第16話:スープの約束
温かいスープを飲ませてやる。
そう約束したものの、すぐに実現するのは困難だった。ゼノンたちの追跡を警戒しなければならない以上、迂闊に人の住む街には近づけないからだ。
「……もう少しの辛抱だ」
俺はエリアを背負いながら、地図と睨めっこをしていた。カサンドラが残してくれた地図には、追手の検問が敷かれていそうな大きな街や街道が記されている。それらを避け、安全に辿り着ける街を探さなければならない。
「大丈夫です、リアンさん。私、急いでいませんから」
背中のエリアが、俺の心を読んだかのように言った。
「リアンさんが約束してくれただけで、もう、お腹いっぱいくらい、嬉しいんです」
その健気な言葉が、逆に俺の心を急かした。
彼女に残された時間は、有限なのだ。その貴重な時間を、こんな荒野での移動ばかりに費やさせていいはずがない。
俺は、地図の一点に指を置いた。
そこは、いくつかの山脈が重なる麓にある、鉱山で栄えた商業都市『ドワーフ・フォート』。人間だけでなく、ドワーフや獣人など、様々な種族が暮らす街だ。
多様な人々が出入りする街ならば、俺たちが紛れ込むのも容易だろう。それに、王国の支配力が比較的弱い自治都市でもある。追手の目も届きにくいかもしれない。
「よし、決めた。次の目的地はここだ」
「……街、ですか?」
「ああ。ドワーフ・フォート。ここなら、美味いスープを出す店の一軒や二軒、あるだろう」
「……! はい!」
エリアの弾んだ声が、俺の決意を後押しした。
そこから数日間、俺たちはドワーフ・フォートを目指してひたすら歩き続けた。
途中、カサンドラの使いである小鳥が、再び手紙を運んできた。
『ゼノン部隊、進路変更。南へ。気をつけて』
短い警告。どうやら、ゼノンは俺たちの行き先をある程度絞り込んでいるらしい。ますます、ぐずぐずしてはいられなかった。
そして、旅を始めてから二十日ほどが過ぎた頃。
俺たちはついに、巨大な城壁に囲まれた街の姿を、眼下に捉えた。
山の斜面を削るようにして築かれた石造りの街並み。あちこちから鍛冶の音が響き、煙突からは煙が立ち上っている。ドワーフ・フォートだ。
「わ……! すごい……! あんなに大きな街、初めて見ました……!」
エリアが、感嘆の声を上げる。
俺は、二人分のフードを深く被り直し、慎重に街の門へと向かった。
門番は屈強なドワーフだったが、簡単な身分確認だけで、あっさりと俺たちを通してくれた。どうやら、懸賞金のかかったお尋ね者、というわけではまだないらしい。
街の中は、活気に満ち溢れていた。
道行く人々は、人間、ドワーフ、獣人と様々で、それぞれの言語が飛び交っている。露店には、鉱石や武具、そして様々な地方の食材が並んでいた。
エリアは、俺の背中でキョロキョロと物珍しそうに周りを見回している。
「すごい……リアンさん、あのお髭の長い人たちは?」
「ドワーフだ。鍛冶と酒造りの名人だ」
「じゃあ、あの猫の耳の人は?」
「獣人族だ。五感が鋭い」
「……リアンさんは、物知りですね」
「旅をしていれば、これくらいはな」
久しぶりに触れる文明の喧騒に、俺自身も少しだけ心が浮き立つのを感じていた。
俺は、早速、エリアの願いを叶えるために、美味そうな匂いのする方へと足を向けた。
やがて、一軒の小さな食堂を見つけた。
『森の恵亭』と書かれた、木彫りの看板が出ている。中からは、野菜を煮込む、食欲をそそる香りが漂ってきていた。
「ここにしよう」
俺は、店の扉を開けた。
店の中は、木の温もりを感じさせる内装で、数組の客が食事を楽しんでいる。俺たちは、一番奥の目立たない席に腰を下ろした。
「いらっしゃい! 何にするね?」
恰幅のいい、エプロン姿の女将さんが出てきた。
俺は、壁に掛けられたメニューの中から、一番上に書かれていた料理を指差す。
「……この、『おばあちゃんの特製野菜スープ』を二つ」
「あいよ!」
待っている間、エリアは落ち着かない様子で、テーブルの上の木目を指でなぞっていた。
「……お店で、ご飯を食べるの、初めてです」
「そうか」
「なんだか、夢みたいです」
彼女のその言葉に、俺は胸が詰まる思いだった。
こんな当たり前のことが、彼女にとっては夢のような出来事なのだ。
やがて、湯気の立つ木の器が、俺たちの前に運ばれてきた。
器の中には、人参、じゃがいも、豆、そして様々なキノコがゴロゴロと入っており、黄金色のスープからは、優しい香りが立ち上っていた。
「さあ、熱いうちに食え」
エリアは、こくりと頷くと、木のスプーンを手に取り、恐る恐るスープを一口、口に運んだ。
その瞬間、彼女の紫色の瞳が、驚きと感動で見開かれる。
「…………おいしい……」
それは、絞り出すような、心の底からの声だった。
「……お母さんのスープと、同じ味がします……。ううん、それよりも、もっと、ずっと……温かくて、優しい味が……」
エリアの瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。
それは、悲しみの涙ではない。
ただ、純粋な幸福と、感謝の涙だった。
俺は何も言わず、ただ、夢中でスープを頬張る彼女の姿を、黙って見つめていた。
約束を、一つ、果たせた。
その事実が、荒んでいた俺の心を、スープの湯気のように、温かく満たしていくのを感じていた。




