第10話:小さな温もり
カサンドラと別れた翌朝、エリアはすっきりとした顔で目を覚ました。
「……体が、軽い……」
そう言って不思議そうに自分の手を見つめている。カサンドラの治癒魔法が、想像以上に効果を発揮したらしい。熱は完全に引き、顔色にも少しだけ血の気が戻っていた。
「あの……昨日の、綺麗な女の人は……?」
「……もう行った。あんたに治癒魔法をかけてくれたんだ。感謝しておけ」
「はい……。とても、温かかったです」
エリアは、カサンドラが消えていった森の方向を見つめ、慈しむように呟いた。
カサンドラのおかげで、エリアの体調はここ数日で一番良い状態にあった。
俺は少し考えた後、彼女に提案した。
「……少し、歩いてみるか?」
「え?」
「あんたの足でだ。いつまでも俺の背中にいては、体もなまるだろう」
本当は、少しでもいい。彼女自身の足で大地を踏みしめ、自分の意志で歩くという感覚を、思い出してほしかった。それは、生きているという実感に繋がるはずだから。
エリアは一瞬戸惑った後、こくりと頷いた。
「……はい。歩いて、みたいです」
俺は彼女の脇を支え、ゆっくりと立ち上がらせる。エリアの足は、生まれたての子鹿のように震えていた。
「……焦るな。ゆっくりでいい」
俺の声に励まされるように、エリアは震える足で、一歩、地面を踏み出した。
たった一歩。
健常者にとっては、何の変哲もないその一歩が、彼女にとっては途方もない距離に感じられただろう。
エリアの額には、すぐに汗が滲んだ。
「はぁ……っ、はぁ……」
「無理はするな。今日はもう……」
「いいえ!」
俺の言葉を、エリアは強い意志で遮った。
「……歩けます。自分の、足で……!」
彼女は、俺の腕を支えにしながらも、再び次の一歩を踏み出した。
一歩、また一歩。
その歩みは、危なっかしくて、今にも倒れてしまいそうだった。だが、その瞳には、玉座に座っていた時には見られなかった、強い光が宿っていた。
結局、その日に彼女が歩けたのは、十数歩ほどの距離だった。
すぐに体力の限界が来て、俺は再び彼女を背負うことになった。
「……ごめんなさい。やっぱり、私……」
「謝るな」
俺は、背中で聞こえるか細い声を遮った。
「よくやった。大したもんだ」
俺がそう言うと、背中のエリアが息を呑む気配がした。やがて、俺の肩口に、ぽたり、と温かい雫が落ちる。
「……褒められたの、初めて……です」
嗚咽混じりの声が、くぐもって聞こえた。
俺は何も言わず、ただ、歩き続けた。
その日の夜、俺たちは小さな洞窟で火を焚いていた。
カサンドラからもらった情報を元に、ゼノンたちの追跡を避けるルートを選んでいる。おかげで、今のところは平穏だった。
俺が火の番をしていると、隣で体を丸めていたエリアが、もぞもぞと身じろぎした。
「……リアンさん」
「……なんだ」
「あの……寒く、ないですか?」
夜の森は冷える。火を焚いているとはいえ、一枚の外套だけでは心許ない。
「平気だ。俺は鍛えている」
「でも……」
エリアは何か言いたげにしていたが、やがて意を決したように、俺の方へとにじり寄ってきた。そして、俺の外套の裾をそっと持ち上げると、その中に小さな体を滑り込ませてきたのだ。
「……おい」
「……ごめんなさい。でも、二人の方が、温かいですから……」
俺の腕の中で、エリアは体をさらに小さく丸める。
確かに、彼女の体温が伝わってきて、冷え切っていた体が少しだけ温まるのを感じた。それ以上に、慣れない人肌の温もりに、俺の方が戸惑ってしまう。
エリアは、俺の胸に顔をうずめるようにして、小さな声で言った。
「リアンさん……ありがとうございます」
「……何がだ」
「全部、です。お城から連れ出してくれて、お祭りを見せてくれて、歩くのを手伝ってくれて……。私、魔王になってから、死ぬことばかり考えていました。でも、今は……」
彼女は、少しだけ顔を上げた。焚き火の光に照らされたその紫色の瞳が、まっすぐに俺を見つめている。
「今は、もう少しだけ……生きていたいって、思います」
その言葉は、俺の心の最も柔らかい部分を、静かに貫いた。
こいつは、生きようとしている。
余命一ヶ月という絶望的な運命を前に、それでも、懸命に生きようとしている。
俺は、衝動的に、彼女の小さな体を抱きしめる腕に力を込めていた。
「……ああ」
俺にできた返事は、ただ、それだけだった。
「もう少しじゃない。最後の一瞬まで、生きろ。俺が、付き合ってやる」
俺の腕の中で、エリアはこくりと頷いた。
やがて、すうすうと穏やかな寝息が聞こえ始める。
俺は、眠る彼女の顔を見下ろしながら、静かに誓った。
この温もりを、俺が終わらせるわけにはいかない。
たとえ世界中を敵に回しても、神にさえ逆らうことになったとしても。
この少女の命が尽きる、その最後の瞬間まで。俺は、彼女の側にいよう。
こうして、俺たちの旅の最初の十日間が、静かに過ぎていった。
これから先に待ち受ける過酷な運命を、まだ俺たちは、本当の意味では知らなかった。




