二十三
三人称。データここまで。
目の前で、人が死んでいく。もう見たくもない光景が広がっていく。何故だか判らないけれど、それが酷く夢心地に感じられていた。人は、こんなにも簡単に死んでしまう事を、改めて実感させられている気がしてくるほど呆気なく、僕が大切だと思っている人が今、死のうとしている。
僕とラーレを守るために、甲士の人達が戦っていた。それなのに、あの男には勝つ事が出来なかった。だからこそ、今こうして僕の周りは静寂に包まれている。けれど、そんな事はどうでも良かった。
本当に、何でだろう。僕は、僕が悪いんだろうか?
「嫌だ。何で、どうしてこんな事に……」
夢だと思いたいけれど、そんな事が出来るはずもない。結局、ティルラの時と何も変わっては居なかった。変われると思っていたのに、変わるべき大事な場面で元の自分のままだという事に気付かされただけだった。何も守れない、何も行動できない。結局のところ、自分は何故生きているのかすら判らない。
まるで迷子だ。自分でそう思ってしまうほどに、僕は何も出来ない人間だった。
「僕は」
――変われる。
ラーレはそう言ってくれた。それなのに、何をしているんだ。本当に、僕はどうしたくて、ずっとここにいる。
「簡単な事だな」
思わず、その言葉に身体が反応して顔を挙げてみる。領主であり、今まで虐殺の限りを尽くしてきた暴君たるエドゥアルト・エルツェがそこに悠然と佇んでいた。
何でだろう。何が違うんだろう。目の前で笑う男と、何も出来ずにいる自分との差は何だろうか。答えが出るはずもない自問に自答など出来るはずもなかった。
それでも、僕はこの男の言う言葉を聞きたいと思った。自分の中にはない答えを持っていると思った。
「お前が弱いからだ。そうそう、お前は弱い。いくら身体を鉄のように鍛えようと、お前の弱さは変えられない」
そんなこと、判っている。判っていたはずなのに、いざ言葉に出されて頭ごなしに言われてしまえば反論する事も出来なかった。今の僕には声を挙げる元気すらも残ってはいないことも関係している。だって、僕を救ってくれた人が死にそうなのに――
”僕はもう諦めている”
全てに、諦めてしまっていた。そうなってしまえば、僕自身を突き動かすものなんて興味と好奇心しか残っていない。
「どうして、そんなに笑っていられるんだ」
「何で、どうして……うんうん。それは楽しいからだよ」
楽しい?
人を殺して、街を暴政で縛り付けて、それで楽しい。
単純すぎて、眼から鱗が零れ落ちた。楽しいから、笑っていられる。そうだった、人は楽しいから本当は笑うんだった。僕のように、笑う事で相手の様子を見て、機嫌を伺うだけのための手段じゃなかった。本当は、本当は……。
「夢を見る」
笑う事なんて出来ない。
「夢?」
聞きたい。僕は知りたい。どうして、目の前の男は笑っていられる……いや、何で楽しいと思えるのかを知りたい。どうして酷いことをして楽しいと思えるのかを知りたい。きっと知れば、僕は理解できる。きっと、どうしてから判らないけれど、この男の笑みを僕は知っている。それは、ティルラであり、ラーレであり、母さんであり、虐めてきた人でもある笑い方。場面は皆違うのに、皆同じ。楽しいから笑っていた。嬉しいから笑っていた。だったら、どうしてか知りたい。
「殺した人が、死んだ人が、虐めてきた人が、呻き声を挙げる。暗闇の中で、ずっとずっと」
どうして、人を傷つけて笑っていられるのかを。
どうして、人を殺しておいて笑っていられるのかを。
僕は知りたい。そして、僕も笑いたいと思った。
「ふむ、人殺しによる罪悪の所在定義か。中々に難儀な事を考えたものだな。そんなものは自己保身に過ぎない考え方だぞ」
エドゥアルトは僕に向けて哀れみを向けた。それでも構わない。僕にとって哀れみなんて何の意味もない。今、知りたいのはもっと別の事で、僕がどう思われてしまおうがどうでも良かった。
「皆、心のどこかで何かを殺す。人ですら容易く殺す。しかし、それを実行しないのはそれが罪になると思っているからに他ならない。だからこそ、衝動的に殺しが発生するというもの。お前は、殺す事に何を感じた? 殺したいと思ったのならば、殺し。殺して何が変わると思ったのかを良く理解する事だな」
殺す事に、何を感じたか。反芻するその言葉に、頭の中が澄み渡っていく。
人を殺している。そうだ、僕は人を殺している。それは理解しているのに、殺した時に自分が何を思い、どうして殺したかを覚えていない事に気付かされた。
どうして、僕は殺した?
