第15話:エリアの過去と小さな願い
俺の過去を話したことで、俺とエリアの間の壁は、また一つ取り払われたように思う。
彼女は、俺の背中で、時折ぽつりぽつりと、自分自身のことを話してくれるようになった。
エリアの故郷は、南の海沿いにある、小さな漁村だったという。
父親は漁師で、母親は村の診療所で薬師の手伝いをしていた。エリア自身は、生まれつき体が弱く、村の外に出ることはほとんどなかったが、両親の愛情を一身に受けて育った、ごく普通の少女だった。
「お父さんは、無口だけど、とても優しい人でした。海から帰ってくると、いつも綺麗な貝殻を拾ってきてくれたんです」
「お母さんは、歌が上手で……。私が眠れない夜は、いつも子守唄を歌ってくれました」
彼女が語る過去は、俺が持っていないものばかりだった。
温かい家族の記憶。穏やかな日常。ささやかな幸福。
そのすべてが、あの日、彼女が偶然迷い込んだ遺跡で、無慈悲に奪い去られてしまった。
「……あの日、私は、母に頼まれて、薬草を摘みに行ったんです。村の裏山にあった、禁足地と呼ばれる森にしか生えていない、珍しい薬草でした」
その森の奥に、先代魔王が封印されていた遺跡があった。
エリアは、好奇心から、その古びた石の扉を開けてしまったのだという。
「中に、とても綺麗な宝石が……黒い水晶のようなものが、祭壇に祀られていました。それに触れた瞬間、頭の中に、誰かの声が響いて……」
――我が力、我が魂、我が憎悪……汝に与えよう。新たなる器よ。
それが、エリアが聞いた最後の言葉だった。
気づいた時には、彼女は魔王城の玉座に一人で座っていた。両親のことも、村のことも、どうなったのかは分からない。ただ、自分の体が自分でないような感覚と、内側から魂を焼かれるような、耐え難い苦しみだけが残っていた。
「……怖かった。ただ、怖くて……。どうして私が、って、何度も神様を呪いました」
俺の背中で、エリアの声が震える。
「でも、一番怖かったのは……私が、私でなくなってしまうことでした。この力に心を乗っ取られて、本当の魔王になって、お父さんやお母さんのことを忘れてしまうんじゃないかって……」
だから、彼女は玉座に座り、ただ死を待つことを選んだ。
誰にも会わず、誰とも話さず、心を閉ざして。
それは、彼女なりの、必死の抵抗だったのだ。自分という人間性を、魔王の力から守るための。
俺は、何も言わずに、ただ彼女の言葉に耳を傾けていた。
俺が感情を殺して「勇者」になったように、彼女もまた、感情を殺して「魔王」であることを拒絶していた。
俺たちの道は、まるで鏡合わせのようだった。
「……リアンさんと出会って、お城の外に出て……私、思い出したんです」
エリアの声が、少しだけ明るくなった。
「世界って、こんなに広くて、綺麗なんだって。花も、鳥も、星空も……本で読むのとは、全然違う。ちゃんと、生きてるんだって」
俺の背中から、彼女の鼓動が伝わってくる。
トクン、トクン、と。弱々しいが、しかし、確かな生命のリズム。
「だから、私も、ちゃんと生きたいって思ったんです。魔王としてじゃなくて、エリアとして。……たとえ、短い時間でも」
その言葉を聞いて、俺は足を止めた。
「エリア」
「……はい」
「何か、やりたいことはあるか」
俺は、最初に彼女と出会った時と同じ質問を、もう一度投げかけた。
あの時、彼女は「城の外に出てみたい」とだけ言った。
だが、今は違うはずだ。
エリアは、少しだけ黙り込んだ後、照れたような、はにかんだ声で言った。
「……あの……わがまま、ですか?」
「言ってみろ」
「……温かい、スープが飲みたいです」
それは、あまりにもささやかな願いだった。
「母が、よく作ってくれたんです。野菜がたくさん入った、優しい味のスープ。……もう一度、食べられたら、幸せだなって」
その言葉は、俺の胸に強く響いた。
俺は、迷わず頷いた。
「……分かった。次の街で、最高のスープを飲ませてやる。約束だ」
「……! はい!」
エリアの、弾んだ声が背中で響く。
俺たちの旅に、初めて、明確な目的地ができた瞬間だった。
それは、魔王討伐でも、世界の救済でもない。
ただ、一人の少女に、温かいスープを飲ませてやる。
その、あまりにも小さく、しかし、何よりも尊い目的のために。
俺は、再び歩き出した。
その足取りは、今までよりも、ずっと軽く感じられた。
約束という名の道標が、暗い旅路を、わずかに照らしてくれているようだった。




