第26話:少女の決断
ゼノンの冷酷な声が、朝の冷たい空気の中に響き渡った。
「――魔王よ。リアンを助けたければ、自ら、こちらへ来なさい」
その言葉は、まるで呪いのように、俺の背中で眠っていたエリアの意識を揺り覚ました。
「……ん……」
エリアが、小さく身じろぎする。
俺は、彼女に声が届かないように、その耳を塞ごうとした。
「聞くな、エリア!」
だが、遅かった。
エリアは、ゆっくりと目を開け、目の前の光景を――俺を取り囲む無数の騎士たちと、強大な魔力を構えるゼノンの姿を――その紫色の瞳に映した。
「……これは……」
状況を理解した彼女の顔から、さっと血の気が引いていく。
ゼノンは、そんなエリアの様子を見ると、再び、冷たく告げた。
「聞こえましたね、魔王。選択肢は二つ。一つは、あなたがリアンと共に、ここで我々の攻撃を受け、塵と化すこと。もう一つは、あなたが自ら投降し、リアンの命を救うこと。……さあ、選びなさい」
卑劣なやり方だった。
俺を人質にとり、エリアの優しさに付け込む。ゼノンは、エリアがどちらを選ぶか、確信しているのだ。
「やめろ、ゼノン! こいつを巻き込むな!」
「黙りなさい、リアン。これは、彼女自身の問題です」
エリアは、震えていた。
俺の背中にしがみつく彼女の指先が、氷のように冷たい。
彼女は、俺とゼノンの顔を、交互に見つめている。その瞳には、深い絶望と、そして、どうしようもないほどの葛藤が渦巻いていた。
俺は、エリアに語りかけた。
「……行くな、エリア。俺のそばを、離れるな」
それは、命令ではなく、懇願だった。
俺は、ただ、彼女にそばにいてほしかった。たとえ、ここで共に死ぬことになったとしても。
「……でも……」
エリアの声が、震える。
「でも、そうしたら、リアンさんが……リアンさんが、死んでしまう……!」
「構わない! お前がいない世界で生きるくらいなら、俺は……!」
俺の言葉は、最後まで続かなかった。
エリアが、そっと、俺の背中から離れたからだ。
そして、彼女は、震える足で一歩、また一歩と、俺の前へと歩み出た。
「……エリア……?」
彼女は、俺の前に立つと、振り返って、俺の顔を見上げた。
その顔には、もう、迷いはなかった。
ただ、静かな覚悟と、そして、俺への深い愛情が浮かんでいた。
「……リアンさん」
彼女は、微笑んだ。
今まで見た中で、一番、悲しくて、そして、美しい笑顔だった。
「……ありがとう」
その一言に、彼女のすべての想いが込められているのが、痛いほどに分かった。
城から連れ出してくれたことへの感謝。
一緒に旅をしてくれたことへの感謝。
そして、生きる希望を与えてくれたことへの、感謝。
「……やめろ……」
俺の声は、掠れていた。
「……やめてくれ、エリア……!」
だが、彼女の決意は、もう揺るがない。
エリアは、俺に背を向けると、ゼノンの方へと、ゆっくりと歩き始めた。
その小さな背中が、まるで全世界の悲しみを一人で背負っているかのように、頼りなく見えた。
「……賢明な判断です、魔王」
ゼノンが、満足げに呟く。
騎士たちが、エリアの進む道を、左右に開けていく。
俺は、その光景を、ただ、立ち尽くして見ていることしかできなかった。
傷だらけの体は、鉛のように重く、一歩も動けない。
聖剣を握る手は、無力に震えているだけだった。
エリアが、ゼノンの目の前まで辿り着く。
ゼノンは、彼女の体に魔力を封じるための、特殊な枷をはめようと手を伸ばした。
その、瞬間だった。
「――待ったぁぁぁぁっ!!」
空気を切り裂くような、甲高い声が、どこからか響き渡った。
俺も、ゼノンも、騎士たちも、そしてエリアも。
その場にいた全員が、驚いて声のした方角――空を見上げた。
空の彼方から、何かが、猛烈なスピードでこちらへ向かってきている。
それは、巨大な、一羽の鷲だった。
いや、ただの鷲ではない。その背には、純白の神官服をはためかせた、一人の人影が乗っている。
「……カサンドラ……!?」
ゼノンが、驚愕の声を上げた。
そうだ。あの姿は、間違いなくカサンドラだ。
彼女は、どうやってここに……?
俺たちの混乱をよそに、カサンドラを乗せた巨大な鷲は、急降下すると、エリアの体をその爪で、優しく、しかし、確実に掴み上げた。
「なっ……!?」
「エリアさん、しっかり捕まっていてください!」
カサンドラの声が響くと同時に、鷲は再び、空高く舞い上がる。
あまりに、一瞬の出来事だった。
「……何をしている、カサンドラ! 貴様、正気か!?」
ゼノンが、我に返って激昂する。
空の上から、カサンドラの、決意に満ちた声が、地上に降り注いだ。
「――私は、もう迷いません! リアンも、エリアさんも、どちらも見捨てることなど、私にはできません! それが、私の見つけた『正義』です!」
彼女は、ついに、選んだのだ。
王国を裏切ってでも、俺たちと共に歩む道を。
その覚悟は、俺の胸を、熱く打った。




