弐 一ノ二
十河家。一磨の生家であり、内海地方で名を馳せた武家の一門。かつてこの地を治めた内海家に仕えた家でもある。
その十河家が所有する白い壁に囲われた土地内には立派な稽古場が二つ存在し、内海湖が作りなす朝もやの中でも刀と男達の気迫が響き渡る。一つは門下生を取って指導する道場。もう一つは身内を稽古し、大殿と呼ばれる一磨の祖父との稽古に使用される小さい稽古場だった。道場は表門の前にどっしりと居構えているが、小さい稽古場は屋敷の後ろ、表門から最も離れた場所にこじんまりと佇んでいた。
今、小さい稽古場では二人の男が刀を向け合っている。一人は白の総髪を後ろに蓄えている老人。線が細い体つきではあるが、握る刀は揺れてはおらず、相手を見据える視線は鋭い。まるで真剣を思わせる鋭利さを兼ね備え、対峙する少年に向けられていた。
対する相手は僅かながら薄い黒の色合いを髪に持つ少年。背丈は老人よりもあり、研ぎ澄まされた――綺麗な卵型の輪郭、なめらかな白い肌が印象深い。
両者は別段言葉を交わすわけでもなく、道場で聞こえてくる裂帛を放ち合うこともせず、にじり寄って間合いを詰めては切っ先を動かす動作が行われている。交わりはしないが離れすぎてもいない。傍から見れば奇妙な間合いだった。打ち込むにしては少し遠いように見える。
遠くから小さいながらも聞こえていた威勢の良い声がぱたりと止んだ。朝稽古が終わったようだ。
今、この世界では音が消えてしまっている。閑散と開け放たれた障子と廊下を隔てた庭園でさえ鳥のさえずりも、風が木々を奏でる事もなかった。
息が詰まるほどの静寂が、老人と対峙する少年――十河一磨に纏わり付いてきていた。重い、その空間の真っ只中で一磨は刀を握り、呼吸を整えながらも対峙する相手からの攻撃に反応するべく正眼に構え集中している。中段の基本形は僅かに刃が内に向き、相手の胸より少し上、鎖骨あたりを切っ先が捉えている。
一磨にとってこれは実戦を想定した稽古だった。いつもは竹刀を使うにも関わらず、両者が今持っている得物は刃挽きされた刀だった。
全ての機先に反応しなければ、また痛い思いを味わう事になってしまう。一磨はその思いを胸に秘め、無意識のうちに一歩、すり足で下がってしまった。まだ打ち込まれてもいない内に、一磨は祖父の放つ威圧に呑まれてしまっていた。いつもの事である。一磨は得体の知れない化け物を相手取るという奇妙な感覚に襲われている。一磨にとって、祖父はそういう人物だった。
一磨の祖父は強い。子供の一磨が太刀打ちできる相手ではなく、祖父は今なお現役の師範代を打ち負かす気迫と技術を持っていた。今も、まったく動く気配すらなかったのにも関わらず、一磨は身を引く決断を無意識に下し、それを実行して間合いを取ったにも関わらず、祖父が一磨の目の前に迫っていた。
元来、刀において間合いは勝敗の優劣を決める判断材料になり得る要素だった。見たところ、身長では僅かに一磨が勝っている。間合いからいえば僅かに一磨が有利だった。腕背丈もあれば腕も長いものなのだが、両者に存在するその差はあまりにも微々たる物でしかなく、優劣に反映される事はなかった。
一磨にはその祖父が鋭い一撃を放ってくる事を理解している。腰を折った祖父が視界から消えるようにして、下へ潜り込んで来ている。一磨は放たれるであろう抜き胴を避ける事は出来ないと既に悟っていた。
悟っているからこそ、一磨の身体は素直に動いていく。
胴に来る。力を入れろ。だけれど決して我慢するな。痛がれ、もう立てないと思わせるんだ――。一磨の願いに身体は忠実に反応して見せるあたり、相当に鍛錬を積んできている事が窺い知れる。
一磨は祖父の一撃を甘んじて受けた。真剣ならば、腹を一文字に斬り裂かれ内臓があふれ出てくるところだろうが、これはあくまで稽古。一磨に襲い掛かったのは、一瞬だけ左わき腹の感覚が失われ、即座に振動しながら容赦なく針を突き刺されているような痛みだった。
祖父の一撃は本当に容赦がない上に堪らなく痛いことは一磨が浮かべる苦悶の表情からも一目瞭然だった。いくら一磨が腹に力を入れようとも、その痛みが消え去る事は叶わない。一磨は痛がって見せたが、その痛みは本人からすればこの一撃は、ある程度、ほんのちょっぴりだけ慣れた痛みとなっていた。身体はせめてもの抵抗をと思い痛みを和らげるよう一磨の意思とは関係なくに動いていた。