殺したかったからか。ティルラを殺されて怒ったからか。でも、どうして殺さなければいけなかったのかを自分に問い掛けてみても、答えは返って来ない。
「俺は人殺しを罪だと思っている。だが、それでも崇高なる研究の礎には不可欠な行動だ。だったら、俺は研究者として率先した殺人を犯す。純然たる大義のために、俺は他者の命を奪っている。お前のように後悔などはしていないぞ? 何故だ、必要だと思っているからに他ならない」
「後悔?」
僕は、後悔しているのか。人を殺した事を、僕は後悔しているんだ。
「その事にも気づかないのだから、お前は悩み苦しみ、逃げるためだけにこのような行動に突き動かされたのだな。憐れ……憐れだろうな」
ため息を吐き出された。まるで僕にかけるかのように深いものだった。
「俺には、明確な動機と意思が介在し、それを理性という器の上で転がしている。それを、お前は悔やんで悔やんで、まったくもっと他に悩む事が、後悔するべき事があるだろうに。若いんだから」
「僕は……」
ずっとこのままなのだろうか。
「ふむ。なるほどなるほど」
後悔して、苦しんで、悪夢を見て、このまま生活していくのか。いや、そも今の僕は生きている価値があるのだろうか。家を捨て、故郷を捨て、大切な人を失い、人を殺してまで生きている僕に、一体どんな意味があるんだ。
誰か、教えてください。僕が、何で生きているのかを教えてください。
死ぬ事が怖い。
生きる事が怖い。
僕はどうしたら良いんですか?
誰か、助けてください。僕を救ってください。僕はどうしたら良いんですか。何をすれば良いんですか。理由を下さい、誰か僕に理由を、死ぬ理由でも、生きる理由でも良いんです。何かをさせてください。
「異国人、そして天竜が庇ったところを見ると、お前は異世界人といったところか。さてさて、どうするかな」
――一磨、生きて。
「生きて」
眩しい光が、僕の視線を遮る。刀が刀身で持って鏡の役割を担っていた。その横には、ラーレが眠っている。ラーレは、変われると言ってくれた。でも、最後は――
「生きろ、そう言った」
そうだよね。ラーレ。あの時、きっとラーレは最後にそう言ってくれたんだよね。
「落ち着きたまえ、易々と殺しはしない。お前の血統は貴重だからな」
僕はゆっくりと刀を握る。全身が悲鳴をあげているけれど、心地良い痛みだった。何故だ川からない。それでも、僕は今生きている。
「母さんが、生きてと言った。ラーレが生きろと言った。どうして?」
刀を両手でしっかりと握る。基本はまっすぐと背筋を伸ばして片足を引いて腰を据える。僅かに刃を内に切り、切っ先は相手の胸元より少し上に向けて正眼とする。
中段における正眼は全ての基本となる。祖父は僕にそれを教え、攻防の移り変わりを叩き込んだ。何故、祖父は僕に稽古を付けたのだろうか。何故、僕を痛めつけたのだろうか。どうして、僕は嫌な思い出しか残っていない稽古を思い出して、構えを作っているのだろうか。
僕は人を殺した。稽古で教わった事を実戦で使い、何の嫌悪も無く肉を断ち切った。だけれど、僕は夢を見続ける。怖いと思う、その夢を僕は怖いと思っている。
僕だって、死ぬが怖いからだ。そうだ。僕は人を殺した時、自分もこんな風に死ぬのではないかと思っていたんじゃないだろうか。だから、怖い夢を見る。曖昧な記憶でしか斬ったときの事を覚えていないのは、怖い事を思い出したくはないからじゃないのか。
死ぬのが怖い。そう、僕は死にたくはない。だからあんなに強制された稽古の構えを作って、生き残ろうとしているんだ。
「やれやれだな……だがしかし、綺麗な構えだ。相当に鍛錬を続けてきたのだろうな。その姿勢、惚れ惚れするぞ」
エドゥアルトはそんな言葉を零した。
「さてさて、お前の問い掛けに答えてやろう……死ぬ身からすれば他者である知己、あるいは親族に値する良好な人間関係を持っている者に対してならば、そのような希望を持たせる意味合いを持たせつつも自分が死ぬ事によってこの世界から消滅する恐怖を和らげる効果があるのかもしれないな」
