二十
ティルラが笑みを浮かべて、僕の帰りを待っていてくれる。
お帰りなさい。口元がそう動くのだけれど、声が聞こえてくる事はなく、次第に彼女は揺らめいて、暗闇の中に溶けていく。
次第に苦しそうな声が聞こえてくる。助けを求めてくる声が聞こえてくる。幻聴だって判っているし、これは夢だってわかっている。
僕は指先一つ動かす事が叶わずに、悲鳴を聞き続ける。僕の叫び声のようで、ティルラの叫び声のようで、誰かの声にも聞こえてくる。家人にも、祖父にも、母さんにも。
”僕が殺した男にも”
その声は止まってくれない。耳を塞ぐ事も出来ない。延々と僕はその声を聞きながら、眼が覚めるまで待つことしか出来ない。
誰か、誰か。
そう願い、口を開けることが出来た頃になると、いつも僕は目が覚める。
「起きたか」
「おはようございます」
誰かが、いつも僕の傍に居てくれた。魘されていると言われた時、僕は気恥ずかしかったけれど、誰もが経験する事だと慰めてくれた。
城の見取り図を頭の中で思い描く事も出来るし、水堀の中に梯子を隠す事も行った。
領主の動きも観察対象として見張り役を立て続けてきたが、何者かが領主と会っているような動きを見せ始めた事に、決起は近い事を悟る事ができた。
戴冠式。皇帝が崩御してから長らく空位だったのだが、ここにきてようやく皇女様が即位するという事になって、諸侯が帝都へ向かう。その隙に、僕達は動き出す。
もうすぐ始まり、もうすぐ終わる。
全てが過ぎ去れば、夢を見る事もなくなるのだろうか。
僕はいつも、一間で正座をして瞑想に耽る。剣の稽古は欠かさないし、見つからないように気を使っている。
殺す事に迷いはない。だけれど、本当は怖い。その気持ちを消し去ろうと必死になった。邪な考えだと思う。殺したいのに殺すのが怖い。誰か代わりに殺して。そんな思いすら沸き起こった。それを必死に打ち消す事に集中してしまう自分がいる。今こうして眼を瞑り、闇の中で漂い続けてみても、ころしたい感情が消えるわけでも恐怖が消えるわけでもない。だけれど、こうでもしなければ自分の激情を有耶無耶には出来ない。
あの夢も、見たくはない。もう苦しみたくはない。
僕は復讐と共に、この悪夢から逃れる術を欲し続け、行き着いた先がやはり殺すという行為だった。
迷いたくはない。終わらせたい。こんなに苦しい日々を過ごしたくはない。もうティルラに会えないなんて考えたくはない。
助かりたい。救われたい。変わりたい。変えたい。
殺すんだ。それしか、だからこそ、
「動く」
その言葉に、僅かばかりの武者震いを起こす。無言で頷き、彼の背中に続きながら路地の裏から離れ離れに行動を始める。
朝、城壁上の配置されている兵の配置変えと交代が行われる。本来ならば、襲撃は夜のように思われるけれど、夜は警戒が固く少数では難しいと判断されていた。
だからこそ、朝の安寧を狙うのだ。
やっと一息つく、今日も始まったか。そんな気持ちを持っていてくれる事を願うほかない。
合流は現地だった。僕は朝霧が薄く纏わり付く城下町を歩いた。朝になったにも関わらず、ここは死んでいる。まるで心地よい夢の中に浸っている方が幸せだと思っているように、穏やかな死を享受しているかのように。
思わず顔が強張った。そして、頭を冷やす。民に激情したところで何かが変わるものではなく、これは僕の嫉妬でしかない。悪夢を見ずに済んでいる人々に対する嫉妬で、僕は今そんなことに構っている暇はない。そう言い聞かせながら、衛兵に見つかる事無く、水堀を視野に治める。そこから、横に回り、城の側面へと移動していく。背面は既に同士が向かっている頃合いだろうし、僕にとっては、多少見つかったところで斬り結べば陽動になるとも考えている。
沈んでいく僕の感情は決して浮上してこない。邪魔な物を置き去るように、冷たい心の深淵にそっと仕舞い込む。
城壁上に衛兵を確認する。人数は五人だが、気が緩んでいるのが判る。手槍を城壁に立てかけている者すら居るのだから、そうとしか考えられない。
気配を消す。
僕は影だ。朝焼けによって発生した城壁の影、その一部。ただ影は暗がりに存在する薄っぺらいものでしかない。僕は影、何処にでもある影そのもの。
言い聞かせる。呼吸を整え、人である事を忘れる努力をしながらも水堀に入り込む。気付いていないだろう。水堀が影に覆い隠される事は何ら不思議ではない。
僅かばかりの水音を鳴らして、僕は水面から姿を消す。沈めておいた梯子の位置を目指して、今度は魚のように水の中を泳いでいく。
腰から、小太刀を抜くと梯子とに括りつけていた岩を縄ごと切り捨て、城壁に縛っていた縄を切ると、梯子は独りでに浮上していく。僕はただそれに寄り添いながら、顔を水面から覗かせた。
通常の平城よりも城壁の背丈はあるけれど、網目上の石作りは稚拙だった。これならば、梯子も必要ないかもしれないが、素早さを重視するならば、ある程度の高さまで確実に上り詰める事が出来る梯子は有効活用したい。
