第3話:初めての世界
魔王城を出て、森を抜けるのに丸一日を要した。
道中、エリアは子供のようにはしゃいでいた。俺の背中で、指をさしては「あれは何という花ですか?」「今の鳥の声は?」と、ひっきりなしに質問を投げかけてくる。俺はその一つ一つに、ぶっきらぼうながらも丁寧に答えてやった。
彼女の知識は、ほとんどが本から得たものらしかった。実物と知識が結びつくたびに、エリアは歓声を上げる。その声は、まだ弱々しくはあったが、玉座で聞いた時よりもずっと生命力に満ちていた。
夜は、洞窟で火を焚いて過ごした。俺が狩ってきた兎を焼いて分け与えると、エリアは目を輝かせながら頬張っていた。
「美味しい……! 本物の、お肉の味がします……!」
城では、栄養を摂るための薬のようなスープしか口にしていなかったらしい。こんな些細なことですら、彼女にとっては特別な体験なのだ。
その姿を見ていると、俺の胸の奥が、ちくりと痛んだ。俺がこれまで見過ごしてきた、ありふれた日常の風景。その一つ一つが、この少女にとっては、命を懸けてでも手に入れたかった宝物だったのだ。
そして翌日の昼過ぎ、俺たちは森を抜け、一番近くにある人間の集落――フォルト村にたどり着いた。街道沿いの小さな村だが、ちょうど収穫祭の時期らしく、村の中央広場は活気に満ち溢れていた。
「わ……! すごい……人が、たくさん……!」
建物の陰から様子を窺うと、エリアが俺の背中ですっかり体を硬くしているのが分かった。無理もない。彼女はずっと一人で城にいたのだ。この喧騒は刺激が強すぎるだろう。
「少し休むか?」
「だ、大丈夫です! それより、見てみたいです。お祭り、本でしか読んだことがなくて」
好奇心が恐怖を上回っているらしい。俺はため息をつき、フードで顔を隠しながら、人混みの中へと紛れ込んだ。
広場では、楽団が陽気な音楽を奏で、村人たちが手を取り合って踊っている。露店には焼きたてのパンや色とりどりの果物が並び、香ばしい匂いが鼻をくすぐった。
エリアは、俺の背中から身を乗り出すようにして、その光景に夢中になっていた。
「リアンさん、あれは何ですか?」
「リンゴ飴だ。リンゴに溶かした砂糖を絡めた菓子だ」
「あちらは?」
「綿菓子。砂糖を糸状にしたものだ」
「……お砂糖ばかりですね」
「祭りの食べ物とはそういうものだ」
軽口を叩きながら、俺は露店でリンゴ飴を一つ買った。それをエリアに渡すと、彼女は恐る恐る、小さな口で一口かじる。
「……あまい……!」
ぱあっと顔を輝かせるエリア。その瞬間、俺は初めて、彼女の心からの笑顔を見た気がした。それは、ただ甘いものを食べた少女が浮かべる、年相応の無邪気な笑顔だった。
その笑顔に、俺は一瞬、見惚れてしまった。
こいつは魔王なんかじゃない。ただの、普通の女の子だ。俺が守るべきだった世界の、名もなき住人の一人だったはずの。
その時だった。
俺たちのすぐ近くで、村の子供が石につまずいて派手に転んだ。母親が駆け寄るより早く、エリアが叫んだ。
「危ない!」
瞬間、エリアの体から、ごく微量だが、濃密な魔力がふわりと漏れ出た。それは俺にしか分からないほどの量だったが、世界の理に与える影響は小さくなかった。
子供が転んだ場所のすぐそばにあった井戸。その釣瓶桶に汲まれていた水が、一瞬、黒く淀んだように見えた。
すぐに元の透明な水に戻ったが、その水を飲もうとしていた村の男が、訝しげに桶を覗き込む。
「ん? なんだか水が……?」
そして、広場の隅に繋がれていた山羊が、突然、狂ったように暴れ始めた。近くにいた人々が、何事かとざわめき始める。
「……行くぞ」
俺は舌打ちし、すぐにその場を離れた。エリアの魔力汚染だ。彼女自身に悪意はなくとも、感情の昂りに呼応して、その存在は周囲に災厄を振りまいてしまう。
「り、リアンさん……? どうしたんですか?」
「いいから黙ってろ」
エリアは何も気づいていないようだった。彼女に罪悪感を負わせたくなくて、俺は理由を告げずに村の出口へと急いだ。
しかし、俺たちの背後で、村人たちのひそひそ話が聞こえてきた。
「おい、見たか? さっきの二人……」
「ああ、あの娘、なんだか気味が悪いな……」
「井戸の水も、家畜も、あの二人が来てからおかしくなったんじゃ……」
敵意と猜疑心に満ちた視線が、針のように背中に突き刺さる。
俺は足を速め、ほとんど駆け足で村を後にした。
村が見えなくなるまで離れた森の中で、俺はエリアを背中から下ろした。
「……どうして、急に……?」
不安そうな顔で尋ねるエリアに、俺は何も答えられない。
彼女は何も悪くない。ただ、そこにいるだけで、世界が彼女を拒絶するのだ。
エリアは、俺が買ってやったリンゴ飴を、まだ大事そうに手に持っていた。しかし、その輝くような笑顔は、もうどこにもなかった。
自分のせいだと気づいていないことが、逆に俺の胸を締め付けた。
この旅は、想像以上に過酷なものになるだろう。
世界を救う旅よりも、ずっと孤独で、誰からも理解されない旅だ。
俺は、ただ黙って、再び彼女を背負った。次に向かうべき場所も分からないまま、あてのない旅路が続く。