親しい者。そうなのかな。僕にとって母さんは母親で、ラーレは大切な知己とも言える人だと思っている。勝手にそう思いこんでいただけかもしれないのに、なんとなく安心している気持ちが確かにあった。
僕は静かに動く、一歩で踏みより逆袈裟で切っ先を這わせてから持ち上げた。それを、相手は軽々と避ける。
「いやいや、案外と忘れて欲しくはないからそう言うだけかも知れない。中々に面白い話だ」
そういって、手加減された、遅い刺突の直射が降りかかる。身体から伸びる黒々とした鋭利な刃を木の葉のように左右で揺らめきながら避けていく。
忘れて欲しくはない。
「解る、気がする」
「解る、解るか」
奇妙な光景かもしれないけれど、僕とエドゥアルトは手加減しながら刃を放ち合っていた。打ち合う事はせずに、避けて放つ。その繰り返しは静かながら風の斬る音と大地を踏みしめる音が軽妙な奏でとなっていた。荒い息の縫い間に僕は語りかけ、エドゥアルトは答えた。
「死ぬ直前に生きろと言われた」
「それはそれは、面倒くさい事だな」
「それから、僕の地獄が始まった」
「それでそれで?」
「逃げ出して、出会って、助けられて、また逃げて、助けられて、約束して、守れなくて、恨んで、行動して、足手まといになって、また生きろ言われた」
「愉快な人生だったな。いやいや、これからも続くぞ。お前はそういう運命なのかもしれん」
「死ぬのが怖い?」
「怖いものは怖い。それは人として当然の感情だな。お前は今、恐怖しているだろう?」
「うん」
「それで良い。それでな」
「生きたい」
「案ずるな。助けてやる。生きて、活きてもらうことになる」
「誰のためでもない。誰でもいい。僕は僕で僕」
「所詮、個々において縛り付けられる道理はない」
「僕は、生きる」
身体が熱くなる。刀を持つ右手が焼け爛れていくようだ。声が思わず、口から零れ落ちる。痛い、けれども、それが心地良い。僕は生きているんだから、痛くて、苦しいんだ。
「ふむふむ……これは、参ったな」
全身が音を立てていくのと同じくして段々と視点が上がっていく。熱気が溢れ出てくる。それを留める術を知らない僕は、ただ放出する事しか出来ない。
息苦しい。呼吸の音色が篭ってくる。それなのに、どうしてこんなに高揚がはちきれそうだ。
苦シイ、苦シイ。
「眠っていた悪魔でも起こしてしまったか、いやいやまさか俺の研究が既に完成していたとはな」
エドゥアルトは楽しそうだった。今更だけれど、狂っているのにこの男は人として確固たる芯を持っていたと思う。僕なんかよりもよっぽど、人間として、出来ていた。本当に、今更ながらにそんな事を思ってしまった。
殺す相手だけれど、良かった。殺す価値のある人間で。ティルラを殺した男が、ラーレを殺した男が、どうしようもない狂人ではなかった事を素直に、受け止める事が出来た。
生キタイ、生キタイ。
「どうしてどうして、研究というのはこれだから止める事が出来ない楽しさを秘めている」
死ニタクナイ。
なんだろう。世界が変わったのかな?
「だが、たとえ俺の研究成果が既に完成されていたものだという結論が目の前に体現したと言うに等しくとも。これだけは、嗚呼、これだけは言える」
ティルラ、ラーレサン。僕ハ生キタイデス。
――私なんかよりずっと、懸命に生きています。
ティルラ、ありがとう。生きてみるよ。頑張ってみるよ。
「アア」
――お前は、変われる。生きろ。
ラーレ、変われているのかな? 世界がじゃなくて、僕が変われているのかな?
母サン。僕ハイキタイデス。
「我が研究の完成形をこの眼で拝めた。それだけで、俺は満足だぞ。少年」
――一磨、生きて。
僕ハ生キル。
「天地を統べる者……魔と人を超えた存在。やはり、俺は間違っていなかった。嗚呼、魔と人。天と地の融合。なんと、なんと美しくも猛々しい――」
死んでくれて、殺されてくれてありがとう。