その逡巡に水を差す出来事――違和感が僕を襲った。
思わず、辺りを見回す。けれど、不審な点は何も見受けられない、なのにどうしたって身体が何かに反応していると思えてくるほどに騒がしい。
一体何が。
思わず、口を動かして呟いてしまう。
「侵入者だ!」
城壁で声が挙がり、慌しく石の上を動く音が伝わってくる。
しくじった。
咄嗟に、逃走するため水へ潜ろうとするが、こちらに視線が向けられ居ていない事に今更ながら気付く。と、すると同士が発見された事になる。
そう判断した瞬間から、僕は梯子を掛けて隠密も意識せずに駆け上がった。
”誰かが見つかれば、そいつは囮となる”
僕達で交わされた決め事の一つだった。見つかった者は盛大に注意を引き、簡単に死ぬ事は絶対に許されない。
勢い良く梯子を登りきると、城壁の隙間に指を掛けて一気に身体を押し上げていく。足先も同じ要領で僅かな出っ張りを利用し、やがては頂上へ降り立った。
「貴様、こんな事をして」
衛兵が槍を突き出してくる。身を捻りながら小脇に槍を挟み込むと思い切り、堀側へ衛兵を押し込むように槍を動かす。そうすることによって体勢が崩れれば接近して殺せば良かったが、本当にあっさりと想像した通りに事が運び、衛兵の喉元を掻き切った。
刀も脇差も今は必要ない。抜刀しながら走るのは邪魔になる。僕は小太刀を握り締めながら、走っていく。
古い見取り図ではあったけれど、城内の構造は完璧に叩き込まれている。迷う事はないが、果たしてこの一大事にのこのこと領主は留まるかは判らない。急ぐ必要があった。
中庭を抜けて室内に入り込むと、僕は眉を顰めた。
どうしたって警備が薄い。何よりも、人の気配がしていなかった事に、気付く。
火の手が挙がっているのを確認する事は出来たけれど、剣戟の響きも、騒音たる人の息遣いも聞こえては来なかった。
何がおかしい。
そう思ったときには既に身体が勝手に動いていた。何度目だろうかと考えれば三度目と思い当たる節がある。
いずれも魔が傍にいた。だから、今回も――
「予定の鼠かと思ったが、いやいやただの虫だったか」
声がした。
だが、思わず振り返ったのは強烈な殺気が突き刺さっていたからで、殆ど無意識に抜刀し、光っただけの刃を半ば運だけで受け止めたにすぎなかった。
「これはこれは、素晴らしい、生身でそれを受け切るか……小僧」
化け物と僕は今、互いの吐息が顔に触れ合うほどの近さで見つめ合っている。いや、瞳なんてものは存在していない。それは仮面兜を被っている人のような化け物だった。だから、本当に吐息が触れてくる事もなく、僅かな息遣いだけが荒々しく篭りながら聞こえてくるだけだった。それでも、僕はその化け物から視線を外す事は出来なかった。外したらどうなるかを理解している。
”僕は死ぬ”
理由なんてどうでもいい。僕はここで死ぬ。何をしても、どう足掻いても僕は目の前の化け物に殺されてしまう事が確定していた。全身が凶器だと言われても納得できるほどの威圧に踏ん張る事しか出来ない。とうにせめぎ合いで四肢は疲労でせせら笑い、いつ崩れ落ちても不思議じゃない。僕の身体だ、どんな状態かなんて即座に判る。
たった一度、不覚ですらない、むしろ良く刃で受けたと自分を褒めてあげたい。けれど、その動作自体が命取りだったんだ。
動く事すら出来ない。相手の行動に少しでも反応できるように全神経を集中させて対処しなければならない。
「中々、達人と呼ばれる小僧を圧倒できる程度には強いか。精度も良いな」
化け物の後から声が聞こえてくるけれど、僕は除き見る余裕すらない。ただ、男だという事だけは判る。それと、笑っている事も。
「甲よ。ほどほどだ、手を抜け」
その言葉を皮切りに、押し込みが緩み化け物が間合いを取った。そのことから化け物は甲と呼ばれている事が判り、化け物――甲の後ろから楽しそうに指示を出した男を確認する。
「エドゥアルト・エルツェ」
「さてさて、復讐の対象とご対面だ。もう少し喜べばよかろう」
屑だという事が良く判る。楽しい、何が楽しい。あの男は一体どうしてそんなに楽しそうな笑みを浮かべている。ティルラのように純粋な笑みを、アイツは飄々と作り出している。
どうして。どうしてあの男は笑って生きている。
どうして、ティルラは笑って死んだ。
何が違う。どうしてこんな違いを与えた。神様、貴方は人間に何をさせたいのですか。
叫んでいた。僕は力の限り、腹からありったけの大声を張り上げた。理由が次から沸いて出てくる。あの男を殺す理由など後からでも即座に思いつく。
その顔を止めろ。笑うな。声を出すな。
お前は、笑って生きてはいけない人間なんだ。
「心地良い殺気だな、気分が晴れ渡る。小僧、精々気張りたまえよ」
その笑みを恐怖に染め上げる。
やってやる。
殺してやる。