第9話:聖女の戸惑い
ゼノンたちから逃れるため、俺はエリアを背負い、がむしゃらに森の中を走り続けた。
どれほどの時間が経っただろうか。完全に追手の気配がなくなったことを確認し、ようやく足を止めた時には、日はとっぷりと暮れていた。
「はぁ……はぁ……」
さすがに体力を消耗し、俺は近くの巨木に背を預けて荒い息を整える。
「リアンさん……大丈夫ですか?」
背中から降ろしたエリアが、心配そうに俺の顔を覗き込んできた。彼女の顔色は、恐怖と疲労で蒼白になっている。
「俺のことはいい。あんたこそ、体は大丈夫か」
「はい……。でも、あの方たちは……リアンさんの、お仲間だったのでは……?」
エリアの問いに、俺は言葉を詰まらせた。
仲間、だった。過去形だ。俺が彼らを裏切ったあの日から。
「……もう、違う」
俺はそれだけ言うと、口を閉ざした。エリアも、それ以上は何も聞いてこなかった。ただ、その紫色の瞳には、俺への申し訳なさが滲んでいるようで、見ていられなかった。
その夜は、小さな岩陰で野宿をすることにした。
俺が焚き火の準備をしていると、不意に、森の暗がりから人の気配がした。俺は即座に聖剣を手に取り、エリアを背後にかばう。
「……誰だ」
俺の警戒に、茂みの向こうから穏やかな声が返ってきた。
「……私です、リアン。どうか、剣を収めてください。一人で来ました」
月明かりの下に姿を現したのは、聖女カサンドラだった。
彼女は武器を何も持たず、両手を前に出して、敵意がないことを示している。
「なぜ、追ってきた」
「あなたと、話がしたかったからです」
カサンドラは、まっすぐに俺の目を見て言った。
「ゼノンには、あなたたちを見失ったと報告してきました。彼らは別の方向を捜索しています。少しだけ……時間を稼げます」
「……お人好しも大概にしろ。あんたは勅命を受けているんだろう」
「……それでも、です」
カサンドラは、俺の冷たい態度にも怯むことなく、ゆっくりとこちらに近づいてきた。そして、俺の隣に座り込んでいるエリアへと視線を落とす。
「あなたが、エリアさん……ですね?」
エリアは怯えて、俺の外套の裾をぎゅっと握りしめた。カサンドラはそんな彼女を怖がらせないように、優しく微笑みかける。
「大丈夫ですよ。私は、あなたに危害を加えたりしません」
そして、彼女はエリアの顔色を窺うと、眉をひそめた。
「……ひどい顔色。それに、その咳……。あなたの体、かなり魔力に蝕まれているのですね」
言うが早いか、カサンドラはエリアの手にそっと触れると、治癒魔法の詠唱を始めた。
「聖なる母の御手よ、この子の苦しみを和らげたまえ――〈ヒール〉」
柔らかな光がカサンドラの手から放たれ、エリアの体を包み込む。
「……あ……」
エリアの体からふっと力が抜け、強張っていた表情が和らいでいく。荒かった呼吸も、少しずつ穏やかになっていった。
「……温かい……」
エリアが、うっとりとしたように呟く。
「気休めにしかなりませんが……。痛みや苦しみは、少しは取り除けるはずです」
カサンドラはそう言うと、俺に向き直った。
「リアン。私には、この子が世界を滅ぼす魔王だとは、どうしても思えません。ただの……病に苦しむ、か弱い少女にしか見えない」
「……その通りだ」
俺は、ゼノンたちとのやり取り、そして賢者から聞いた話を、かいつまんでカサンドラに話した。エリアが望んで魔王になったわけではないこと。余命が一ヶ月しかないこと。そして、彼女の存在そのものが、世界を歪めているという残酷な事実を。
全てを聞き終えたカサンドラは、悲痛な表情で唇を噛みしめた。
「……なんて、酷い……。そんな……」
彼女の瞳が、潤んでいく。
「ゼノンは……世界の平和という『正義』のために、この子を殺そうとしている。でも、目の前の命を見捨てることが、本当に正しいことなのでしょうか……?」
それは、俺がずっと自問自答してきたことでもあった。
カサンドラは、祈るように両手を組み合わせると、震える声で言った。
「私には、分かりません。何が本当の正義なのか……。でも……」
彼女は、すっかり落ち着いて眠りに落ちたエリアの寝顔を見つめた。
「この子のこんな顔を見たら……私には、討伐の魔法なんて、とても使えません」
その言葉は、彼女の聖女としての優しさから来るものだった。
しかし、その優しさが、いずれ彼女自身を苦しめることになるだろう。ゼノンと俺、二つの正義の間で、彼女は板挟みになるはずだ。
「……行け、カサンドラ。俺たちに関わるな。あんたまで、反逆者と見なされるぞ」
「それは、できません」
カサンドラは、静かに首を振った。
「私は、あなたたちの旅を見届けたい。そして、私にできることを探したい。……それが、私が見つけなければならない『答え』だと思うから」
彼女の瞳には、迷いながらも、確かな決意が宿っていた。
俺は、もう何も言うことができなかった。
こうして、奇妙な三人の旅が始まるかに思えた。
だが、カサンドラは言った。
「私は、あなたたちとは別の道を行きます。ゼノンの動向を探り、あなたたちに知らせます。追手から逃れるための、手助けをさせてください」
それは、彼女なりのギリギリの選択だった。仲間であるゼノンを完全に裏切ることもできず、かといって俺たちを見捨てることもできない。
俺は、小さく頷いた。
「……分かった。恩に着る」
「いいえ……」
カサンドラは立ち上がると、最後にエリアの寝顔に優しい視線を落とし、そして、闇の中へと静かに姿を消した。
一人残された俺は、燃え盛る焚き火を見つめながら、深くため息をついた。
仲間を巻き込んでしまった。その事実に、胸が重くなる。
だが同時に、孤独だと思っていたこの旅に、小さな光が差し込んだような気もしていた。




