第12話:穏やかな廃墟にて
カサンドラの治癒魔法のおかげで、エリアの体調は奇跡的に安定した。
目を覚ました彼女は、廃教会の祭壇の前で体を起こし、崩れた天井から差し込む朝の光を眩しそうに見つめていた。
「おはようございます、リアンさん」
「……ああ。具合はどうだ」
「はい。カサンドラさんが助けてくれたおかげで……胸の苦しいのが、なくなりました」
エリアは胸元に手を当て、安堵の表情を見せる。その顔には、ここ数日見られなかった血色が戻っていた。
「ここに、カサンドラさんがいらしたんですね」
「そうだ。もう行ったがな」
「……ちゃんとお礼も言えませんでした」
寂しそうに眉を下げるエリアに、俺は言った。
「そのうちまた会えるさ。あいつはお節介だからな」
そう言いながらも、俺自身、その言葉にどこまで期待していいのか分からなかった。カサンドラにも、彼女自身の立場があるのだから。
俺たちは、エリアの体調が完全に回復するまで、もう一日この廃教会で休むことにした。カサンドラの残してくれた食料もある。無理に動く必要はない。
昼下がりの穏やかな時間。エリアは教会の庭――といっても、今はただの荒れ地だが――に出て、まばらに咲く野花を眺めていた。
俺は、壊れた長椅子を修理しながら、そんな彼女の姿を横目で追っていた。
エリアは、何かを見つけるたびに嬉しそうに駆け寄り、しかし決して花を摘んだりはしなかった。ただしゃがみ込んで、愛おしそうに指先で触れるだけだ。
その姿は、世界の脅威たる魔王とはあまりにかけ離れている。
「リアンさん、見てください! ここに、こんなに綺麗な花が……」
エリアが振り返って俺を呼んだ。俺は手を止めて近づく。
彼女が指差した先には、瓦礫の隙間からひっそりと顔を出した、小さな青い花があった。
「……ただの雑草だろ」
「違いますよ。これは『希望の花』って言うんです」
エリアが得意げに教えてくれる。
「どんなに厳しい場所でも、どんなに暗い場所でも、必ず空に向かって咲くから……そう呼ばれているんですって。本に書いてありました」
希望、か。
俺には縁遠い言葉だ。勇者としての希望は、もう捨てた。今の俺にあるのは、ただ目の前の少女の命を守るという、果てしのない執念だけだ。
「……あんたみたいだな」
俺がポツリと呟くと、エリアはきょとんとした。
「私が……ですか?」
「ああ。どんなに辛くても、どんなに追い詰められても……お前は、笑おうとしてる」
俺の言葉に、エリアは一瞬驚いたような顔をして、それからはにかんだように微笑んだ。
「……だって、リアンさんが教えてくれたから」
「俺が?」
「はい。私の命は、私自身のものだって。……だから、最後まで、笑っていたいんです。泣いて終わるより、笑って終わりたい。それが、私の最後の……」
言葉を続けようとして、エリアは不意に口をつぐんだ。その視線が、俺の背後、教会の入口の方へと向けられる。
俺もまた、気配を感じて振り返った。
教会の崩れた石門の影に、小さな人影があった。
ボロボロの衣服を纏った、痩せこけた少年だった。年の頃は、十歳ほどだろうか。泥まみれの顔で、飢えた獣のような目でこちらを見ている。
手には、錆びたナイフを握りしめていた。
「……なんだ、ガキか」
俺は警戒を解かずに声をかけた。
「何の用だ。悪いが、施せるものは……」
俺の言葉が終わるより早く、少年が叫んだ。
「魔王の手下め! 僕の村を返せ!!」
少年は、無謀にもナイフを振りかざして突進してきた。その切っ先は、俺ではなく、エリアに向けられている。
「っ!」
俺は瞬時に反応し、少年の手首を軽く掴んでねじり上げた。
「痛っ……!」
ナイフがカラン、と石畳に落ちる。俺は少年を地面に押さえつけた。
「離せ! 離せよ! お前らのせいで……お前らのせいで、お父さんもお母さんも……!」
少年は泣き叫びながら暴れた。その目には、純粋な憎悪が燃えている。
「やめてください、リアンさん!」
エリアが悲鳴のような声を上げて駆け寄ってきた。
「その子を、離してあげてください……!」
俺はため息をつき、少年を解放した。少年はすぐに跳ね起きると、ナイフを拾うことも忘れ、エリアを睨みつけながら後ずさる。
「……どういうことだ」
俺が尋ねると、少年は憎々しげに吐き捨てた。
「知らないのかよ! お前らが通った村、みんな病気になったり、おかしくなったりしてるんだぞ! 僕の村も……井戸の水が腐って、畑が枯れて……みんな、死んだり、逃げ出したりしたんだ!」
俺とエリアは、言葉を失った。
少年が言っているのは、おそらくフォルト村よりもさらに前に通った村のことだろう。俺たちは、無自覚のうちに、数え切れないほどの悲劇を生み出していたのだ。
エリアの顔から、血の気が引いていく。
彼女は、震える手で自分の口元を覆った。
「……私……私が……」
「違う! お前のせいじゃない!」
俺は叫んだが、エリアには届かなかった。彼女の瞳から、大粒の涙がこぼれ落ちる。
「人殺し! 魔女! 死んじゃえ!!」
少年は最後にそう罵声を浴びせると、背を向けて走り去っていった。
残されたのは、凍りついたような沈黙だけだった。
エリアはその場に崩れ落ち、声を押し殺して泣き始めた。
その小さな背中に手を置くことすら、今の俺にはためらわれた。
どんなに美しい言葉を並べても、どんなに希望を語っても、現実は残酷に俺たちを追い詰める。
彼女が生きるということは、誰かが傷つくということ。その絶対的な事実は、決して消せないのだから。




