第2話:看取るという決断
聖剣〈アルティウス〉が鞘に収まる澄んだ音は、まるで世界の終わりを告げる鐘のようにも、あるいは始まりを告げる産声のようにも聞こえた。
「……な、ぜ……?」
玉座に座る少女――エリアは、呆然とした表情で俺を見上げていた。その紫色の瞳は、信じられないものを見るかのように大きく見開かれている。無理もないだろう。目の前の男は、自分を殺しに来た勇者なのだから。
「なぜ、斬らないのですか? 私を殺せば、世界は救われるのに……」
「気が変わった」
俺は短く答えた。自分でも、なぜそんな決断をしたのか、うまく説明できなかった。
ただ、この少女の命を奪うことが、どうしても「正しいこと」だとは思えなかった。感情を殺し、ただ世界の平和という「義務」だけを考えて生きてきた俺の心に、初めて生まれた小さな、しかし確かな違和感だった。
「俺は、お前を看取ることにした。死ぬまでの間、付き合ってやる」
「み、とる……?」
「そうだ。だから言え。最後の願いは何だ。金か? 美味いものか? それとも、誰かに会いたいのか?」
これまで俺に向けられてきた人間の欲望は、大抵そのどれかだった。魔王である彼女も、何か途方もない願いを口にするだろうと、そう思っていた。
しかし、エリアはしばらく黙って俯いた後、か細い声でこう言った。
「……お城の、外に出てみたい、です」
予想外の答えに、俺は思わず言葉を失った。
それは、あまりにもささやかで、純粋な願いだった。
「魔王になってから……いいえ、その前から病気で村の外に出たこともなくて。本で読んだことがあるんです。お城の外には、緑の森が広がっていて、きれいな花が咲いていて、鳥が歌っているって……。一度でいいから、見てみたくて」
そう言って顔を上げたエリアの瞳は、潤んでいた。そこには、魔王の威厳も、世界の脅威たる者の傲慢さもない。ただ、外の世界に焦がれる、一人の少女の顔があった。
俺の心の奥底で、何かが音を立てて崩れた。
俺が守ろうとしていた「世界」とは、一体何だったのだろう。それは、こんなにも小さな願いすら、踏みにじらなければ守れないものだったのか。
「……分かった」
気づけば、俺は頷いていた。
「その願い、俺が叶えてやる。立てるか?」
俺が手を差し伸べると、エリアは戸惑いながらも、その小さな手を伸ばそうとした。しかし、玉座から腰を浮かせようとしただけで、彼女の体はぐらりと傾ぎ、力なく座り込んでしまう。
「だ、めです……。もう、足に力が……」
「……そうか」
俺はため息を一つつくと、エリアの前に膝をつき、彼女に背を向けた。
「乗れ。俺が背負ってやる」
「えっ!? そ、そんな、勇者様に……!」
「いいから早くしろ。気が変わる前に」
強い口調で促すと、エリアはおずおずと、その軽い体を俺の背中に預けてきた。
背負った瞬間、驚くほどの軽さに息を呑んだ。まるで鳥の雛のようだ。こんなにもか細い体に、あの膨大な魔力が宿っているという事実が、にわかには信じがたい。
彼女の体からは、ひどい熱が伝わってくる。常に魂が燃え続けているかのような、消耗の熱だ。そして、俺が最初に感じた薬草の匂いが、ふわりと鼻をかすめた。
俺はゆっくりと立ち上がり、玉座の間に背を向けた。
エリアが、俺の肩越しに、自分がずっと座っていた玉座を名残惜しそうに見ているのが気配で分かった。
「……もう、戻ってくることはない」
「……はい」
小さな声での返事。
俺は一歩、また一歩と、魔王城の出口へと向かって歩き出した。
かつて、この城を攻略するために命を落としていった仲間たちの顔が、脳裏をよぎる。彼らは、俺が今していることを知ったら、何と言うだろうか。愚かだと罵るだろうか。それとも――。
考えても、答えは出ない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
俺は今、自分の意志で歩いている。誰かの希望のためでも、世界の平和という義務のためでもなく。ただ、背中にいるこの少女の、ささやかな願いを叶えるためだけに。
長い間閉ざされていた魔王城の正門を、聖剣の力でこじ開ける。
その瞬間、外の光と風が、俺たちの体を包み込んだ。
「わ……」
背中から、エリアの小さな感嘆の声が聞こえた。
目の前には、どこまでも続く深い森が広がっている。木々の緑は目に鮮やかで、土の匂いが混じった風が頬を撫でていく。遠くからは、鳥のさえずりが聞こえてきた。
俺にとっては見慣れた、何の変哲もない風景。
だが、背中の少女にとっては、生まれて初めて見る、本の中だけの憧れの世界だった。
「……きれい……」
震える声で呟く彼女の体温が、少しだけ上がったような気がした。
最強の勇者と呼ばれた俺の旅は、魔王を倒したところで終わるはずだった。
だが、どうやらもう少しだけ、続きがあるらしい。
余命一ヶ月の魔王を看取るという、誰も知らない、たった二人の旅が、こうして静かに始まった。




