし去った。
彼女の胸には既に考えが形作られていく。マイダンはあの会談後、露骨に接触を嫌がっている。その行動を不審に思うのも対立する者として当然ではあったが、不信ではなく、その態度の奥を考えていたのであった。
つまり、マイダンは意図して避ける行動をするようになったのは何故なのか。
信頼できる部下を用いることによって、徐々にマイダンが何をさせたいかを理解していくレオノーレにとって、今回ラーレの死は起こりうる反乱の箍が外れた事を意味していた。
そこで彼女は頭を捻る。おそらく、戴冠式後に反乱を起こさせるマイダンではないと考えた。彼女の予測ではそこまでマイダンの身体が持たないとしているからに他ならず、マイダンもそれを察するように避けていたと解釈していたのであった。
本来ならば手詰まりである。戴冠式に間に合わないという一報は絶望でしかない。しかし、一文にこう記されていた。
”十河一磨のみならば、前日に間に合わせることは可能である”
エドゥアルトの領地から帝都まで馬車で七日を要する。早馬ですら、夜通し走りながら馬を使い潰して二日は掛かるだろう。現に早馬を乗り継いできた騎士の一人は疲弊し、歩く事もままならず、馬はそのまま死んでしまった。そのような距離でありながら、間に合うと豪語する。
「天……いや、天地を統べる者。やはり、十河の一族か」
天を翔る甲士は天甲士。しかし、天甲士を持ってしても強行軍は精神的に厳しいものがある。常時甲殻を纏い続けるのは身体に負担が掛かってしまう。甲石という力を凝縮させたものを一時的に開放して使用しているため、身体が疲労していくので、長時間の使用は死を招く事にも成りかねなかった。
それらの要因を考えるならば単独で三日間の長期移動を行える者など居はしない。だからこそ、レオノーレは天地を統べる者と言ったのであった。
「従姉様」
やるべき事、それは最早信じ続け、ラーレが決死で探し出した少年を待ち続ける事であった。故に、先走った公爵派に命を奪われてはいけない。
マイダンがどのように動こうが公爵家が一枚岩でないことは明白。何よりも、協力者たる組織もまた、一枚岩ではない。
「イルマ」
大声をあげて侍従を中に入れる。
「護衛を強化する。戴冠式が迫っておるからな。やつらとて、こちらの意図を勘違いしてくれるだろう。間違ってはおらんからな」
「……畏まりました」
一礼しして、即座に指示を出しに向かうイルマに、目元を赤く腫らしたレオノーレは大きく深呼吸を一つ。
皇女が何も知らない少女だったのならば、公爵家も反乱など起こさなかっただろう。いや、魔族もこのような回りくどいことをしなかっただろう。だがレオノーレは聡かった。それが原因。言うなれば、彼女が七光りのお嬢様ならば傀儡にしてしまったほうがはるかに楽だった。
レオノーレは密かに自己嫌悪に陥った。だが、それこそ姉と慕う従姉に申し訳なさ過ぎるので気を紛らわせるように、別に考えを持っていく。
「教会は、どう動くか」
今、レオノーレにとって一番の問題は中身の見えない教会であった。表向き、協力はしているが、敵対しているのもまた教会。それはいくら隠そうとしていても、レオノーレには判りきっている事であった。故に、この情報ですら信憑性は薄いと考えてしまう。しかし、だがしかし。この情報に縋るほかに、レオノーレが生き延び、帝国が生き延びる道は残されては居なかった。
「情けない……これが人類の築き上げた大帝国か。諸国が連合を組み敷いても攻め滅ぼせない国家なのか」
悔しさが、滲み出ていた。
時を同じくして、マイダンにもある一報が入り込む。その一報にマイダンは笑みを浮かべつつも、最後の仕上げに移るべきだと部下に指示を飛ばし、自身は公爵家に今回の戴冠式の前日に皇女暗殺を嗾ける算段をつけ始めていた。
レオノーレ、マイダンの両者にもたらされた情報は二つ。辺境伯の一人、エドゥアルト・エルツェの暴政が明るみになり、そのエドゥアルトは死亡。そして、天竜の二つ名を持った甲士、ラーレ・ライヒュンが死亡した事。