一磨はその行動を必死に隠す。痛くないと思われれば何をされるかわからない。なら、現状を受け入れ、現状で満足させる必要がどうしてもあったが、痛いことに変わりはない。
祖父の一撃は、元々演技なんかしなくても痛い。いくら慣れた痛みといっても限度というものがあるということだ。
激痛である事を無意識に理解しているからこそ、一磨の身体は勝手に動いてしまう。それほどに、染み付いたと言って良い癖のようなものだった。どの部分で受け止めると痛みを緩和できるのか、身体はそれを覚えてしまっていた。
出来る限り刺激が襲ってこないように腹筋に力を入れてもなお、激痛と呼ぶに相応しい感覚が這ってくる。
身体の中から何かが喉を駆け上る感覚に耐えつつも、千本で勢い良く刺されて行くような痛みに堪らず眉間に皺を寄せて、目を瞑り歯茎を見せてしまった。手は自然と打ち込まれたわき腹と口元に向かい、刀は音を立てた。
一磨は膝を折った。苦しくて、乱れた呼吸を必死に落ち着かせようとしている。
これが、十河一磨の日常だった。
頭を打たれれば意識が飛び、水を掛けられ、打ち合いは続けられる。何処を打ち込まれても結果は殆ど同じ。立たされて、満足するまで相手をさせられる。今日は腹だったという違いだけ。
たった一度、打ち合いとすら呼べない稽古を経験しただけなのだが、一磨の身体は悲鳴を挙げている。それほどに祖父の一撃は強く、対峙して浴びせかけてくる威圧は無言でありながら裂ぱくを感じさせるほどだった。
「立て」
「はい」
祖父の無慈悲な要求に一磨は苦しみながらも返事をする。
拒んだ事は一度たりともありはしなかった。拒めば、何をされるかわからない。
一磨は、予めどうなるか判っている方を選び、どう対処するかを考え抜いた方が良いと一磨は思っている。
その考えの元、一磨は呼吸を整え再び構えを作ったのである。
構えは先ほどと変わらない正眼で、間合いも先ほどと変わらない。切っ先が交錯し、僅かに上下する。刀身でいうところの鎬で交わる刀の攻防は、またしても祖父の挙動によって打ち破られる。
一磨は一度でも祖父に自分から触れた事は無い。いつも祖父が触れてくるのだ。
今も、一磨は祖父を目の前にして、自身の右手首が切り取られた錯覚を覚えると共に腕を駆け上ってきた激痛に顔を歪め、刀を落としてしまっている。
「立て」
「はい」
先ほどと同じ事が繰り返される。
祖父は一磨に触れる。妥協を許しはしない。痛めつけるのだ、徹底的に。
一磨にとって、この世界は全てがそう出来ていた。この狭苦しい世界ではそれが普通だった。祖父のように厳しく、無慈悲だった。
挨拶をすれば無視をされ、しなければ挨拶しろと手と暴言が飛んでくる。食事は皆が食べた後に残飯を食らい、後片付けは使用人ではなく、全て一磨が始末をつけた。
鍛錬という名の体罰が日常化、日課とも言うべきものに変化し、一磨の身体はいつも傷だらけだった。
罵声にはいつも汚い子、忌み子が付き纏う。汚物を見るしかめ面を張り付かせ、一磨を嫌う。
一磨に投げ掛けられる悪口は、自然と一磨の両親に向けられた侮蔑にもなっていた。一磨がその事に気付いたのは八歳か、九歳の時分であった。
時に稽古で打ちのめされ、時に躾と称し殴る蹴るの暴行を受ける中で、一磨は思い続けた。
何の罪がある。生まれたくて生まれてきたわけじゃない。生まされてこの世界に落とされたんだ。全てを押し付けて、一体何をさせたいのか。
激情を吐き出す事が出来るのならば、どれだけ楽だったのかを考えることはない。吐き出せばどんな体罰が待っているのかを考えてしまう。決して口には出せず、思いを必死に呑み込んでいた。
一磨は打ち合う。甲高い音が何度か響く。太刀筋は完全に読まれているのか、思うように攻め込めずに弄ばれる。
「この程度で攻めあぐねるな」
祖父の叱咤が、攻防の移り変わりと共に放たれる。
「申し訳ございません」
一磨は逆に打ち込まれながらも口を開いて謝った。
一磨の母は綺麗な人だったと言える。十河家の誰もがその事に対して文句は言わなかったのだから、本当に美しかったのだろう。
母は一磨にとって美しくて気高く、それでいて優しい存在だった。自慢の母だったとも思っている。常に優しく接してくれた母だった。一磨はその母を自慢に思いつつ、恨んでも居た。
一磨の母が自殺してから、もう十年にもなる。十年間、母が何故死を選んだのか。一磨は味わい続けている。
