第6話:森の賢者と世界の理
フォルト村の追手から逃れるため、俺は昼夜を問わず森の中を進んだ。
幸い、村人たちの足では深い森の奥まで追ってくることはできず、二日もすれば背後の喧騒は完全に聞こえなくなった。
しかし、問題はエリアの状態だった。
高熱は依然として続いており、意識も朦朧としている。時折、俺の背中ですら体を支えきれなくなるほど衰弱していた。
俺は焦っていた。一刻も早く、賢者の庵を見つけ出さなければ。
そして、村を出てから三日目の朝。
森の最も深い場所に、不自然なほど開けた場所があった。中央には苔むした大きな岩が鎮座し、その麓に、蔦の絡まる小さな丸太小屋がひっそりと建っていた。
「ここか……」
小屋に近づくと、扉がひとりでに、ギィ、と音を立てて開いた。中から、穏やかだが芯のある老婆の声が響く。
「……待ちかねたぞ、勇者リアン。そして、背中の客人よ」
俺は驚きを隠せないまま、小屋の中へと足を踏み入れた。
中は、壁一面が天井まで届く本棚で埋め尽くされ、乾燥させた薬草の独特な匂いが満ちていた。その中央で、暖炉の前に置かれた揺り椅子に座り、一人の老婆が静かにこちらを見ていた。
深く刻まれた皺、真っ白な髪。しかし、その瞳だけは、まるで世界のすべてを見通しているかのように、鋭く澄み切っている。彼女こそ、森の賢者エルミナだった。
「なぜ、俺の名を……」
「お主が聖剣を携え、そして、その背に世界の『歪み』を背負っておるからじゃよ。さあ、その娘をこちらへ」
エルミナは、暖炉のそばに敷かれた寝床を顎で示した。俺は言われるがまま、エリアをそこにそっと横たえる。
賢者はゆっくりと立ち上がると、エリアの額にそっと手を置いた。そして、目を閉じて、何かを探るようにしばらく黙り込む。
「……なるほどのう。これは、ひどい」
やがて目を開けたエルミナの表情は、険しいものに変わっていた。
「この娘の魂は、巨大すぎる力に焼かれ、すでに燃え尽きかけておる。人の身には、到底耐えられる代物ではない」
「治すことはできないのか」
俺の問いに、賢者は静かに首を振った。
「無理じゃ。これは病でも呪いでもない。魂そのものの消耗……器の崩壊じゃ。もって、あとひと月というところか」
エリア自身が言っていた余命が、無情にも裏付けられた。俺は唇を噛みしめる。
「……せめて、この苦しみを和らげることは」
「うむ。それならば、いくつか手はある」
エルミナはそう言うと、壁の薬草棚から数種類の乾燥した葉を取り、手際よく乳鉢ですり潰し始めた。
「魂の燃焼をわずかに抑える『月雫草』と、痛みを和らげる『静寂の根』。これを煎じて飲ませるのじゃ。気休めにしかならぬが、何もしないよりはマシじゃろう」
俺は、賢者が薬を準備するのを、ただ黙って見つめていた。
やがて、エルミナは俺に向き直ると、静かに語り始めた。
「勇者よ。お主がこの娘を連れて旅をしている理由は聞かぬ。じゃが、一つだけ、理解しておかねばならぬことがある」
「……何だ」
「この娘は、ただ存在するだけで、世界の理を歪めておる。いわば、世界の法則に生じた『バグ』のようなものじゃ」
賢者の言葉に、俺は息を呑んだ。
「お主も感じておるはずじゃ。近頃、魔物が凶暴化し、季節外れの嵐が起き、大地は痩せ細っておる。それはすべて、世界のバランスが崩れ始めた証拠。そして、その歪みの中心は、そこに眠るあの娘なのじゃよ」
フォルト村で起きた、井戸水の汚染や家畜の狂乱。あれは、これから起きる世界の崩壊の、ほんの予兆に過ぎないということか。
「このまま彼女を生かしておけば、彼女の魂が尽きる前に、世界そのものが崩壊するやもしれぬ」
「……」
「お主のしていることは、感傷でしかないのかもしれぬぞ。一人の少女を救うために、世界を滅ぼすことになるやもしれぬのじゃからな」
エルミナの言葉は、刃のように俺の心を抉った。
分かっていたことだ。俺の選択が、どれほど重いものなのか。だが、賢者の口から改めて告げられると、その重さがずしりと両肩にのしかかってきた。
俺は、眠るエリアの顔を見た。
薬の効果か、少しだけその表情は安らかになっている。
この寝顔を守るために、俺は世界を敵に回す覚悟を決めたはずだ。
「……それでも、俺はこの娘を看取る」
俺は、迷いなく答えた。
「世界が滅ぶのが先か、この娘の命が尽きるのが先か。どちらにせよ、俺はこいつの最後の時まで、そばにいると決めた」
俺の答えを聞いて、エルミナは目を細めた。
呆れているのか、あるいは感心しているのか。その表情からは、真意を読み取ることはできなかった。
「……そうか。ならば、もう何も言うまい」
賢者はそう言うと、紙に包んだ薬草の束を俺に差し出した。
「これを持っていくがよい。当座の足しにはなるじゃろう」
俺はそれを受け取り、深く頭を下げた。
賢者の庵を出る時、背後からエルミナの声が聞こえた。
「勇者よ。お主の選んだ道は、いばらの道じゃ。じゃがな……」
俺が振り返ると、賢者は静かな瞳で俺を見つめていた。
「『正しさ』とは、常に一つではない。それだけは、忘れるでないぞ」
その言葉の意味を、俺はまだ、完全には理解できなかった。
ただ、その言葉が、これから始まる本当の旅への、唯一のはなむけのように思えた。