公爵はエドゥアルトの研究資料を対価に協力体制を敷いていた組織との亀裂が発生する事を恐れている。そう読み取ったマイダンはこの機に、皇女を亡き者として襲わせたかったのだ。マイダンにも研究内容は伝わってきている。並みの魔人――魔石を持つ人型の魔物――ならば相手にならないほどに強力だと知っている。だからこそ、天竜であるラーレが死亡しながら査察団の戦力で制圧出来たという事実に疑問を抱き、導き出した結論は異世界人が力を得たというものであった。
ならば、皇女たるレオノーレには正確な情報が協力組織から得られていると予想し、公爵家を動かす事を優先させたのであった。
皇女がこのまま手を拱いて死を受け入れるとは考えられなかった。
マイダンにとって、皇女であるレオノーレに対する評価はそれほどに高い。故に、気に入らないとも思ってはいるのだが。
このような事態を引き起こしたのも彼女の能力ゆえであった。腐りきった帝国の貴族体制に向けての建て直しがあまりにも性急だった。前皇帝の遺志だったとはいえ、中央集権を謳い過ぎていた。故に、反感を買いそこに魔族が付け入る隙を与えてしまった。マイダンがその際、強硬に反対したために皇女派から疎まれ、公爵派の辺境諸侯からは支持を得る結果になった。逆にいえば、マイダンが巧く公爵派に取り入り、公爵派の舵取りを任されている事にも繋がってはいる。だが、それでも時間は少ない。あれこれ過去を思っても意味がないのだ。
マイダンにも確証はない。査察団に組み込んだ甲士は全部で六人。軍神派甲士は信仰対象が軍神だけあって精鋭と名高い。異世界人でなくとも撃破は不可能ではないかもしれない。騎士も十二名。これまた軍神派教会からの補充である。どう見てもきな臭いと言わざるを得なかった。
「……いけ好かない奴らだ」
顔をしかめつつも、今はその軍神派の行動に感謝せねばならなかった。とにかく、その戦力だけを考えるならば皇女派からは信頼できる使者と衛兵だけの人員。もし失敗しても泥をかぶるのは教会という事になる。これほどの戦力ならば、勝つ事も出来なくはないとマイダンも考えた。
「いや、奴がこの戦力を想定していないはずはないか」
その言葉には、エドゥアルトに対する一定の評価が滲んでいる。何よりも、研究していた対象に対しての評価とも言って良いのかもしれない。
マイダンは静かに瞼を閉じて眉間に指を押し当てる。そうする事によってエドゥアルトの研究していたものを思い浮かべ始めていた。
魔石を使った人から魔族の生成。実現不可能だった人と魔の交配から混血の生産を長年研究し続ける探求と努力。作り上げた生命を道具といい、作品と呼ぶ。そんな男だったとしてもマイダンの評価は変わらない。
――俺がその成功例でもあるのだからな。いや、まだ成功とはいえないか。
そういって力無く笑みを浮かべた。
結果から言えば、マイダンが襲われた当時、エドゥアルトの実験は不完全だった。魔石を使った人から魔族を生成すること自体は成功したが、自我を奪うに至る事は無かった。だが、マイダンは成功したように見せかけ続けた。エドゥアルトはその成功に安心し、兼ねてより続けていた人と魔の混血から甲士と同等の力を持つ者の生産へ注力していく事になったのである。
だからこそ、エドゥアルトとマイダンの関係は、傍から見れば良好だっただろうし、エドゥアルトもそう思っていたかもしれない。だからこそマイダンは研究資料を比較的、他者よりも深く知る得ることも可能だった。だからこそ、確証は持てずにいた。
実力は申し分ない。マイダンのその評価が全てを物語ってはいるが、彼とて異世界人という可能性に縋りたい思いが強いからこそ、こうして公爵を動かすように立ち回っているのであった。
「殺されるのは、本望だな」
自嘲しながらも、マイダンは殺される事を本気で望み、この帝国が救われる事を願い、異世界人たる名前も知らない人物に縋るのであった。
マイダンには妙な自信があった。かつて栄華を誇った大帝国。魔族との戦争の防壁として長らく君臨してきた国家。その帝国が今ではボロボロの状態。それでも、マイダンには妙な自信があった。
「全ては教会の思惑通り、といったところか」