言われなき誹謗中傷に口ごたえでもすれば、たちどころに折檻の対象となり、恍惚な笑みを浮かべた親族達が一磨の身体を痛めつけた。口ごたえせずとも目が気に入らない、態度が不良だ。理由というにはあまりにも稚拙で適当なものを浴びせかけながら口実を作り、一磨は痛めつけられた。
これは、教育だ。これは、躾だ。
耳にタコが出来るほど聞いた言葉をまるでお経のように続けていく。その様を、それこそ脳裏に烙印でも焼きつかれたように見てきていた。
――どうして僕はこんな生活を送らねばならないのか。
そんな判りきっている事を考えては、人知れず涙を流す事もあった。今では涙を見せる事もない。見せれば笑われ、体罰は深刻になっていったからだ。良い気味だと罵られ、一磨は地べたを這う。だからこそ、泣く事を止めた。
「今日は先客がある。ここまでだ」
いつもより短い稽古が終わりを告げる。息をするのが辛いのは身体の至る所を打ち込まれたからに他ならない。それでも、一磨は声を絞り出す。
「ありがとう、ございました」
一磨の祖父は厳格な人だ。だからこそ容赦をしない。それでも、剣術指南役――師範代からの暴力を受ける稽古よりはまだ、祖父との稽古は鍛錬という言葉の範疇に収まっていたとも言えてしまう。
一磨にとって、それが唯一の救いとなっていた。
「汗で床が汚れておる。きちんと掃除しておけ」
祖父はそう言って、立つ事も出来ない一磨を一瞥してから、稽古場を後した。
一磨は、正座するようにその場に崩れ落ちた。小さな稽古場には誰も居ない。独り、だからこそ、許された。
言葉にせず、声を挙げず、一磨は思いを胸中にぶちまけていく。
――これは一体何のための稽古なんですか。教えてください。僕が痛めつけられるだけの稽古に何の意味があるのですか。人を殺すための稽古を、どうしてこんなにも苦しみながら経験しなければならないのですか。何のために僕はこんな事をしているのですか。僕は一体、何の為に生きている。何の為に、こんな仕打ちを受けているんだ。
一磨はその思いをぶつける事も、吐き出す事も出来なかった。ぶつけてしまえば、吐露してしまえば、今の日常がもっと悪いものになってしまうかもしれない。そう考えてしまうと、どうしても怖かったのだ。
一磨のその考えが自分自身を縛りつけ、邪魔をしてしまい、どうしても動く事が出来なかった。
神様が居るのならば、助けてくれても良さそうだと考えたりもした。
本当に神様が居るのならば助けてくれる。その前提条件に一磨は思わずため息を打ち漏らす。よくよく思ってみればそれこそ高望みでしかない。どれほどの人間がこの大地を跋扈しているかを考える。この十河家が存在する広大な内海の地でも、十万を超える人々が住んでいる。いくら軍神様に女神様が祀られるこの内海でも、自分だけに構ってくれる暇なんてありはしないと思い至る。
再度、先ほどよりも幾分長いため息を鼻からゆっくりと吐き出した。そのまま深呼吸を何度か行う。幸いにもここには一磨以外に人は居ない。気兼ねなくため息のような深呼吸を吐き出す事が出来ていた。
落ち着いたのか、一磨はゆっくりと身体を浮かせて起き上がると、重い身体を眩しく光る外の世界に向けた。綺麗に手入れが成されている緑の奥。そこには白い壁に黒い瓦を被った壁が聳えている。
一磨はその上に広がる世界を眺めた。一磨の身長でも手を伸ばし、全身を使えば飛び越える事が出来るその壁の向こうに見える空は、白い雲が悠然と流れ、青々とした天空が人々の住まう内海全体を覆っている。その光景は、綺麗だった。
もうすぐ春がやってくる。ここのところ、癇癪を起こす赤ん坊のように天は荒れたけれど、ようやく落ち着いた兆しが見え始めている。今日は晴天に恵まれているところから察するに、予想は当たっているのかもしれない。一磨は、ゆっくりと立ち上がった。
震えている身体にもう少し頑張ってくれと無意味な励ましの言葉を掛ける。節々は変わらず悲鳴を挙げている。もう少し休ませてくれと懇願してきているも、一磨はその要求を断り続ける。受諾してしまえば、さらに酷い仕打ちを受けてしまうからだ。
祖父ではない。一磨の姿を見た者は皆、こぞって一磨を痛めつけるだろう。喜々として、蹴りつけ、殴り、弄ぶ。
想像してしまったかのように、一磨は首を左右に振った。
それは駄目だ。それだけは御免被りたい。痛いのは嫌だ。これ以上痛い目を見たくは無い。一磨はその思いに基づいて動き出す。