第7話:追跡者の影
賢者エルミナに処方してもらった薬の効果は、てきめんだった。
あれほど苦しそうだったエリアの熱は少しずつ下がり、意識もはっきりと回復した。まだ一人で歩けるほどではなかったが、俺の背中で身を起こし、周囲の景色に目を向けられるくらいの余裕は取り戻したようだ。
「……ごめんなさい、リアンさん。また、迷惑を……」
目を覚ましたエリアが、最初に口にしたのは謝罪の言葉だった。俺は、薬草を煎じた水筒を彼女の口元に運びながら、ぶっきらぼうに答える。
「気にするな。あんたが倒れたら、俺が困るだけだ」
「……ふふっ。ありがとうございます」
エリアは小さく笑った。その顔色はまだ青白いが、表情には生気が戻っている。俺は安堵の息を、誰にも気づかれないようにそっと吐き出した。
賢者の庵を出て数日、俺たちは南へと向かっていた。
特に目的地があったわけではない。ただ、雪深い北の山脈を避け、少しでも温暖な土地を目指した方が、エリアの体への負担も少ないだろうと考えたからだ。
穏やかな日々が続いた。
賢者の言葉が嘘だったかのように、世界の歪みを感じさせるような出来事は起きていない。森を抜けた先には広大な草原が広がっており、昼間は暖かな日差しが降り注いだ。
エリアは、風に揺れる草原を見て「まるで緑の海のようです」と嬉しそうに呟いた。彼女の笑顔を見る時間が増えるたびに、俺の心も少しずつ解きほぐされていくのを感じていた。
このまま、誰にも邪魔されず、静かに旅を続けられないものか。
そんな淡い期待を抱き始めた矢先のことだった。
その日、俺たちは小さな川辺で休息をとっていた。
俺が食料の調達から戻ってくると、川辺で水を掬っていたエリアの周りに、見知らぬ者たちの気配があった。数は、五。全員が、統率の取れた動きで、静かにエリアを包囲している。
「……!」
俺は即座に聖剣を抜き、茂みから飛び出した。
「エリアから離れろ!」
俺の姿を認めると、五人の男たちは一斉に臨戦態勢をとる。その装備、その構え……見覚えがあった。王都の騎士団の中でも、特に腕利きの者たちで構成される、王直属の特務部隊だ。
なぜ、彼らがここに。
疑問は、包囲の後方から現れた一人の男の姿を見て、氷解した。
「――ようやく見つけましたよ、リアン」
冷徹で、理知的な声。
風に揺れる漆黒のローブを身に纏い、手にした杖の先端には、青白い魔力の光が灯っている。
その顔を、俺は忘れるはずもなかった。
「……ゼノン」
ゼノン。かつて、俺と共に魔王討伐の旅をした、パーティの仲間。王国一の魔法使いにして、俺の親友……だった男だ。
「リアンさん、この人たちは……?」
怯えるエリアを背後にかばいながら、俺はゼノンを睨みつけた。
「なぜ、ここにいる。王都の命令か」
「ええ、そうです」
ゼノンは、表情一つ変えずに頷いた。その怜悧な瞳は、俺ではなく、俺の背後にいるエリアに向けられている。
「『魔王を討伐せず、姿をくらました勇者リアンを拘束。および、彼が連れている魔王を即刻討伐せよ』。これが、我々に下された勅命です」
やはり、追っ手は来ていたのだ。しかも、よりにもよって、俺のことを最もよく知る男が。
「リアン、説明していただきたい。なぜ、あなたは魔王を討たなかった? なぜ、そいつを連れて逃げている?」
「貴様には関係ない」
「関係なくはありません。あなたのその感傷的な行動が、世界をどれほどの危機に晒しているか、理解しているのですか?」
ゼノンの言葉は、賢者エルミナが口にした警告と重なった。
「賢者様から報告がありました。世界の理が歪み始めている、と。原因は、そこにいる少女……魔王の存在そのものです。彼女を生かしておけば、世界は滅びる。だから、殺さねばならない。至極、単純な論理でしょう?」
彼は、まるで壊れた道具を処分するかのように、平然とエリアの死を口にした。
「……黙れ」
俺の体から、静かな怒気が立ち上る。
「エリアは、ただの少女だ。魔王の力を押し付けられた、被害者だ」
「だとしても、彼女は危険因子です。世界の平和という大義の前では、一個人の命など、些細な犠牲にすぎない」
ゼノンの瞳には、一片の情も浮かんでいなかった。かつて、共に旅をした仲間とは思えないほど、冷え切っている。
ああ、そうだ。こいつは、昔からこうだった。常に冷静で、合理的。最善の結果を得るためなら、どんな非情な判断も厭わない。その正しさが、旅の中では何度も俺たちを救ってくれた。
だが、今は違う。
その揺るぎない「正しさ」が、牙となって俺とエリアに襲いかかろうとしている。
「リアン、道を空けなさい。抵抗するなら、あなたとて例外ではありません」
ゼノンが杖を構えると、周囲の騎士たちも一斉に剣を抜いた。
交渉の余地はない。
俺は聖剣を構え直し、静かに告げた。
「断る。こいつに指一本でも触れてみろ。たとえ貴様でも、容赦はしない」
俺とゼノンの視線が、火花を散らすように交錯する。
かつて背中を預け合った仲間と、刃を交えることになる。そんな未来を、一体誰が想像しただろうか。
川のせせらぎだけが聞こえる穏やかな昼下がり。
その静寂を破るように、ゼノンが冷たく、魔法の詠唱を始めた。
「――ならば、力ずくで」




